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第1話

「……例えば」  男の告解は唐突に始まった。 「俺が罪人だとして、目の前にもう一人罪人がいるとする」  狭い部屋の中で男の話は密やかに紡がれる。祈りのために組まれた両手は微かに震えているが、それを知ることが出来るのは男自身だけだった。告解室の中にいるのは男ひとり。木製の古びた丸椅子に座る男の目の前には、目隠しのための金網が取り付けられた小窓がある。小窓には木製の開き窓が取り付けられていて、告解をしている今はその窓が開いていた。その向こうには神父がいるはずだ。神父は告解を聞き、迷う人に神の教えを告げる。そしてその告解を父なる神に伝え許しを請うのだ。  告解は静かに続く。  小さな田舎町の教会は町のはずれにひっそりと佇んでいた。しなびた、といっては語弊があるが、若い者はみな都会へと赴くことを夢見るようなありふれた田舎町では唯一の礼拝所だった。村の人々は信心深く、神への祈りが耐えることはなかった。誰もが幼い頃から教会へ行き、神の教えを学び、神を愛し、神と共に生きている。  しかしもしここに村の人間がいたなら、こう言っただろう――こんな声の男、この村にいただろうか――と。  暮らしている皆がみんな、顔見知りといったような小さな村だった。村に知らない人間なんて一人もいないと、皆が思っていた。しかしこの男の声を聞いたことがある人間は一人もいないだろう。否、このあたりの地方では珍しい燃えるような赤い色をした髪も、湖面の上澄みを掬ったような淡い瑠璃色の目も、誰一人として見たことがある人間はいないだろう。 「俺は自分が罪人だと分かっていて、目の前の罪人を裁く……これは罪ですか。罪人が罪人を裁くのは、ひとつの罪の終わりなのですか、それとも新たな罪のはじまりなのですか」  男の声は淡々としていて、まるで告解をしているようではなかった。もしかしたら、男は告解のためにここを訪れたのではないのかもしれない。そう思えるような口調だった。  しばらく、沈黙があった。  男は祈りのために組んでいた手をくずし、立ち上がる。教えを請わず部屋を後にしようとした、その時だった。 「神は」  金網の向こうから、声が聞こえた。声は若く、低く、そして男が思わず足を止めてしまうほどに、美しかった。 「神は人に罪を与えない」  男は振り返ると、小窓を見た。  質素だが手の込んだ飾り格子の窓からは人影はうかがえない。 「神は人を許す」  ゆっくりと、さっきまで座っていた丸椅子に腰掛ける。 「裁きを下すのは、罪に対し罰を与えようとするのは、悪魔の所業だよ」  いつまでも聞いていたいと思うほど、声は澄んでいる。男は言葉の内容よりもただその音に導かれるように、その手を金網に伸ばした。指の腹でゆっくりと、その冷たい感触をたどる。 「罪人の分際で自分ひとりが救われようだなんて、おこがましいとは思わないかな」  そしてその手のひらをゆっくりと金網に押し付けた瞬間、その手を掴まれた。金網は2重になっていて小さなその窓の、向こう側からこちらが、こちら側から向こうが、けして見えないようになっている。けして弱い作りのものではない。その金網を突き破り、白い手が、男の手を掴んでいる。  引くのが遅れた男は、ただされるがままに手を掴まれ、呆然としている。 「シオン」  男はびくりと身を竦ませる。美しい声、白い手。男は今、頭の中でこの小さな窓の向こう側にいる相手の顔をはっきりと思い浮かべていた。シオンと、優しい声で呼びかけるその声の主を。 「魂も罪も分け合ったお前が一人、救われると、本気で思っているの」 「にい、さん」  金網を突き破る時にどこかに傷をつけたのだろう。手首を伝い指先から、掴んでいるシオンの手にまで、ゆっくりと赤い血が伝ってくる。掴んでくる手は冷たくまるで屍のようだった。 「あの時の目覚めは最高だったよ、シオン」  死にたくなるくらいにね。そう言って窓の向こう側の声はひっそりと笑った。  兄が、兄が死んだのは5年前のことだった。十五歳だった。これから美しく花開くであろうはずだった彼の人生は、運命という手に手折られたのだ。兄は美しかった。多分シオンにとって、誰よりも何よりも美しかった。  そしてシオンは兄の損失に耐えることができなかった。兄の墓を暴き、大いなる命の循環の輪から彼の魂を無理矢理呼び戻した。朽ちようとしていた兄の体が生前どおりの、いや、それ以上の美しさを持って目覚めたときの歓喜を忘れられるだろうか。 「お前の噂はこの田舎まで聞こえているよ……悪魔祓いごっこかい」 「俺は、……おれ、は」  ここ数年、王都の魔術師を中心にあるひとつの文献が世間をにぎわせていた。それは死んだ人間を蘇生させる、人体生成の邪法だった。その文献どおりに術式を展開すれば、死者を蘇らせることができるという。  もちろんそれは噂だけに終わらなかった。  どこかしらからその文献を入手し呪われた蘇生法を行った者が、少なからずいるらしいのだ。多少の力のある魔術師なら行使できる術式だ。しかし多少程度の魔術師には、その文献の不完全さを見抜くことはできない。  そう、その文献は不完全なまま世間に広まっていた。  その文献を元に行われた外法によって作られた人間はまず生前と同じ姿になることはなく、まるで幽鬼のようだという。自分の意思というものがなく、ただ何かに取り付かれたようなのだと。眠ることも食事をとることもせず、ただぼんやりとしていて、街を彷徨ったり、場合によっては人を襲うこともある。  その生ける屍は、死ぬことも殺すこともできない。歪んだ命の循環に無理矢理組み込まれた体は、永遠の蘇生を繰り返す。唯一その存在を無にかえすことができる方法は、その生ける屍を作り上げた呪法自体だった。そしてその方程式を読み解けるのは、シオンただ一人だった。五年前からずっと、彼は一人で旅をしている。王都を中心に生ける屍が街に出没するようになってからは、彼らを死の世界に返しながら、旅を続けている。  五年前、術式を行った直後に行方不明になった兄を探すために。 「俺は、貴方を愛していた」  生ける屍を作り上げる文献を書いたのはシオンだった。シオンは兄が消えた直後、それを王都礼拝廟の特別祭壇に預けた。それが何者かの手によって盗まれたのだろう。シオンがそれを処分することができなかったのは、その方式のひとつひとつが、兄を作り上げるものだったからだ。その数式の、異界の文字列の、その組み込まれた魔法陣の、ひとつひとつすら、愛しかったからだ。  血の伝う手を見ながら、シオンは一筋の涙を流した。  兄を、そしてたくさんの人間の死をもてあそんだシオンの罪は重いだろう。シオン自身、救われようだなんて思ってなかった。今すぐ死んで生きながら地獄の業火に焼かれ、永遠の苦しみを味わったくらいでは罰としては少ないくらいだ。  だがしかし、シオンにはやらなければならないことがある。 「……ぼくも、」  いたずらに蘇らされた人たちを、そして兄を、再び眠りにつかせなければならない。それはあの文献を書き上げたシオンだけができることだった。  血に濡れた白く冷たい手が、ゆっくりとシオンの指に自分の指をからめる。二人で、まるで祈るように手を組み合わせる。シオンはその手を振り解けない。二人の手の間で冷えた血がねばる。 「愛してるよ、シオン」  睦言のようにそうささやく兄の声は、やはり美しかった。 ウイルス フリー。 www.avast.com

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