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第1話
俺がその犬に出会ったのは、バイト帰りに降られた雨の夜だった。ちょうど雨脚が強くなって、小止みになるまで待とうとシャッターが閉まった店の庇の下に留まった俺の前に、そいつはのそりと現れた。
「野良…じゃないよな」
ハスキーというより狼犬に近いかもしれない。真っ白な毛並みに鮮やかなブルーの瞳をした大きな犬だ。すごく美しい細工の立派な首輪をしている。
「ってか、こんなでけー犬自由に歩いてたらまずいと思うけど」
犬は好きな方だけれど、おっかないというのが先に立つ。口元から覗く牙は、俺の喉なんか簡単に裂くだろう。内心びくびくしている俺のことなど知らぬげに、犬が庇に覆われたスペースの隣に入ってきた。間近で見ると、半端じゃない大きさだ。サイズだけじゃなくて、妙な威圧感がある。
「お前も濡れるの嫌なのか…?」
意味がわかったわけでもないだろうが、犬が俺を見上げてぱさりと尻尾を振る。思い切って身をかがめ、そっと手を伸ばして背中を撫でた。ぱたぱたと続けて尾が揺れて、ほっとした。
「お前の飼い主心配してんだろーな。自分で帰れそうか?」
白くて硬い毛を撫でながら空を見上げて、いくらか小降りになってきたのに気づいて背を伸ばした。
「じゃーな。お前も早く家に帰れよ」
犬に手を振って歩き出す。アパートに着いて階段を上り、鍵を探りながら何気なく足元を見る。途端、飛び上がりそうなほどびっくりした。
「おわっ!」
さっきの犬だった。これだけの巨体でついてこられてよく気がつかなかったものだと自分でも感心するくらいだが、雨音に紛れていたからだろう。
「おま…、何でついてきてんだよ…」
思わず呻いたけれど、廊下の薄暗い照明の下でキラキラと輝くブルーの瞳に見上げられて「仕方ないな」と観念する。
「今夜だけだぞ…」
ペット可の賃貸住宅でもないのだ。美しい大型犬との生活というのは魅力的ではあったけれど、明日になったら警察に連絡を入れて引き渡そうと心に決めて、狭い玄関に犬を招き入れる。
「んーっと、そのままじゃまずいか。拭くから待ってろ」
「待て」くらいは理解できるのか、犬は大人しく留まっている。先にスニーカーを脱いで上がり、古いタオルを絞ってまず頭と背中を、それから4つの足を拭いてやった。
「よし、おっけー」
耳の後ろを撫でると、犬が尻尾をぱさりと振って部屋に上がった。
店の賄いがあるので、夕食は済んでいる。冷蔵庫からビールを取り出して、ごくごくと呷った。
「あー、うまっ」
労働の後のビールは最高だ。そう考えてから、ふと犬を見る。
「何か食うか?…ってもなあ」
ドッグフードなんて置いていないし、餌として調理した肉もない。ソーセージやハムを適当に与えるのもまずいだろう。しばし悩んだ末に、深皿に水だけ入れて床に置く。
「腹減ってたらわりーけど、何食べるかわかんねーしな。とりあえずこれお前のな」
クッションに座って、小さな棚からスケッチブックと鉛筆を引っ張り出した。
「ちょっとスケッチさせてくれ。お前みたいな綺麗な犬、そうそう見られるもんじゃねーし」
美大に進みはしなかったけれど、昔から絵を描くのが好きだ。水を飲んだ後はゆったりと寝そべった犬は好きにしろと言わんばかりで、じっくり眺めながら手を動かした。
「…うん、なかなかじゃん? やっぱ目だけでも色入れた方がいいだろうけど」
「上手いものだな」
描き上げたスケッチを自己満足しながら眺めていたら、低く艶のある声がした。反射的に顔を上げて、それまでいなかった人が傍らに膝をついているのに気づく。しかもそれはちょっとあり得ないような美貌の男で、現実味のなさに警戒するよりも呆然とした。
「な、なに…」
「ああ、驚かせたか。すまない」
そう言って彼が長く白い指で肩にかかる白銀の髪を払う。瞳の色はサファイアのような美しいブルーだ。勝手についてきた犬と同じ色彩だと考えて、犬がいないのにようやく気づいた。狭いアパートの一室だ。スケッチに没頭していてもあの図体で歩き回っていたらわかるはずだ。それでも一応ベッドの下を覗き込み、小さなキッチンスペースやユニットバスを見て回る。右往左往する俺を、突然現れた男は腕組みして見守っていた。
「気が済んだか?」
黙って見上げると、彼が肩をすくめる。
「まあ、犬が人に変化するなどとは信じがたい話だろうが…」
いきなり核心を突かれた。犬がいなくなってかわりに人が現れたら同じものだろうという結論になるのかもしれないけれど、そんなのはあくまで空想上の物語だ。到底受け入れられなくて、思考がさまようままに口が勝手に動く。
「証拠…」
「そうだな、見せられるのはこれぐらいか」
男が首飾りを持ち上げてみせる。ぴったりとしたパンツもチュニックのような裾の長い服も黒一色のシンプルなもので、その分ただひとつ身につけた首飾りの細工が際立って見える。確かにそれは、犬がつけていた首輪と同じ…ただもう少し長めに造られたもののように見えた。しかし、それはそれ、これはこれ。現代の日本に住む俺が一足飛びにファンタジーを信じられるかというと、答えはノーだ。
「えーっと…外国の人ですよね? 何故日本に?」
とりあえず言葉は通じるようなので会話を試みる。自分が陥った状況は今ひとつ理解できていないけれど、できれば平和に出ていってほしい。
「そうだな…話せば長くなるが、私の先祖は惚れっぽかったようでな。我が一族が暮らす北の地に探検隊が来た際に、隊員の1人に惚れてついて来てしまったと聞いている」
「は、はあ」
…意外と俗っぽい理由だった。
「他に聞きたいことは?」
何故だか彼は楽しそうだ。サファイアの瞳が笑みを湛えている。
「そうですね…それ、すごく綺麗な首飾りですけど、代々伝わるものなんですか?」
「ああ、そうだな。こう見えてけっこう年代物だ。仕舞い込んでいても意味がないから身につけているが、手入れはきちんとしている」
「へえ…」
首飾りを改めて眺めてから、本題を思い出す。
「それで、なんでここに?」
「ふむ」
美貌の男にしげしげと見つめられると落ち着かない。
「惚れっぽいのはどうも遺伝しているようでな。早い話が一目惚れだ」
「一目惚れ…っ!?」
ぽかんと目と口を開けて呆けている間に、あろうことか押し倒された。床にひっくり返った俺に彼がのしかかり、綺麗な顔が間近に迫ったかと思うと熱い息が首筋に触れる。
「いやいやいや、話が早すぎでしょっ!?」
「惚れたらまずは既成事実を作るのが先祖代々の習慣だ。悪く思うな」
「ま、待てって、ちょ、うあ…っ」
…既成事実を作られてしまった。しかも男に。さらに最低なことに出会ったばかりの名前も知らない奴に。
ぐったりとベッドに寝そべったまま落ち込んでいる俺の内心をわかっているのかいないのか、さっきまでさんざん好き放題していた男は床に座って俺の頭や背中を撫で回している。
「…気が済んだんなら、出てってくれませんかね」
「何故だ? 私はそんなに薄情な男ではないぞ。一度契った相手には誠を尽くす」
「誠って…そーゆーのいいんで。名乗りもせずにやるとかないでしょ、フツー」
「これは…私としたことが順番を誤ったようだ。すまない」
意外と素直に謝ったと思いながら横目で窺うと、彼は跪いて俺の手を取った。
「あの…?」
「私の名はサウザー。今は各地に離散しているが、一族の王の末裔に当たる。犬の姿の時は、シロでもポチでもそなたの好きに呼んでくれ」
「ポチって…似合わねー!」
思わず噴き出すと彼が微笑んで、その次の瞬間には男の姿はかき消え白い狼犬がパタパタと尻尾を振っていた。否応なしにただ事実を「信じろ」と押しつけられたようで、消化できない感情を胸に「勝手な奴」と眉を寄せる。
「やるだけやって消えるってないだろ…まだ名前しか聞いてないってのに。しかも俺は名乗ってないし」
犬がペロペロと手のひらを舐める。
「あーもー、だからここペット禁止だし、シェアにしたって余分なスペースないし、どーしろってのほんと」
ひとまずそれ以上考えるのを放棄して、俺は現実逃避という名の眠りの世界に飛び込むことを選んだのだった。
終わり
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