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第1話

 世の中、夫婦仲の悪い家庭というものは、案外存在しているものらしい。  隣の部屋から怒鳴り声と金切り声の喧嘩の声が聞こえてくる。  ベランダで受験勉強の休憩を取りながら聞くともなしに聞いていれば、今度は自分の家の中から両親の口論いが聞こえてきて、溜息をつきながら耳を塞いだ。  あの子は、今、どうしているんだろう。  隣の部屋にすんでいる、たった六歳の少年を思って、痛む胸を押さえた。  最初はただの好奇心だった。  この子の家に比べたら、ウチはまだましだ。あんな怒鳴り声の喧嘩はしていないのだから。  そんな、自分より下があるという安心感と優越感で声をかけただけだった。こんな小さい子がかわいそうにと、自分の環境を納得させるための材料だ。  だからあの時、ことさら優しい声を出して、俺は公園で所在なさげに立ち尽くすあの子に、声をかけた。 「君、田所さんちの子だよね?」  おどおどとした様子で俺を伺うあの子との出会いは、決してあの子を心配してのものではなかった。  柄の悪いあの夫婦の子供とは思えないおとなしさで、あの子は俺についてきた。いつも家から出されているあの子は、大抵公園の前でうろちょろしている。それを見つけるのは簡単だった。だから本当はどうでもいいのに、心配しているふりをして声をかけた。  あの子といる時は「これよりましだ」と思うだけで寛容になれる自分が気持ちよかった。  その関係に変化が出始めたのは、あの子が俺に気を許すようになってから。 「りゅーちゃん!」  いつの頃からか。  あの子は俺を見つけると、そう声を上げてキラキラした笑顔を向けて駆け寄ってくるようになっていた。  口下手なあの子が、一生懸命他愛のない話を伝えようとしてくる。 「りゅーちゃん、だいすき」 と、両手を広げて俺の腰にしがみつくように抱きついてくる。  体全身で愛情を向けてくるようになったあの子が、かわいくてたまらなくなったのは、向けられる愛情に飢えていた俺には必然だったのだろう。  隣の家の怒鳴り合う声、ウチの中から聞こえる言い争い。それは、日に日に酷さを増してゆく。  俺はまだいい。両親の帰りは遅く、適当に自分勝手に出来るし、関わっても来ない。でも小学校に入ったばかりのあの子は昼間っから家にいる母親に八つ当たりされ、家の中に居場所もなく、夕方遅くまで外をさまようしかないのだ。  話を聞けば、最近は朝も晩も、まともな食事が準備されていることもないらしく、小さな細い体をしていた。人に触れられることが苦手らしいあの子は最初、俺が手を伸ばしただけでびくついていた。  俺自身、人とのふれあいはあまり好きではない。けれど興味本位で小さい子への対応を調べた。どうすればいいのか、ネットで探してはいろいろ試した。  たくさん抱きしめた。膝の上にのせてあの子の話に耳を傾けた。膝に乗せて、額を寄せ合い、抱きしめて頬を寄せ合った。 「望はかわいいね」 「望が大好きだよ」  面白半分に、ネットに書いてあるとおりに抱きしめて、耳障りな良い言葉を囁いた。  そうしているうちに、あの子は俺とのスキンシップに安心するようになっていた。  今では「りゅーちゃんになでられるのはすき」と、笑って膝の上に乗る。すっかり甘えて、すぐに膝に乗りたがるし、抱きつきたがるし、頬にキスをしてくる。  どうも関わり方を間違えたらしいと気付いたのはすぐだったが、すぐにどうでもよくなった。  そんなやりとりがくすぐったくも幸せになってしまったから。  俺にとって耳障りだった言葉はいつの間にか、聞き心地もよければ口にするのも気持ちの良い、優しい言葉へと変わった。  あの子が俺から拒絶されることはないと頭から信じて、抱っこをせがむ。  それがたまらなくかわいく思えるようになった。これほどの信頼を、誰が向けてくれるだろう。全身で愛情を示すあの子は、すぐに俺の癒やしになった。  あの子を心配している間は、俺は自分の焦燥感を忘れていられた。どうでもいいとすら感じていた。  代わりに俺は、あの子のためにしてやれることを必死で探して学んだ。いつか、俺の手であの子をこの日常から救いだしてやるために。早く自立しなければいけない、あの子を養えるほどの稼ぎを得られるぐらいいい職に就かなければならない。  何もかもに興味がわかなかった俺に出来た目標は、いつも胸にあった焦燥感をかき消していた。  とはいえ、中学生の俺には、怒鳴り合いを響かせる隣の家から、あの子を救い出す力はない。  俺の小遣いの範疇でご飯を食べさせ、家に帰るまでの時間つぶしをし、受験勉強がてらあの子の勉強を見たり、思いつく限り空いた時間をあの子に当てた。出来ることなんて、その程度だ。  けれどそれは、あっけなく終わりを迎える。  あの子の両親が離婚したのだ。  隣でケンカの声が聞こえなくなった二日後のことだった。  あの子が、消えた。  学校から帰ってくると、隣の部屋は空き家になっていた。  以前より、無味乾燥な日常が訪れた。  毎日の両親の諍いに、慣れる部分もあれば、どんどんと疲弊していく部分もある。  一年も過ぎれば、あの子に誇れる自分でありたいと願ったあの日は、もう遙か遠くになってしまった。  あの子がいなくなって、俺もまたあの土地を母に連れられて去った。全ての関わりが途切れたのを感じた。  その後は、あの子に出会ったことで運を使い果たしたかのような転落人生だった。  母の再婚とともに寮のある高校に押し込められ、その後親に会うことなくあいつらはそのまま失踪した。  親元から離れるために成績だけはトップをとり続けていた事が幸いし、教師のすすめで奨学金とバイトでなんとか食いつないだ。  その頃に出会った裏社会の人間とそのままつながりを持ち、そっちで金を稼ぎながら大学を出た。  そして今では系列の専属弁護士だ。  りゅーちゃんと慕ってくれたあの子には見せれない大人になったことに気付いたが、この世界に足を踏み込んだ時点で、あの子のことはあきらめた。  自分は普通の人間とは無関係な人間でいた方がいい部類の人間になったのだ。あの子を探そうとも思わなかった。  あの子が変わっている姿を見たくなかっただけかもしれない。  思い出の中の、かわいいままのあの子を愛おしむ方が、ずっと楽だった。  望。俺の、大切な宝物。  それでよかった。  けれど、再会は思いがけない形で訪れた。  事務所に訪れたとき、まだ少し幼さの残る青年が、暴行を受けていた。 「すみません、すみません」  悲痛に声を上げながら、その青年はなされるがままだ。  ドアを開けた俺に気付き、青年が顔を上げた瞬間、目が合った。その時の表情の変化が、俺の心臓をえぐるように突き刺した。  目を見開いた驚愕の表情から、傷だらけの顔でふわりと笑ったのだ。 「りゅーちゃん、あいたかった」  そう、聞こえたと思った瞬間、所員が怒鳴りながら蹴りつけた。  怒りに頭が染まった。  それは、俺のモノだ。  理屈ではなく、そう思った。俺のモノを勝手に傷つけられたことが許せない。  駆け寄って、青年を蹴りつけた男を蹴り飛ばした。  驚く所員達と「先生」と俺を呼ぶ声を無視して、しゃがんでから青年に手を伸ばす。 「……おい」  ぐったりと転がる傷だらけの青年に声をかける。うめいていた青年は、ゆるゆると俺の方に目を向けてから、またふわりと笑った。 「やっぱり、りゅーちゃんだ……うれしい。あいたかった。りゅーちゃん、ごめんね。ぼく、なにもいわないままいなくなって、ごめんね。りゅーちゃんにあうためだけに、がんばってたんだよ。……あえたから、もう、しんでもいいや……」  まるで夢でも見ているかのような、おぼつかないうつろな声だ。けれど、表情も声も、恍惚としている。おそらく、半ば意識のない状態だ。 「りゅーちゃん、うれしい、りゅーちゃん、だいすき……」  幼い頃何度も繰り返していた言葉を、大の男があの頃と変わらぬ口調で壊れたように繰り返す。 「……望?」 「なぁに、りゅーちゃん」  ふわりと笑って、青年は意識をなくした。  望。俺の宝物。  変わっていないことに歓喜した。ひたむきに向けられる俺への愛情も、俺からの愛情を疑うことのないその様子も、何もかもが俺の望そのままだった。  俺があきらめていた間も、俺の望は俺を探していた。  ずっと埋まらなかった何かが満たされた気がした。  俺はずっと欲しかった「ただひとつ」をようやく手に入れたのだ。  今度こそ、大切にしよう。俺の元でこの子のの笑顔が消えないよう。 「もう大丈夫だよ」  うっとりと笑って、傷ついたその体を抱きしめた。

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