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第10話

 この島に限らず、人口の少ない孤島では医者が常駐している病院と言うのは少なく、診療所として本土の病院から週に一度医師が派遣されて来る。 島民が急病の場合は船で渡るか、よほどの緊急の場合ドクターヘリを要請する事が出来るが、島の人間は痛みや病気になっても、よほどで無いかぎりは我慢し、結局手遅れと言う場合も少なくは無い。 「うん、血圧も脈拍も体温も今の段階で何処か異常がある感じでは無いね。眩暈や頭痛はまだ続いてる? もし続いているなら本土の病院で検査した方が良いけど」  消毒液の匂いが充満しているこの診察室に、章良に無理矢理連れてこられた真琴が診察を受けたいた。 「いえ、頭痛も眩暈も無いです」  この島の担当医が椅子に座り治し、ノートパソコンの中のカルテに何かを打ち込み始める。診察台に横になっていた真琴も、起き上がりそのまま診察台の上に座り、文字を打ち込まれる様子を見ていた。 「ん~、まあその言葉を信用しておこう……ところで、同居人が出来たって聞いたけど、もしかしたら外で待ってる彼?」 「え……あ……ど、同居……と言うか、浄水君はただの宿泊客ですよ」   普段は冷静であまり目を合わせて話すタイプでは無い真琴が、珍しく慌てた様子で顔を赤くするのを見て、担当医が思わず吹き出した。 「ふはっ! はははははは!」 「ちょっと、信じて無いでしょ! 本当だって!」 「はいはい、ちょっと額見せて」  医師が真琴の前髪を手で捲り、額を見て何か納得した様に頷いた。 「うん、もう赤みも無いし目立たないね軟膏も今ある分が無くなったらそれで良いだろう」  真琴は慌てて前髪を元に戻し、髪の上から額を押さえる。 「まだ、眠れない? 眠剤は残ってる?」 「最近、良く眠れてますし、薬はまだ余ってます……」 「そう、それは良い傾向だね。あの宿泊客君は何時まで滞在なの?」 「……さあ、何時までとは聞いて無いですけど……今、店も手伝ってくれてて、実質住み込みのアルバイトって感じです」  実際、章良が何時までこの島に滞在するのか聞いていなかった。流れ的に転がり込んで来て、そのまま泊まっているが、まさかこのままずっと泊まっているだろうとは思ってはいなかった。  ましてや章良は半年すれば成人するとは言っても、今はまだ未成年だと言う事も真琴にとっては少し気にはなっていた。 しかし、赤の他人である自分が彼の事情を少し聞いただけで、何処まで首を突っ込んで良いのか判断出来ずにいるのも事実だった。 「そうか、まあ島に留まるってのはありがたい事ではあるけど、見た感じ若いからまだこれからやりたい事も出て来るかもしれないしね、今の段階では島にとっても君にとっても良い影響なのは間違いないね」 「……え? 僕にとって……ですか?」 「そうだよ」  真琴がキョトンとした顔で、担当医を見ると、彼は〈おや?〉と言った風に眉を上げて苦笑した。 「自覚ナシかぁ~」 「何がです?」 「君を初めて診察したのは、もう何年前かな……最初、辰朗さんに連れられて来た時は、直ぐにヘリを呼ぼうかと思ったよ、君がどうしても嫌だと言うからここで治療をしたけど……特に酷かった額の傷は、もっと傷跡が残るかと思うほどだった。  身体の傷は治るんだよ……しかし、心の傷は完全に治る事は無い……辰朗さんもね随分心配して、僕がここに来る日には必ず君の今の状態を報告してくれてたんだ。章良君がこの島に来て、最初に話をしたのも辰朗さんだ。章良君は君と一緒に住んだ方が良いってそう思ったって言ってたよ」  初めて知った。  辰っちゃんと言って皆に慕われているのは、この島の漁師で漁業組合会長もしている磯谷辰朗と言う人物で、真琴がこの島にやって来て半ば力尽き船着き場でグッタリしている所を拾われた。  その後一旦彼の家に一晩泊まりこの診療所へと連れてこられたのだ。入院を勧められるがどうしても嫌だと駄々を捏ねたのを見かねて、空き家だった鮨屋を与えてくれた、真琴にとっては命の恩人だ。  あれから3年も経っていると言うのに、今でも真琴を気に掛けてくれていると言う事に胸が熱くなった。 この島では何か困った事があれば磯谷の辰ちゃんに相談しろと言うのが定着しているが、彼がそう言われるのはこういった所なのだと言う事を改めて再確認する。 「……そう、ですか……辰朗さんが……」 「まあ、彼は昔から世話好きで君だけじゃないけどね。でも、良く眠れる様になったのも、顔色が良いのも、きっと新しくやって来た彼のおかげなのは確かだよ。ボクは普段、街の総合病院にいるだろ? こうして定期的ではあるけどこの島に来ると凄く時間がゆっくりと進んでいるのが良く解る。空気も美味しいし、何より島の住人はみな善人だ、だろう?」 「はい」 「同じ時間でも、ここまで流れる早さが違うって事をボクはここへ来る様になって知ったよ。ギスギスした気持ちやイライラした気持ちも、潮騒の音と共に泡となって溶けて行く様だ……この島は君にとって良い事ばかりだ、傷を癒やすのもここの温泉は良く効く。だが、心の傷は同じ時間をかけても半分も治らない……結局心の傷は、人の心でしか治せないのかもしれないね」  診察も終わり、真琴が立ち上がってドアノブに手をかけた時、担当医が声をかけて来た。 「真琴君」 「はい」 「人との縁は、時としてとても煩わしく酷く傷つけられる事もあるが、数ある縁の中には、かけがえのない物もある……繋がる事を怖がってちゃ前へ進めないよ?」  その瞬間真琴の頭に浮かんだのは、夏の太陽の様に笑う章良の笑顔だった。 「お大事に」 「……ありがとうございました」  パタンと静かにドアを閉じ廊下に出て直ぐ、次の人の名前が呼ばれる。真琴は一言二言入れ替わりの島民と話をして、入り口を出ると小高い場所に建つ診療上の柵に凭れ、海を見ている章良の背中が見えた。 「浄水君」  真琴がそう声をかけると、章良が振り返り心配気な顔で走り寄って来る。 「マコちゃん、どうだった?」 「大丈夫だよ、逆に前より顔色が良くなったって褒められた」 「ほんとうに?」 「うん、だから診療所に来なくても大丈夫だって言ったのに」 「だってさ、目の前で溺れかけてるの見たら、普通心配するって」 「……まぁ、それは……申し訳なかったと言うか……」  真琴は、まさか章良の身体を見て興奮しましたとは言えずに、苦笑いで誤魔化した。そのまま夏の日差しの中の坂道を下りて行く。  相変わらず島の殆どを占めている原生林からは、セミの声が押し寄せて来て、まるで耳鳴りの様に響いて来る。 自分より少し前を歩いていた章良の陽に焼けた首筋には、玉の様な汗が流れいるのが見え、真琴はそこから目が離せなくなっていた。 「あっ……」  コンクリートを流しただけの坂道は、デモボコとしており足下は良いとは言えず、真琴が軽く躓き、思わず目の前の章良の腕を掴んでしまった。 「マコちゃん」 「ご、ごめん……躓いた」 「もう、危なっかしいなぁ」  そう笑いながら章良が真琴の手を取り、そのまま手を繋がれ真琴の心臓がドクンと跳ねる。ジリジリと照りつける夏の太陽と、ジャージャーと押し寄せる蝉の声、それにも負けないほどドキドキと心臓の音が五月蠅い。 「マコちゃんって、スポーツ苦手でしょ」 「そ、そんな事無いよ、一応学生の頃は運動部だったし」 「へぇ、何やってたの?」 「き……弓道……」  一瞬足を止めた章良が振る返り、驚いた顔をした。 「な、なんだよ……一応運動部だよ……」 「すげー! 弓とビュンってやるやつだろ? カッケーじゃん!」 「……え?」  当時男子には人気の無かった弓道、真琴はからかわれるだろうと予想していたが、章良の態度は予想だにしなかった反応で驚いた。 「そういう、浄水君は……部活は何部?」 「俺? バレーボール」 「へぇ、君は背が高いからきっと良い選手だったろうね」 「まあね」  それを最後にまた無言で歩き始める、坂の下には海が広がり、そう遠く無い場所にいくつもの小さな島が点在している。波も穏やかで夏の日差しをキラキラと反射し眩しかった。  章良は繋いだ手を見て、もう一度章良の顔を見上げる。すっかり焼けた顔と明るい色の髪、そして夏の海の様に輝く瞳を見つめた。 すると、視線に気付いた章良が真琴の顔を見て弾ける様に笑ったと思った次の瞬間、突然太陽を遮る様に顔を寄せ。 「――――――――――っ!!」  直ぐに顔を離して、また何事も無かったかの様に前を向いた。  一瞬、全ての音が消え、またジャワジャワと蝉の声が脳内に響き渡る。    真琴は繋いだ手と反対の手の甲で自分の唇を押さえ、視線を足下へ落とし今自分に起きた事を考えようと思考を巡らせるが、早鐘の様に打つ自分の鼓動の音に邪魔をされ、頭の中は真っ白になっていた。 〈……キス……された……?〉    また温泉の時の様にのぼせそうだと思いながら、二人は手を繋ぎながらゆっくりと坂道を下って行く。 〈繋がる事を怖がってちゃ前へ進めないよ?〉  担当医が最後に言った言葉が頭の中を通り過ぎて行く、真琴は章良と繋いだ手に少しだけ力を込めた。  ◇◇◇ 「おい、孝史?」  街の喧騒の中、一人の男が声をかけられ振り向いた。 「ん? おおう! 拓也?」  孝史と声をかけられた男は、声をかけて来た男に対して親しげに手を上げ、吸っていた電子たばこに蓋をする。 「なんだお前、東京に行ったって聞いてたけど?」 「ああ、今でも東京に住んでる、今日はちょっと用事でな」  そう言って手にしたのは、連絡船の切符だった。 「島巡りの旅行か?」 「っまあ……旅行っつーより迷子を迎えに来たって感じだな」 「はあ? 良くわかんねぇけど、逃げた女でもおっかけてんじゃねぇの?」 「人聞きが悪いなぁ~アイツはオレじゃなきゃ駄目なんだよ、啖呵切って逃げた手前帰ってくれなくなってるだけだろ……だからオレが迎えに行ってやんねぇとな」 「まあ、どうでも良いけど、とりあえず用事が終わったら東京帰る前に逢おうや、飲みに行こうぜ」 「いいぜ」  短く切り揃えられた頭を撫で、孝史と呼ばれた男は港へと向かうバスへ乗車して行った。 【続】  2019/07/01 海が鳴いている(十)  八助のすけ  

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