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満月と鏡
屍体の処理を手伝ってくれ。
俺がこう連絡をもらったのは、ある六月の、蒸し暑い晩のことだった。差出人は美しい恋人。
その日は、目覚めた時から暗鬱だった。暗い雲が空の果てを低く覆っていた。それが今しがた微睡んでいた夢の薄暗さそっくりで、そのせいか、そのあとは一日中、夢の続きのような曖昧な気分でいることになった。夕方を過ぎた頃にはいつの間にか、アスファルトが真黒く湿っていて、水のにおいが辺りに漂っている。
待っていてくれ。俺はそう返して、なるべく動揺しないように家を出たつもりだが、暴風で飛ばされてきた、大根みたいな枝にすっ転んで手のひらを切った。起き上がるとき、荒れた海のような夜が目の上に見えた。
黒雲が巨大なうずをつくり、そこへ地上の全てのものが吸い込まれるようだった。
……恋人は俺にはもったいないような男だった。器用な男だった。美しい男だった。
俺は彼を、その姿かたちから好きになった。どのパーツも、人間のものとは思えなかった。どれもが整然と揃っていて、不気味にすら見えるくらいととのっていた。特にあの目……あの目は……俺は教室で、その昏い眼の昏みばかり追っていた。それはぜったいに、人間のものなんかじゃなかった。魔性の持つ美しさ、哀しさだった。
人を殺した、と彼は言ったわけではない。
もしかしたら屍体というのも嘘かもしれないし、もし本当に屍体を埋めるのだとしても、彼が死なせてしまったとは限らない。
それに……。
彼は林の入り口に立って、気配に眼を光らせていた。俺の車が砂利道を傾きながらやってきたのを知ると、表情を和らげた。俺は彼の白いそれの後ろに車を停めると、車のキーを抜いた。
ライトが消えて、くらやみが一気に彼を呑みこんだ。表情が見えなくなる。闇の中で急に彼がのっぺらぼうめいて、俺はステアリングをぐっと握った。その手が汗でず……と滑った。冷たい息を吐いた。
のろりと車を降りて、ドアを閉める。どん、という音が遠い山にうす寒く響き返ってきた。こたえるように、梢が鳴った。それがまるで何かの境界であったように、さまざまなことが感覚されだした。あれだけ厚く重なっていた雲が切れはじめ、病的な青さの月光がこんこんと落ちてくる。それは静かな隊列のような樹々を照らし、彼のことも照らしだした。彼はもう、のっぺらぼうには見えなかった。黒い水鏡になった水たまりに、輪郭の波打つ月の姿が映った。
その隣に彼の脚が揺らめいてあり、それに寄り添うようになにか大きな物も映っていた。三つのゴミ袋だった。全部併せて、大人が一人分ていどの。
しばらくの間、俺たちは黒い枝の折り重なる中を歩いた。
子供の頃、教会へ行ったことがある、と俺はなぜだかこの時思い出していた。
会衆席で聞いた牧師の、聞いている方が、なぜだか途方に暮れるほど悲しくなってしまうほど暖かい声を……。
彼は野生の獣のようにやすやすと、奥へ奥へと俺を先導していく。その手に、あのゴミ袋を三つ下げていた。月は青みをさらに増していく。風がやむ。湿気と暑さで、気が遠くなるように感じた。俺は彼の足音だけを聞いていた。彼はそのうちようやく、周りよりもうんと小さな樹の前で立ち止まった。すいと顎をあげ、その枝先を見上げる。幾千枚の葉がいち枚いち枚それぞれ、硝子の欠片のようにして、月光を反射して青く光っていた。サアサア……とその時、微かな風がその葉を揺らした。葉ずれは枝の中でしだいに増幅していき、それとともに風も強くなる。唐突な強風はぶつかるように俺の体をすっかり呑み込み、やがて唐突にぴたりとやんだ。ここにしよう、と隣で囁いた声が、最後の風に乗って聞こえた。
彼はゴミ袋を根本へ降ろし、俺は無言で、持っていたシャベルを片方彼へ差し出した。スプーンのような窪みに月光がたまっていた。俺は空を見上げた。今日は大きな満月だ。道理で、夜がここまで青白いと思った。人の魂を取り出して見たら、あの月くらい青白いだろうか。
……あの月がどう見える? 俺は彼に聞いてみた。何気ない問いかけだった。しかし、彼はそれについては夜空をちょっと見上げただけで、何も応えてはくれなかった。
深い穴を掘るんだ、と彼は言った。犬の鼻も届かないくらい、と。ぬかるんだ土は腐肉のように柔らかく、最初のうちは、そのゾッとする感覚を手に感じていたが、やがてすぐに、切っ先が石や根につっかえるようになっていった。はぁ、はぁ……。彼の呼吸がこうまで激しくなった頃、ようやく俺はその真上からの音に気がついた。彼の黒い顔はじっとりと油じみ、頬角が青く照っていた。その時、一片の雲が月をゆっくりと覆った。彼の髪の上を影が這っていく。強い光が消えて陰影が弱まり、俺と目があったまま、彼の顔色が不思議に澄んでいった。ハァ……。彼の口もとが最後に強く息を吐きだした。魂でも吐ききるみたいだった。星が降りそそぐ。月は、空に青い燐光だけを残してすっかり身を潜めていた。俺は、どうして彼が何も言わないのかと思った。――俺だって。山は湿ってしんしんとしている。寒い。彼の目は何を語っているのだろう。
再び月が顔を出すと、俺たちはまたシャベルを動かしはじめた。彼は今度は、思いつめたように息を吐いたりしなかった。
穴も深くなってきていた頃だった。穴の底にはたっぷりと闇が溜まり、時々白い根が小さな手のように突き出ていた。言えないんだよ。その声はかぼそかった。だが、凛としていた。いつ付けたのか、彼の唇の側には指ですっと塗りたくったような土汚れがあった。……え? 訊き返す。
そのとき、遠くで雨がはじまったのが聞こえてきた。驟雨だろうか。その音に紛れてしまって、いま彼がなんと応えたのか、聞き逃してしまった。言ってしまうと、……から。そうとしか聞こえなかった。月を背負いこんで、色々なものに背を向けて、彼は俺だけを見ていた。その目が眩むほどさめざめとしているのに俺は初めて気がついた。教室の中ではくらい色だった目が闇の中で幽々とひかり、今日の月の光を吸い込んだみたいな色に変化している。言ってしまうと、君も殺さなくてはならなくなるから。俺はそういう声を妄想して、唾を呑んだ。
やがて、ザアザアと、遠い音が戻ってくると、俺は悲しくなって首を振った。彼の美しい眼はそんなことは語っていなかったのだ。彼は俺だけを見ていた。俺には彼だけが大事だった。
屍体を埋めよう。彼が口を開いた。俺は頷いて、シャベルを置いた。その時、この樹はなんだろう、とふいに思った。これから足元に、誰ともわからない屍体を寝かせられる、この背の低い樹。ずっと屍体と一緒になる樹。……桜だろうか。俺は不思議に確信めいていた。
今やほんとうに、屍体は埋められようとしている。この桜は、春になったらどんな樹になるのだろう。たった一人山奥で、みずみずしい薄紅の花弁を枝から溢れさせ、花万朶を迎える桜。俺はその美幻を思った。死のように静かな春を思った。恐ろしくなって、眩暈がした。
俺のこと、まだ好き?
ふいに、彼が不安げな様子でそう呟いた。じとりと風が流れて、彼の焦げ茶の毛先が俺のほうへとなびいてきた。
……さっきの問いだけど、あの、月がどう映るかってやつさ。彼は俺にしか聞こえない小さな声で話し続けた。
……怖いことを聞いてくれたよな、満月は人を映す鏡だ。
彼は続ける。
俺はずっと恐ろしいよ、あれが。
あんなに底知れない、あんなに孤独なものは見たことがないんだ。
ため息をついた。
そんなことを聞いても、それでもまだ、俺のことが好きかい?
風が止まった。俺は彼の、なにか含んでひかる目と見つめあわせながら、頷いた。俺が殺したかもしれないぜ。また、頷く。……生きてくれるかい。それでも俺と。頷く。
彼は長いあいだ何も言わないでいたが、やがてまた、俺にしか聞こえない声で、俺にだけ聞かせるつもりの声で、良かった、と囁いた。
あの時教会で聞いた、牧師のような声だ、と俺は思った。
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