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第16話
ザリザリザリ、サリザリザリサリ……軽快で小気味良い音が店内に響いている。見た目がグロテスクだった鱧も、真琴の手にかかればあっと言う間に開かれ、まるでリズムを刻む様に身体を揺らしながら骨を切り、綺麗な切り身へと変貌して行く。
「なんでそんなに細かく切るの?」
「鱧って魚は、身の中に小骨が多くてその骨も硬いんだ。だからこうして細かく骨を切って初めて美味しく食べられるんだよ」
「へぇ」
「浄水君は鱧を食べた事ない?」
「うん、初めて……雑誌とかテレビでは料理の写真としては見た事あるけど」
「そうか、じゃあ特別美味しく作らないとね! 初めて口にする食材や料理って、一口目の印象が大切なんだよ、その一口目が口に合わなかったらその人にとってはその料理も食材も苦手にってしまうでしょ? 浄水君の記念すべき魚だからね、責任重大だ」
「マコちゃんの料理は、どれも美味しいから大丈夫だよ」
「そう? ありがとう」
鍋の湯が沸く音、包丁が食材を刻む音、何より目の前に真琴が居てこうして話をしている声。
その全てが心地よく、章良にとって当たり前で特別な事だったのだと言う事を再確認していた。ここが自分の居場所でかけがえのない空間だとそう感じていた。
少し酒の入った沸騰した湯に潜らせ、直ぐに氷水に沈めた鱧の肉が、まるで菊の花の様に開いて行く。そのまま器に盛る分と、椀に入れ餡をかける物と、生の身は粉をまぶし熱した椿油へ投入された。シュワっと静かな音が鳴りやがて黄金色に染まって行く。どの工程も淀み無く流れ、あっと言う間に何品もの鱧料理が出来上がって行った。
完成し、カウンターに上った料理を章良が座敷のテーブルへと並べようと運んだ時、何時もは開け放たれている座敷と座敷の間の襖が閉じている事に気が付いた。今は店が休みな為、開け放つ必要が無い事も解るが、自分が店にいた時には常にここは襖が外されており、閉まっていた事など一度もなかった。
章良は少し気になり、閉まっていた襖を少し開けると和室の隅にひと組の布団が畳まれているのが見える〈ここで寝てる?〉何故二階では無く、こんな所にわざわざ布団を持って来て寝ているのだろうかと思った時、掛け布団の柄に目が留まった。
〈……あれ? これ、俺が使ってたやつ?〉
真琴が使っている掛け布団の柄は、波柄で青色をしていた。だがこの座敷の隅に畳んでいる掛け布団の柄は赤の波柄で、最初に真琴から渡された物だ。元々旅館だった為、同じ柄が一階にも何処かに仕舞ってあったのかもしれないが、真琴があえて自分が使っていた布団を、わざわざここに運んだとしたら……そう考えると少し嬉しかった。
〈俺が居なくて寂しかったとか? なーんてね……〉
まるで何処かの恋愛小説の様な事を考えてしまい、自分の思考にクスリと笑いながら襖を閉めて、またカウンターに追加され並んだ料理を取りに向かった。
「これで最後?」
「そうだね、それで最後だよ……食べようか」
章良が最後に色違いの箸をテーブルの上に置いたと同時に、真琴が座敷へと入って来た。
「「いただきます」」
二人で同時に手を合わせ、そして声を合わせて軽く一礼をする。
これは、真琴と暮らす様になって身についた作法だ。鱧の骨で摂った出汁で作った澄まし汁を最初に一口飲むのも、いつの間にか身についた事で、今では何処で食事をしても、周りから食べ方を褒められる様になった。
章良が、目の前に並んだ料理をそれぞれ一口食べる度、真琴は声は掛けないがそっと章良の反応を覗っており、章良が美味しいと言ってパクパクと皿を空にして行くのを満足そうな顔で微笑んだ。
「ふぁ~~むっちゃ食った! 俺、鰻より鱧の方が好きかもしんねぇ」
「僕も鱧の方が好きだな」
「ってか、マコちゃんは俺の半分も食って無かったじゃん、マコちゃんに食べてもらいたくて持って来たのにさ、ほとんど俺が食ってた気がする」
「ふはっ、そんな事無いよ僕もちゃんと食べてたし、今日は逆に食べ過ぎた方……と言うか、浄水君が大食漢なんだからね? 自分が標準って思わないでよ」
「だって! 美味いんだから仕方ないじゃん」
食後にお茶を飲みながら、章良はこの一週間で体験した船の中での話や、魚の選別の失敗談を面白可笑しく話て、真琴はそんな章良の話を聞いて声を上げて笑っている。
何も変わっていない――章良はそう感じていた。このまままた二人で暮らして行けるのでは無いかとさえ思っていた。今日、ここへ来たのは章良の中である決意が固まり、それを打ち明けようと思っていた。
だが、告白する事で真琴が警戒し今のこの良い流れを変えてしまわないかと、少し不安になって来ていた。このまま告白せずとも……この幸せな時間が保てるのならそれでも良いのかもしれない。そんな事を頭の隅で考えながら話をしていたが、いつの間にか真琴の返事が無い事に気が付き、章良が真琴の方と見ると、立て肘をして顎を乗せていた体勢で話を聞いていた真琴が、いつの間にか頭だけズルズルと滑り落ち、テーブルの上に突っ伏したまま目を閉じた。
「マコちゃん? 大丈夫!?」
章良の頭の中に風呂場に沈んだ真琴の姿が浮かび、慌てて真琴の隣へ移動して、テーブルに突っ伏している顔を覗き込んだ。
「マコちゃん?」
「う……ん……」
章良がもう一度真琴の名前を呼ぶと、真琴が小さく返事をしながらもスウスウと規則正しい寝息を立て始めた。体調が悪くて気を失った訳では無かった事に章良は安堵の嘆息をして、真琴の頭へ自分の頭をコツンと乗せる。
「……寝落ち……かよ」
こうして近くで顔を見ると、やはり目の下の隈が目立っている事が気になり、章良がそっと指先で真琴の白い頬を撫でた。成人した男にしてはきめ細やかな肌をしていた真琴だったが、今触れている肌は少し荒れてザラついていた。真琴は何時もと変わらない風を装っているが、恐らく夜もあまり眠れてはいないだろう事は一目瞭然だった。
「……やっぱ、このままじゃ駄目だ……きちんとケジメをつけないと」
章良は、テーブルに突っ伏している細い身体を抱き締め、真琴の顔を隠している前髪をそっと掻き上げる様に何度も撫でる。真琴が必死に隠している額の傷跡には、真新しい大きな絆創膏が貼ってあり、少し血が滲んでいるのが見えた。
「マコちゃん……マコちゃん……」
寝ている真琴が起きない様に、章良はそっと荒れた頬に優しくキスをした。
「……好きだ……」
この告白はきっと真琴の心には届いていないだろうと解っている。それでも章良は眠る真琴の頭に顔を寄せ、何度もその言葉を繰り返した。
◇◇◇
それはとても不思議な現象だと思った――。
章良をこの家から追い出した後、真琴は以前の様に眠れなくなっていた。章良が来てから飲まなくなっていた睡眠剤を飲んでも、数時間もしない内に目が覚める。二階の自室で眠っていると、孝史に追い回された記憶が鮮明に蘇り、息苦しく感じる。何度も起きては店から二階まで全ての鍵と戸締まりを何度も確認し、また布団に入るが、一時間しない内にまた鍵を確認しに行くといった日々を過ごしていた。
昼に様子を見に来てくれる辰朗も、衰弱して行く真琴を心配し妻の料理を差し入れたり、診療所へ連れて行ったりとしてくれていたが、それでもまた突然やって来るかもしれない孝史の影に怯えていた。
そんな中、何故そうしようと思ったのかは解らないが、自室では無く奥の部屋へと足を向け、章良が使用していた部屋の扉を開けて見ると、そこには畳の匂いに混じってまだ章良の匂いが残っていた。
「…………」
私物の無くなったガランとした部屋へ足を踏み入れ、部屋の中心に座り目を閉じると、残された章良の匂いがより一層強く感じる。前に一度だけこの部屋へ入った事があったが、その時は何も感じなかった。
空気を入れ換える事も無く放置していたからなのか、部屋の残された章良の残像が染みついている様で、気が付くとそのまま畳へ横になり残された残像を頭の中でなぞりながら静かに涙を流していた。
「……なぜだろう……どうしようもなく、君に逢いたい……」
突き放したのは自分――彼の将来を思えばそれは正しい事だと解っている。しかし、心の中で泣きながら呼ぶのは、夏の太陽が似合う彼の名前だ。
初恋と言って良い相手の事も、もちろんあの頃は愛していたはずだが、ここまで求めては居なかったかもしれない……孝史の時とは違い、まるで欠けた半身を求めるかの様に惹かれて行く自分に戸惑っている。
その日、真琴は三日ぶりに少し長く眠る事が出来た。しかし、やはり二階で一晩過ごすのは不安になる為、章良が出て行ってからもそのままにしていた布団一式を一階へと運び、その布団にくるまりながら寝ると言う事が定着してしまった。
久しぶりに味を感じる食事をして、章良の声を聞いている内に、抗いようも無い眠気に襲われてしまった。名前を呼ばれている事は解っていたが、どう頑張っても目が開けられない。背中が温かくなり何時も寝ている布団なんかより遙かに濃い章良の匂いを感じると、逆立っていた神経のささくれがゆっくりと治まって行く様で、真琴は何度か大きく深呼吸し、頬に感じた温かい章良の体温を感じながら完全に意識を手放す。
――マコちゃん……好きだよ……マコちゃん――
沈んで行く意識の隅で聞こえた言葉は、自分が求めている幻聴かもしれない。
――好きだよ……好き、愛してるんだ……――
それはまるで穏やかに寄せては引いて行く潮騒の様に、繰り返し聞こえていた。
…………ああ……海が鳴いている…………
そんなに悲しそうに鳴かないで……
…………僕も、好きだよ…………
【続】
2019/07/28 海が鳴いている16
八助のすけ
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