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第1話
『ライ麦畑でつかまえてを読んで』
一寸も違うことなく並んだますめに書かれた自分の字を眺める。
15分近くそれを見つめているが、1時間たっても自分が何かしないことにはその文字数が増えることもないぐらい分かっている。 しかし不思議なもので、ずっとそれを見つめているとそれはそれで立派な『作品』に見えてくる。 あとは名前だけ書いてこのまま提出してやろうか、などと思うようになってくる。
最低二枚書けだと?!冗談じゃない。本は好きだが読書感想文なんてものはクソくらえなのだった。
そんなことを思いながらシャーペンを片手でクルクルと回していると、額に張り付いた前髪の間をぬって汗がパタリと原稿用紙に落ちてきた。
「……、あーあ」
それ以上紙が汗を吸ってふやけないようにと拭うためのティッシュを振り返ったが、それがあまりにも遠くにあるように感じ諦めて新しい紙に取りかえることにする。
半ばうんざりしながらも、片手に置いていた本を手に取る。
結構な読書家である兄に以前から借りていた本の作者はずいぶん有名らしく、その作者の評論、というかその手の『攻略本』なるものがざくざく出ているらしい。 手にした分厚い本はいわゆるそれで、別に俺が頭を痛めて書けもしない言葉文句を考えられなくとも、簡単に教師に感想文を提出できる文章がたくさん詰まっているのだ。
がしかし、そんなチートまがいの真似なんて俺はしない。あくまで参考までに、なのだ。
だからちゃんと長々しい作品も最後まで読んだし、訳の分からない言葉も概念も理解した。
男子たるもの、そんなせこい真似、するものか。
(あーでもなあ、あいつならしそう…)
脳裏に軽薄でちゃらい釣り目の男の顔が浮かぶ。伊勢原裕也。
こいつを紹介するとき自分の何と形容すればいいのか悩む。知人?友人?腐れ縁?…親友?
いやいや親友てそんな。はずかしーな俺も。なんか…こう、もっと…。
面倒がって現実逃避をしたがる脆弱な精神をたしなめてまた新たに机に向かう。
楽をしたい気持ちと自分を戒める心の間で揺れながらノロノロとページを捲ろうとすると、加工された紙の上に、またパタリと汗が零れ落ちた。 髪をかきあげても滲んでくる汗に集中力が欠けていく…いや元々なかったのか。
「書けるもんも書けねーって」と一人愚痴をこぼして、持っていた本を机の上に放り出した。 ギシリとよっかかった背もたれにも自分の熱を感じ、またうんざりする。
窓の外では、もう慣れたセミの声が響いている。 輝く太陽、強い日差しに照らされる木々は、緑の葉を青々と茂らせている。
そんな景色を前にして悪い気分にはならないが、この高い気温であれば別だ。
何より昨日の晩から風もろくに吹かない。 こんなサウナの中に居たら頭がいかれてしまう。かといって外へ出て何をすることもないし。
だらしなく椅子にもたれ、そのまま滑り落ちるように床に転がる。 フローリングの板は少なくとも座っているよりは涼しくて、そのまま両手足を広げて仰向けになる。
下から世界を見上げると、どんな見慣れた部屋だって別世界に見える。
そんなことに気づいたのはいつのときだったろう。
動かす目玉にクーラーが映るが、何をしようとも思わずにそのまま素通りした。
やはりとどまるのは真上の天井で、白い世界を馬鹿みたいに見つめる。
外にはセミの声。
これって、俺ちょーヒマって感じ?
そう思ったら何となく嫌な気持ちになったが、俺は起き上がることなく転がったまま動かった。
やることは結構あるのだ―――ほぼ夏休みの宿題と称するプリントの山だが。
夏休み開始の一週間で全てやっつけてしまおう、との意気込みも虚しく今に至るが、なんにせよやりたくとも体が動かない。いやその前に、その山をやりたいとも思わない。 向かっていた読書感想文もクソだ、いっそふやけて破れてしまえ、つまりは無気力が今の自分の状態なのだ。
それも仕方のないことだと思う、こんなサウナの中、どこのどいつが真面目に机に向かえるというのか。
だからといってクーラーをギンギンにきかせて漫画でも見ながら時間を潰す…ってのも、かなり俺は嫌だった。 だってそれでは、本当に暇すぎてやることなくて、まるで生きてる気がしない、っつーか。
ミーンミーンなんて忙しく鳴いているセミが今では羨ましい。
「ああ……ヒマ…」
いってから、あ、しまった、と思った。
考えるより先に口から出てしまう、全身で感じていることが。
「あー…あああ…」
俺の熱が移った床をゴロリと転がって移動する。
スゲースゲー暇。
いってしまったら声でなくとも体中で言葉がのたのたと浮かんでくる。 つまんねーとかヒマだーとか。
暑さも手伝ってどんどん頭ん中がカラッポになっていくが、今更クーラーを付けようなんて気に障る。
はーあち…つまんね…くそ、はあ……。
無気力を絵で描いたような格好で、それに違わぬことを考えて。
こんなに暇でやる気なくて死にそうなのは、中学の時以来だ、とボケーっと思った。
―――そうだ、あん頃はこんなこと毎日思って、考えてたよーな気がする。 やりたいと思えるもんなんて何一つなかったし、色気づいた仲間の話す色恋沙汰にも興味なかったし。
そんなことを思い出してると、結局残ったのはよくつるんでた、今となっては疎遠になってしまった友人の顔と、時々遊んだゲームセンターや母校の裏手の山、そして何とはなしに育てていたサボテンだけになった。
我ながら、なんとも淡白で質素で、思い出の少ない中学時代だ、と思う。 それだけ思い入れた物なんてなく、毎日学校から真っ直ぐ家に帰って、時々誰かと遊んだりはしたけど……。
どーやって俺は、このもてあました『暇』を処理してたんだろう?
そーいや俺、反抗期なんてあったっけ?
そんな大昔のことでもないことを、俺は思い出すことが出来ない。
こんなに真っ先にサボテンなんかが出てくるなんてちょっとどうなんだ俺は。健全な中学生がかまけてるのがサボテン……サボテンかあ。まあかわいいんだけど。あれいきなりでっかい花が一輪咲くのが豪快で笑えて好きなんだよな……いややっぱりどうでもいいや。
窓際に並んだサボテンエリアに目を移す。大小問わずいくつも並んだサボテンの群れ。
伊勢原が前にこの部屋に来た時も、うわ…っという顔をしていたのを思い出す。
いやあいつは実際口にも出してたな。
うわー小林これサボテンの量なにこれうわ。ちょっと引くわ…。
(なんか今さら傷つくな!?)
伊勢原が言ってたみてーにあの頃の全てをサボテンに注いでたからか俺は?!!
体を少しずらせば、遠くに太陽の光を反射してキラキラ光るサボテンが見える。
んなわけないっつーのとツッコミながらも、引き続いて俺は意味もなく伊勢原のことを考えた。
俺は伊勢原の中学の頃なんて知らないし、別段知ろうとも思わない。 それはあいつも同じだろう、昔のことを知ったって別に何がどうだってことになりはしないんだから。
ただ、あいつと一緒に居ると退屈することはないのだ。
そう、今、あいつと一緒に居る今が大切ということなのだ。
今、伊勢原が居て、横で笑っていられて……伊勢原と一緒に居ることが。
そこまで考えて、ハッと自分の考えたことを反芻してみる。
何やらすごい変なことを言ったような気が…昔のことはどーでもいいとか、今が一番とか、伊勢原と居ることが……とか……、?!
「…何、いってんだ……」
頭煮えてるなあ俺。暑さのせいでとうとう頭まで溶け始めたのか、深く思いふけ過ぎたのか。 とんでもない科白を(言わずとも)よく思い浮かべられたものだ…思い出してる今になって顔の温度が急上昇してきているというのに。
今では体よりも顔の暑さの方が気になって、思わずクーラーをつけようかとまで思ってしまった。
ああもう。
暇過ぎるのもあまりよくないようだ、余計なことを深く考えすぎる。 変に体温も上がってくるし…また汗ばんできた床に、ゴロリと体を移動させる。
無心だ。無心を極めるんだ。
そう心に呟くと、俺は目を閉じて無になるつもりで静かに横たわった。
聞こえてなかったセミの声が、またやかましく耳に届く。
じわり、と滲んでくる汗の雫。 車の音、太陽の日差しに反射する光を思い浮かべる。
また、うとましく夏の暑さとだるさとの無気力感が俺を襲う。
「……あー……」
暇…つまらん……。
無心となり浮かんでくる、とりとめもない言葉を無心のまま呟いていると…何故か、伊勢原の顔が浮かんでくる。
んん、何なんだ?と訳もわからず眉を顰めていると、自然答えが浮かび、顔が徐々に赤くなってきた。
あんなことを考えた後でヒマとかぼやいていると、まるで伊勢原に会いたがっているみたいだ、と思ったことに気づいたからだ。
さっきから暇だのつまらんだの…そんなことを呟いてたすべての自分の科白が「伊勢原に会いたい、ああ会いたい」といっていたように思えてきて、また顔が赤くなってくるのを感じた。
まるでこれでは自分が伊勢原に恋慕らせているようではないか…そんな自分のおとめ思考に、更に頭が可笑しくなってくる。 …ヤバイ、どうにかしないと、本当に可笑しくなってきた… 。
…いや!別に、俺はおかしくなんかない!!
伊勢原といれば退屈せずに遊べるからだ、そうだ、俺もまだ遊び盛りの少年なのだから!!
今までのマイナス、というか可笑しな考えを打ち消して無理にそう納得してしまえば、別に赤面するほどのことじゃないのだ、と思えてくる。
実際そうなのだ、友人に会いたいと思うのは実に自然なことではないか。
そうだそうだよ、なーんだよもう。
俺はなんだか安心して、手を横に広げる。
さっきよりずっと気持ちがスッキリして心地よい…なんだ、風が出てきたのか?
「コラコラ小林少年!何てめー蒸し風呂ん中で寝てんだよ!!」
突然、声が降ってきた。
驚いた俺は目ん玉が点になる。
「……………は?」
「起きろ起きろ、おらあ!!」
ドカッ!と素足に蹴転がされる。 その痛みも忘れて、俺は思わず声を荒げてそいつを見上げた。
「いっ伊勢原?!お前っ、何でここにいんだよっ?!!」
心底驚いて目を白黒させている俺の顔を、またその汚い足の裏がガシリと踏みつけた。
「ばーか、涼みに来たに決まってんだろ!なのにお前クーラーつけもしねぇで死んでやがって…。ったく暫くオレが目ぇ離すとすーぐぼけぼけすんだからな!こんなあっちィ中ふつークーラーくらいつけてんだろ。風も吹かねー時に窓開けただけで部屋にこもりきりって熱中症になったらどーすんだよ!暇そーに寝っ転がってさー、案外オレ来るの待ってたりしたんじゃね?」
伊勢原はそういいながらも口を開けたまま動かない俺をまたいでクーラーをつけ、窓から顔を出してシャツのすそを仰ぎながら、まだ口を開けている俺を振り返った。
何ともタイミングが良い上にグザグザと随分なことをいわれ、しかも何気に当たっていたりする。
何なんだコイツは、と何も言えずにただ見ていると、伊勢原の顔がニヤリと歪んだ。
「…なーにその顔?あ、もしかして図星なの?
……コバヤシくーん、今、オレのこと考えてたんだあ?」
ニヤニヤとした口調で更に言われムカっとする。 こんなとき俺がどんな反応するか、奴のことだからとっくの承知で性格悪そーな顔で笑ってるに違いない。
そう思うと更に悔しくて、奴をどうにかしてやろうと俺は無言で考える。
「…おおそうなんだよ。ちょうど俺、お前のこと考えてたんだよ。んもーすげー会いたくてどうにかなりそーだった……おせーよ、会いたかった、伊勢原」
…なんて、普段考えつかないおそろしい言葉が、随分情感たっぷりに自分の口から流れ出す。
更に語尾にハートマークまで付けたのがはたして効いたのか。
チロリと見上げて変な顔をしている伊勢原を見つけ、俺はまた心底驚かされる。 何もそんなに、驚くことないではないか、そんな茹でだこのように真っ赤にならなくとも。
なんだよ、俺を馬鹿にしてんのか?と怪訝な顔で伊勢原を伺うと、伊勢原の表情が一変して不敵な笑みに変わった。 なんだ、と聞く間も無く伊勢原が笑いながら言う。
「…あー、お前そんなに俺に会いたかったの? ったく、小林にモテても困んだけど」
ニヤニヤ、と自分が優位だと誇る確信的な悪魔顔に思わず青くなる…嫌な予感…。
「ちょ…何、だよ、」
「あ?お前が誘ったんだろ」
「あ、あちーだろ、近づくなって、」
「だいじょぶだいじょぶ」
リモコンには13℃の文字。
「げっ、ちょ、おまえ何勝手に!待っ……!」
「うんうん、これでくっついても大丈夫だな!コバヤシ!!」
「どっっっこ触ってんだてめーーーーー!!!1」
……まったくこいつが関わるとなると、毎日が憂鬱ですてきな日々なのだ、ほんとのところ。
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