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老いらくの恋

 知恵蔵の腕の中で、満潮音は小さくため息をついた。 「なんだか君に悪いなあって思う」 「なにがだ」 「君がベッドの中で、こんなに甲斐甲斐しく僕に尽くしてくれて、翌朝もこんな風に君に甘えていられるのが、幸せだなと思って」 「それのなにが悪いんだ」 「僕はこういう朝を、君にプレゼントしてこなかったなと思って」 「そんなことを気にしてたのか」 「否定しないの」 「おまえにそういうことを要求してないから、別にどうでも」 「ひどいなあ。僕のこと、なんだと思ってるの」 「可愛いと思ってる」 「え」 「おまえのこんな顔を私しか知らないと思うと、それだけでたまらない」 「知恵蔵……」 「そんな声を出すことも知らなかった。こんなに長く、一緒にいるのに」 「嬉しいの、それ」 「もちろんだ」  抱きしめられて、満潮音はもう一度ため息をついた。 《悔しいなあ》  その心の声は、もちろん知恵蔵には聞こえていない。    満潮音純と門馬知恵蔵が知り合ったのは中学生の頃で、そういう意味では幼なじみだ。大学で再会し、そして社会人になって再び再会して一緒に探偵事務所を始めた。満潮音が何度か留守にして、たびたびのブランクはあるものの、公私ともにパートナーとなって、二桁の年数が経過している。  満潮音は年齢を超越した美貌の持ち主だが、すでに老いの兆しは見え始めている。正直、圧倒的な力の差で、常に知恵蔵を組み敷いてきた彼が、こんな年齢になってから抱かれるようになったのも、痴話喧嘩がきっかけだったとはいえ、いろいろと弱ってきているからに違いない。  探偵業もいつまで続けていられるものかわからない。保守系議員の息子として育ち、食うに困らないだけのものはすでに持っている。今の仕事はしょせん、お坊ちゃんの道楽で、そもそも始めた目的も動機も失われているが、さりとてやめてどうするという当てもない。なのでパートナーとしてつきあってくれている知恵蔵には、申し訳ない気持ちがある。むいていない仕事をさせていると思うし、ゲイの自分と再会しなければ、もしかしてそろそろ、初孫ぐらい抱いていたかもしれないからだ。  もちろん、満潮音から誘惑したわけではない。十代から大事な友人であったからこそ、違う道を行って欲しいと思っていた。しかし知恵蔵は、自分からこちらの世界へ飛び込んできて、満潮音に抱かれた。男同士のことなど何も知らないのに、思春期を過ぎてもひたすらに思ってくれていた彼を、満潮音も他の人間に渡したくないと思った。  彼だけは、自分をひとりの人間として見てくれるから――満潮音の美貌にも資産にも背後にある権力にも、何の興味ももっていない。そして魂のゆがみまで丸ごと受け入れてくれる。悪いことをすれば叱りさえしてくる。抱かれると快楽にのたうちまわるくせに、終わった後は何でもないような顔をして、ベタベタと甘えてこない。  若い頃は本当に愛されているのか不安になって、ずいぶんとひどい試し方もした。それでも知恵蔵は必ず待っていてくれたし、態度を変えることもなかった。だから愛されているのはわかっていたのだけれども、自分が抱かれるようになって、満潮音は新たな情感に戸惑うようになった。 《抱かれるって、こんなに、気持ちのいいものだったのか》  知恵蔵は器用な男ではないし、性戯もまだ巧みとはいいかねるが、とても優しく触れてくれる。後始末まで丁寧で、いい気持ちにさせられる。もっといやらしいことして、もっと強く抱いて、とらちもなくねだると、恥ずかしそうな顔をしながら、その望みを叶えてくれる。身も心も愛されていると感じ、甘い満足感に包まれる。 《まいったな、昔より今の方が君に夢中だなんて……欲しくてたまらないとか……》  しかし自分は、知恵蔵が欲しいものを与えているのだろうか。 《本当に僕は空っぽで、ありがたがってもらえる中身がない》  満潮音が持っているほとんどのものに、知恵蔵は興味を持たない。しかるべきところに行く時は、さすがに満潮音の仕立てた服を着ていくが、贅沢をしたいという欲求はほとんど持っていないようで、彼に任せておくと衣食住は質素なものになる。誰もが見とれる満潮音の美貌にさえ、あまり関心はないようで、いったいどこをそんなに気に入ったんだろうと、時々不安になる。十代の頃、不良に絡まれた知恵蔵を一度助けたことはあるが、そのあと何十年も恩義を感じてもらえることをしたわけではない。もちろん、単純な感謝の気持ちは残っているかもしれないが、満潮音が己の権力で不良を追い払ったことにも、たぶん気付いていないだろう。そういうことにとことん疎いからだ。いや、疎いからこそ好きなわけで…… 《せめて、もうちょっと気持ちよくなってもらうかな》         *      *      *  シャワーを浴びてベッドに入ろうとした知恵蔵は、カバーが新しいものに掛け替えられているのに気付いた。とてもなめらかな肌触りだ。敷きパッドも柔らかくなっている気がする。満潮音が新調したのだろう。寝室にはなんとなく甘い香りが漂っていて、なんだこれは、と思っていると、ローブ姿の満潮音が入ってきた。 「今日は優しくするからね」 「え」 「いやかい」 「いや」 「もしかして、泣かせちゃうかもしれないけど」  知恵蔵は目を伏せて、 「おまえの好きに、泣かせればいいだろう」 「いいんだね?」  快楽を引き延ばすために、徹底的に焦らす。  いつもは獲物を逃さない肉食獣のように、最初に急所を抑えこんで言うことをきかせるが、今晩はそのポイントを少しずらす。長年抱いてきてどこを感じるか熟知している満潮音には、さほど難しいことでななかった。  知恵蔵の反応がいつもと違う。声の出方も。戸惑いながら感じている。その快楽が幾重にも重なると、最終的に爆発的な快楽が…… 「満潮音」  突然、知恵蔵の腕が、満潮音の身体を押し返した。 「どうしたの」 「すまない。やめてくれ」 「えっ」  している最中に拒否されたのは初めてで、満潮音が凍りついていると、 「おまえが何をしたいか、なんとなくわかるが、いつも通りにしてくれ。怖い」 「怖い?」 「別な人間に抱かれてるみたいで」 「僕は僕だよ」 「わかってる」 「こういうの、いやなんだ?」 「おまえがどうしてもそうしたいなら、我慢するが」 「……そう」  満潮音の落胆を見ると、知恵蔵はその首に腕を絡めて、 「どうしてもいつもと違うことがしたいなら、終わった後、しばらく、そのまま、抱いていてくれ」 「君はそうして欲しいの?」 「ああ」 「じゃあ、それまでは、いつも通りにするから、安心しててね」 「え、あ、ああっ」 「ふふ、君はホントに敏感だね。たっぷり泣かせてあげるよ」        *      *      *  満潮音に触れられると、知恵蔵の身体はいつもピン、と緊張する。快楽に支配されている間、時々呼吸すら忘れている。  しかし、この日は、終わった後もしばらく抱きしめていると、その緊張が緩んできた。 「大丈夫?」 「ああ」 「君、余韻を楽しみたい派だったんだね」 「そういうわけでも、ないんだが」 「じゃあ、なんであんなこと言ったの」 「おまえ、いつも私に、終わった後は涼しい顔をしてる、とか言うだろう」 「だってそうだよ」 「どう見えてるか知らないが、別に毎回、涼しい顔してるわけじゃない」  知恵蔵は満潮音の背中に腕を回し、 「昔、私が義理で見合いに行く、といったら、おまえ、私のこと、めちゃくちゃに攻めたろう」 「ああ、そんなこともあったっけ」 「翌日、丸一日、おまえにされた愛撫を思い出して、ぼうっとしてた」 「激しいのが好みなんだね」 「まぜっかえすな。おまえが焼き餅をやいたのかと思ったら、満たされたというか、幸せな気持ちになったんだ」 「そうなの」 「おまえはいつもポーカーフェイスで、何を考えてるのかちっともわからない時の方が多い。強引だしマイペースだし、何度も私を試すし……私のことはせいぜい、お気に入りのおもちゃぐらいのつもりかと腹がたつ時もあった。でも、おまえは私を、他の誰かに渡したくないんだ、と気がついたら、震えがくるほど嬉しかった。私はおまえにとって、そういう存在になりたかった」 「知恵蔵」 「私の願いはいつも一つだ。ずっと隣にいさせてほしい。おまえが私の身体に飽きても、友人として、そばにいたい」 「ねえ、もしかして、僕に抱かれるの、ほんとはそんなに好きじゃない?」 「そんなわけ、あるか」 「好きなの」 「好きに決まってるだろう」 「抱くのと抱かれるのと、どっちが好き」 「どちらかといえば、抱かれたい」 「こっちからねだらなくても、僕を抱いてみたいと思うこと、ある?」  知恵蔵の声が低くなる。 「……ある」 「ほんと?」 「抱かれてる時のおまえが、すごく可愛い時があって、それを思い出すと……」 「なんで恥ずかしがってるの」 「いや、いい年して、何を言ってるのかと」 「君らしくて、僕は好きだけど」  知恵蔵は顔を上げて、満潮音の瞳をのぞきこんだ。 「だから、おまえは、そんなことを気に病む必要はないから」 「何の話」 「おまえに抱かれた翌朝はちゃんと幸せだから、何か悪いなとか思わなくていいから」 「それを言いたくて、抱いててくれって言ったの」 「そうだ。肌をあわせてる時でないと、おまえが信じないかと思って」 「でも君、トロットロになってないよ」 「なってる……腰が砕けてて、力が入らない……」 「そうなの」 「だから、いつも通りで十分以上だから……いや、おまえが試したいなら、別にいいが、できたら、少しずつならしてくれ」 「そうするよ」  満潮音がトントン、とあやすように背をなでると、知恵蔵はため息をついて、 「私だって、悔しいと思う時はある」 「なにが?」 「おまえの屈託とか寂しさとか苛立ちとか、ぜんぶ癒やしてやれたらいいのに、と」  満潮音の動きが、一瞬とまった。 「……そう見えるの、僕?」 「想像もつかないほど、いろいろあるんだろう?」 「ないことも、ないけど……あれっ」  急に声が詰まって、満潮音は驚いた。にじみ出してくるものをこらえるように目を瞬かせて、知恵蔵に口づけた。 「ありがとう。今ので、じゅうぶん、癒やされたよ」   

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