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第1話

今日は金曜日の夜ということもあったせいか、店はとても盛況でほぼ満席だった。 店内に響く店員の張りのある威勢のよい声。 一定の高さで流れるざわめき。 時々混ざる甲高い笑い声と、その後どっと沸く歓声。 食器とグラスの重なる音。 その喧騒の中、オレは座敷席の壁際で、ぼんやりと壁に寄りかかりグラスを空けていた。 もうこれで何杯目になるのかなんて覚えてない。 ただ自分の酒量をとっくに超えていることだけはわかっていた。 なにしろ目の前がぼやりと霞がかっている。これはまずい。 だがしかしでも。 今のオレにはこれくらいしかすることがないのだ。つまり手持ち無沙汰で。 そもそも今日のコンパは、同好会の先輩が土壇場で行けなくなった代わりに頭数合わせで駆り出されただけで、全くオレの本意ではない。 いろいろ世話になっている人だったのでどうしても断われなかった。 いつもだったら、どんなに言われてもこんな席には来なかったのに。 ……まあ誘われること自体滅多にないけどね。 自虐的な思考が、底をさ迷い始めた気分をさらに重くした。 周りを見まわせば、そろそろ宴もたけなわになって、 気の合ったものどうしがそこここにグループになって盛り上がっていた。 その様子を横目で眺めて、ぼんやりと目を閉じる。 そうすると頭の中がぐるぐる回ってどこかに落ちていきそうな気がする。 聴覚がやけに鋭敏になって様々な雑多な音が耳の奥を刺激する。 けれどふらつきはじめた頭はそれらを意味のあるものとして捉えずに、オレはただ喧騒の中でひとり自分の中に沈んでいくのだ。 だいたいオレは人と騒ぐのは苦手なんだ。 ──…そう、嫌いなんじゃない。苦手。 仲のいい友人──まあそんなにいないけど──と飲みに行ったり遊びに行ったりするのは好きだ。 けれどそれがそんなに親しくない人となると、途端に人見知りが出てきてしまって、勝手に体が緊張してしまう。 例えば、こういうコンパなんかの席。 そうすると、楽しむどころじゃない。 その場の雰囲気を壊さないように シラけさせることを言わないように そればかりを考えてしまう。 だからみんなが盛り上がっていても、そのノリについて行けない。 せいぜいにこにこ笑って楽しそうな振りをするだけだ。 「…ばかみてー…」 ほんとに、ばかみたいだ。 だから、だからオレは……こんなとこ来たくなかったのに…… それなのに、 今オレはまさにそういった席で飲みたくもないお酒のグラスをあけている。 いったいオレはなにをやってるんだろう? 女の子とも気の利いた会話一つできない。道化役になることすらできない。 ただ先輩の顔を潰さないように頑張って愛想笑いを繰り返して、…… 「…………」 …………………なんだか考えているうちに非常に悲しくなってしまった。 もう帰りたい。自分の古いアパートの狭い部屋が酷く懐かしい。 でもやはり、さすがに一次会も終わらないうちに抜けるのはまずいと思う。 でもでも……… ………………だいたい先輩が来れれば オレがこんなところに来る羽目にはならなかったんだ。 どうして前もって予定を確認しておかないんだよ。 それに他に頼む人だっていたじゃないか。 どうしてオレなんだよ。 本人には絶対言えないグチを、うとうとととりとめなく繰り返していると、ふと、傍らで人の気配が動いた、ような気がした。 「ねえねえ、楽しんでる?」 「あ、はい…」 反射的に答えて、トロトロと目を開ければ、顔を真っ赤にした女の子が、オレの顔を覗き込んでいた。 ショートカットの、なかなかかわいい感じの子だった。 ……誰だっけ?? 最初に全員一通り自己紹介したけど、そんなもの覚えていない。 だって、総勢20人近くいるんだ。 他大学の人とかもいるし。 別に知り合いなんて作るつもりなかったから、コンパにおいて重要な掴みであるその自己紹介も、オレはほとんど上の空だったのだ。 「そんなとこで一人で飲んでないで、こっちに来れば?」 「あ…いや…」 アルコール臭い吐息と、きつい香水の匂いに思わず腰が引けた。 「ねえ、あなた名前なんて言ったっけ?」 「………あ、」 人の質問に一瞬警戒心を持ってしまって、答えるタイミングがずれてしまうのは、半分は酔ったせいもあると思うけどもう半分はオレの性格だ。 口を半開きにしたまま固まったオレに、彼女は僅かに眉を寄せた。 「……あ、…オレは………」 一方的な気まずさに、オレはますます硬直してしまい、普段でもふらついている頼りない思考は全くどこかへ飛んで行ってしまった。 ……ど、どうしよう ええっと、名前だよオレの名前。この人はそれを聞いてるんだよ。 早く言えってば…… 「……あ、の………」 「ゆきちゃんそんなとこいないでこっち来なよーー」 その濁声にオレと彼女はぱっとそちらを振りかえった。 声をかけた男の意図は全然別のものだったはずだけど、オレにはそれが天の助けに思えた。 「ホラホラ、ゲームやるからさ、ゲーム!こっち来てよ。 ゆきちゃんがいないと始まらないよーー」 「え~もう、やだあー」 まんざらでもなさそうな含み笑い。 要領を得ないオレに焦れたのか、 それとも変な奴に対するただの気まぐれだったのか。 とにかく「ゆきちゃん」はけらけら笑いながらまた戻って行った。 オレは正直ほっとした。 女の子って苦手だ。 この年になってこんなことを言うなんて情けないけど。 でも、こればかりはしょうがないよ。 遠いところから聞えてくる歓声をBGMに、そんなことを思う。 いまさら性格なんて簡単に変えられない。 そんなこと、努力次第でどうにかなるなんて考えられるほど子供じゃないし、 それを隠しとおせるほど大人でもない。 ………………でも、オレだって こんなんじゃ、だめだって ほんとはわかってるのに……… 「…………」 オレは目の前にあったグラス──場はもうかなり乱れていて、みんな好き勝手に移動していたからそれは誰が注文したものなのかよくわからないけど──を 掴んでぐいっとあおった。 「……う、ぇぇ……」 …………キツイ かなりキツイ。 ───誰だよこんなもの注文したやつは… オレの飲んだそれは、無色無臭、度数50°超、いわゆるスピリッツの帝王とも言えるウオッカの水割りだったのだ。 かっと全身が熱くなり、怪しく歪み始めた視界に、慌てて目を瞑る。 途端に、どこかに引き込まれて行く感覚と、螺旋階段を駆け降りて行く酩酊感が体を包んだ。 ───ああけっこう酔ってる。……当然だけど。 なんの感慨もなく考え、手で口を覆った。 これは明日の朝辛いかも。まあどうでもいいか。いやよくない。明日も授業があるんだったよな、確か。 なおさら早く帰りたい。でも…………まずい…………なんだか、すごく、……眠いかも………… やがて同じ場所を回っていた思考が安穏としたところへ逃げ始める。 そして 吐き気を伴った快感に巻き込まれながら、極彩色の渦に滑り落ち、それが妙に急激だなと思った瞬間、 「おっと…」 近くから声が聞えた。 背中がやけにあたたかい。 冷たい壁じゃなくて、弾力のある人の感触が気持ちいい。 ……まずい。はやく体を起こさなくちゃ。 空転する意識と裏腹に、ずるずると体は沈んで行く。 すると、もたれた誰かが身じろぐ気配がして。 「……君、大丈夫?」 耳朶をくすぐるようにして吹きこまれた低い声に、瞬間、肌が粟立ち、背筋を走りぬけたなにかに、びくりと体が震えた。 「気分、悪い?」 落とされた声音。 まるで内緒話をするように。 産毛を撫でる感触に、くすぐったくて肩を竦めた。 ぞくぞくする。 何てキモチノイイ声なんだろう。 オレはその声に誘われるように、よく考えもせずに、こっくりと頷いた。 途端、もともとふらふらしていた首ががくりと折れ、オレは重心を崩して前にのめった。 「あっ」 慌てたような声とともに、オレの肩を掴んだ手がぐいっとオレを引き戻す。 「ん、…」 重力に苛まれただるい体がふわりと支えられる気持ちよさに、深い安堵を覚えた。 危なっかしいなあ。 苦笑を含んだ声にのろのろと目を開くと、目の前にどアップの顔があった。 おかしそうに唇の端を僅かに歪めたその人は、深々とオレの顔を覗き込んでいた。 「…?」 酔いも手伝って、オレはまじまじとその人の顔を見つめてしまう。 そんなこと、普段のオレだったらとても考えられなかったけど。 (何しろオレは人の顔を直視するのが苦手なんだ) けれど、お酒のせいか妙に潤んだ視界にうつるその人は、オレの照れとか戸惑いとか恐怖とか、そんなものを吹き飛ばしてしまうくらい、 なんて言うか酷く─── 「……きれい」 「は?」 無遠慮に見ていたオレに負けず劣らずオレの顔を凝視していたその人は、オレの言葉に目を丸くした。 流れるような深い紅茶色の瞳が不可思議な彩を帯び、戸惑いを含んで揺れた。 ……なんで? どうしてそんなに驚くんだろう? 「……………………」 「……………………」 そのままオレとその人は鼻面をつきあわせたまま見つめ合い、そしてその呼吸をするのさえ躊躇われるような妙な均衡に、オレの足元から熱がじわじわと昇ってくる。 支えられた肩がずきずきと熱を持ち、その手のひらから伝わる波動が、こめかみの辺りでどくどくとすごい音をたてる。 耳の奥がきーんとして、唇がからからに乾いていたけれど、オレは彼の瞳から目を逸らすこともできず、瞬きもできず、呆けたように細かく呼吸を繰り返した。 昏さと鮮やかさをめまぐるしく交互に換えながら切りこんでくるそれは、まるで鋭利な凶器のように、オレの息の根を止めようとした。 やがて恐ろしい呪縛に囚われたオレが、もう二度と戻れないんじゃないかと思った時、 (もしかしたら、オレはそれを望んだのかもしれないけど) なんの前触れもなく、指がきりりと食いこんだ。 「っ!」 シャツを通リ抜けて直接素肌に、 鋭い針に貫かれたような痛みが走りぬける。 頭のてっぺんから足先まで、 オレは全身を大きく震わせて瞼を閉じた。 「……大丈夫?」 その艶やかな響きはどこか違った場所から聞えてくるようだった。 もう一度、押し寄せてきた痺れに、オレは目をつぶったまま夢中で頷き、そのまま俯いた。 「大丈夫、です」 呼吸の合間に絞り出した声は、掠れて潰れた嗄れ声になった。 ……みっともない 一体オレはどうしてしまったんだ。 訳のわからない感情の波にもまれて、ただただ混乱する。 ひりつく喉がごくりと鳴る。 ……ああオレは震えているのか? 「……大丈夫じゃ、なさそうだね」 「…!」 喘ぎに大きく上下する肩に、再び指が食いこみ、オレは思わず息を止めた。 固い爪の先が、ささやかに、柔らかに、強力に、オレの体を拘束する。

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