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股寝
――今日が、俺たちの最後の日――
楠間律斗 は自分に言い聞かせた。そうでもしないと、目の前に居る後輩、久保坂凛 の不可解な行動を咎められないと思ったから。
「ねえ久保坂、何してるの?」
「またね」
「はい?」
「先輩の股の間で寝ること。略して“股寝”っス」
「しょうもないことを……」
久保坂は仰向けになって律斗の下腹部に頭を置き、完全にくつろいでいる。いくら彼が赤点の常習犯だからといっても、自分より背の高い男の子供じみた振る舞いに呆れてしまう。
「でも先輩、嫌がってないじゃないですか」
「……」
確かにくだらないとは思うが、嫌悪感は抱いていなかった。
ここまで気を許せるのは他でもない。彼が律斗の恋人だからだ。
「仕方ないな……こんなことさせるの、久保坂だけだから」
「あざっス!」
ごにょごにょと曖昧に呟くと、久保坂は嬉しそうにニッと笑ってこちらに腕を伸ばしてきた。その手に後頭部を捉えられ、ぐいと引っ張られる。
「わっ……!」
前のめりになった律斗の目前に、久保坂の唇が迫ってきて。心の準備をする間もなく、熱い口付けに襲われた。
「ふ……ぅん」
顔の向きが上下逆さまという状態でのキスは、少しやりにくさを感じられる。だがいつもとは違うところを刺激され、律斗の呼吸はすっかり上がってしまった。
「ぁ、ん…ん……っ」
下唇を甘噛みされるとくぐもった声が零れ、挿入された舌と律斗のそれが擦れ合うと、背筋にぞくぞくとしたものが走り抜けた。
無理な体勢をしているせいで首が痛かったが、キスの心地良さには抗えない。首の辛さを誤魔化すように時折襟足を指先でくすぐられ、肩が小さく跳ねた。
「んん…ぅ……っは、はぁ…」
久保坂は律斗の口の中をたっぷりとねぶった後、ようやく唇を解放してくれた。熱に浮かされているせいで、至近距離で見つめ合っているだけでも目が潤んでしまう。
そんな時、不意に久保坂が呟いた。
「俺、先輩とずっとこうしていたいです……」
「――っ!」
絞り出すような声に、ぼんやりとしていた頭が冷水をかけられたかのように醒めてゆく。
「ごめん……」
「謝ることなんてないっス。けど、どうして東京の大学行っちゃうんですか」
「……こんな田舎、早く出て行きたかったんだ」
今日が最後というのも、律斗が明日、この福島の片田舎を離れるからだ。
「大学行っても、箏 続けますよね?」
「箏曲 部があればな」
「またまた。そんなこと言って、箏はちゃんと持って行くんスね」
久保坂が指をさした先の壁には、一つの箏が立てかけられていた。運搬用のカバーで覆われているそれは、彼の身長をも超えるため異彩を放っている。
「別に、あれがないと落ち着かないだけだし……」
「でも辞めないで下さいね。俺、先輩が弾く箏、好きですから」
その言葉は、久保坂に告白された時のものと同じだった。
一昨年 、五人しかいなかった箏曲部は、うち三人が三年生ということもあって新入部員を喉から手が出るほど欲していた。そこで新入生歓迎会の部活紹介では、あえてソロパートがある曲を選んだ。唯一小学生の頃から箏曲をやっていた律斗が独奏をすることで、強いインパクトを与えるために。
計画は見事成功し、箏曲部には六人もの新入部員が入った。その内たった一人だけいた男子が、久保坂という訳だ。
入部動機は『先輩の箏が綺麗だったから』。半年後、告白された時の台詞は『先輩の弾く箏が好きだけど、それ以上に先輩のことが好きです』。
(なんて、よく考えたら経験差がありすぎて俺に追いつける訳無いのに、よくここまでやってきたよな)
今日が最後だと思うと、いつもより素直になっても良いのではないか、と胸の奥が疼き出す。
「久保坂もよく頑張ってきたよね。上達も早かったし」
「それは先輩の教え方が上手いからっスよ」
「だって、まさか男子が入ってくるとは思ってなかったから。俺、昔から女子ばっかの環境で弾いてきたから、嬉しかったんだよ。少しくらい贔屓もしたくなる」
律斗の方も箏について教えている内に、熱心に練習に励む後輩に惹かれていってしまった。
告白も純粋に嬉しかったし、久保坂と箏を弾くのも好きだったから、付き合うことになって今に至る。
後輩としても恋人としても、彼と一緒にいてその成長を見守っていると、心が暖かくなる。
「それで、部長の仕事はどうだ?」
律斗は久保坂の頭を撫でながら言った。いつもは律斗の方が見上げている顔が、こんな風に自分を上目遣いで見てくるのが愛おしい。
「先輩みたいに上手く仕切れてはいないと思いますけど、何とかやってます」
くすぐったそうに肩を竦める姿が可愛くて、つい別のところも触ってしまう。
「せ、先輩! 何してるんスか」
「ちょっかい出してるんだよ」
耳を軽く摘まんでみたり、頬を両手で包んでみたり。顎のラインを辿って上を向かせ、唇をそっと親指でなぞる。
「――先輩、誘ってます?」
「なっ…そんなんじゃなくて、面白くなってきちゃっただけで……」
「じゃあ無意識ってことスか? 俺、期待しちゃいますよ」
久保坂は拗ねたように言うと、律斗の親指に舌を這わせた。指先から根元までを舐め上げると、口に含んで吸い付いてくる。その色っぽい仕草は、律斗の体温を上昇させた。
「く、久保坂……」
「そんな物欲しそうな目で見ないで下さいよ」
「ち、違――んぅ!?」
再び首の後ろに腕を回され、強く引き寄せられる。そして薄く開いていた唇に、久保坂の舌が割って這入った。
「ん、んーっん…ふ、ぅ……」
さっきよりも激しい口付けに、頭の中までぐちゃぐちゃにされてしまう。
相変わらず体に負担がかかる体勢で呼吸もままならなかったが、後頭部をしっかりと押えられていて、ろくに身動きも取れない。
それを察したのか、久保坂が腕の力を緩めてくれた。
「ぁ、はぁ…はっ……待っ、がっつきすぎ……」
「済みません。先輩が可愛いので、夢中になっちゃいました」
「まったく……って、何!?」
久保坂が急に体を起こしたかと思うと、律斗の肩をベッドのヘッドボードに押し付けてきた。
「もっかい、キスして良いスか?」
「……」
律斗はこくりと頷いた。断る理由は無かったから。
それでもあまりに真剣な表情と眼差しに耐えきれず、恥ずかしくなってそっぽを向いてしまった。
久保坂はそんな律斗の顎を持ち上げて、正面を向かせる。その動作に気を取られている内に、もう律斗の唇は塞がれていた。
軽く、啄むように何度も何度も口を吸う。
先程の呼吸さえも奪うような口付けも好きだが、腰にきて律斗の方が先に音を上げてしまう。このように唇の柔らかさを味わうような接触は、少しずつ全身に熱が回っていき、うっとりとさせられるのだ。
「ん……」
不意に、久保坂の唇が離れていく。無意識の内に追いかけようとしたら、強い力で抱き竦められてしまった。
「あの、俺今からすごくワガママなこと言います」
耳元で囁かれると、鼓膜を揺らす掠れた声に過敏に反応してしまう。
「な、何?」
その先のことは深く考えていなかった。ただ、この続きがしたいとか、その程度だと思っていた。
いや、まだそちらの方がましだった。
「――東京なんかに行かないでください……律斗先輩ッ!」
「え……?」
久保坂は今までそんな風に言ったことはない。いつもなら二人で帰りたい、お昼を食べたい、もう少し練習に付き合って欲しい。その程度のお願いだった。
そんな久保坂が初めて口にした我が儘らしいワガママに、律斗は少なからず驚いていた。
「先輩の進路のことには干渉できない。そう思って耐えてきました。でももう限界なんです。俺、先輩と離れるの、すごく嫌なんです!」
「……っ」
律斗はどうすることも出来ず、久保坂の背中に回そうとしていた手を空中でさまよわせた。
こちらとて、何の迷いもなく上京を決めた訳ではない。それなりの葛藤はあったし、未だにあんな大都会へ踏み出すことは怖い。
だが東京の大学に行きたいという旨は以前から伝えていた。
「何で今になって言うんだよ……。もっと前に言ってくれれば、俺だって考え直したかもしれないのに」
「先輩の人生に、そこまで踏み込めないですよ」
「久保坂と付き合えた時点で俺の人生変わってんだから、大学くらい――」
「え?」
「あ……」
(しまった。口が滑った)
久保坂がぱっと体を離して目を輝かせてこちらを見つめてくるので、居たたまれなくなって俯いてしまう。
しかし、ここまで言ってしまえばもうためらう必要はないのでは? そう思った律斗は、いつになく能動的な自分を見せるために久保坂の瞳を見つめ返した。
「そうだよ。俺は久保坂と出会ってから人生変わった。毎日が楽しくて、そばに箏の上達が早い奴がいて俺のモチベーションも上がるし。でもこんな田舎にいるのは嫌なんだよ。もっと大きな世界を知りたい」
律斗があんまり前に出るので久保坂は体を反り気味にしていたが、それは避けているのではなく、単にびっくりしているだけだと分かる。
「上京したいけど、久保坂とも離れたくない。だから、俺が東京の大学に行くって言えば、止めてくれると思ったんだ」
「ぇえ!? 俺、引き留めても良かったんですか」
「多分、本気で止めてくれれば、志望校のレベル下げてたかも……」
「いえ、それは駄目っス」
きっぱりと言われて、律斗は首を傾げる。
「な、何で?」
「先輩には先輩に合った学校があるはずです。だから、東京の大学受けて合格したんですよね」
「そう、だけど……」
やはり責任転嫁にも程がある、と気を悪くさせてしまっただろうか。身勝手なことを言っている自覚はあるが、自分だけで決めるには荷が重すぎて。恋人を捨てたと思われたくなくて、彼に判断を委ねようとしていたのかもしれない。
自らの不甲斐なさに顔を歪めていると、突然やけに明るい声が聞こえてきた。
「決めた!」
「何を?」
「先輩、あと一年待って下さい。俺、先輩と同じ大学に受かってみせます」
「……本気で言ってる?」
「はい、絶対合格します!」
「でも……」
久保坂のやる気を削ぐつもりはない。むしろそう言ってくれて嬉しいのだが、心配事が一つ。
「その成績だと、かなり頑張らないときついと思うよ」
「分かってます。でも俺、先輩のために一生懸命勉強するんで、東京で待ってて下さい」
手をぎゅっと握りしめながらそんなことを言われれば、律斗の期待は高まる一方で。
「……久保坂は、それで後悔ない?」
「もちろんっス! 志望校のレベルは高いに超したことないですし、先輩と一緒にいられるなら一石二鳥じゃないですか」
本当に、この後輩はどこまでも予想外だ。
律斗はこつんと額を合わせて、喜びのあまり顔を真っ赤にしながら囁いた。
「ありがと、凛」
彼の名前を口にすると、すぐそばで息を呑む気配がした。たまには律斗の方から何かしてやりたくて、普段は恥ずかしくて出来ないことをしてみたくて。
だけどこんなものではまだ足りない。
――もっと、凛のために何かをしたい。
(あ、そうだ)
良いことを思いついた。二人の約束を形にできて、近くで凛のことを応援できる、一番の方法を。
律斗は早速ベッドから降りて、いくつもある段ボール箱の内の一つを漁り始めた。
「先輩? 何してるんスか」
「ねえ、今日の午前中は部活だったんだよね。爪持ってる?」
「はい、ありますけど……」
久保坂もベッドの下に置いてあった鞄から自身の箏爪入れを取り出した。
“爪”とは、箏を弾く時に親指と人差し指、そして中指の腹側に付けるものだ。それをいったいどうするのかと言えば。
「これ交換しよう。お守りにしてよ」
「えっ、でも……」
「駄目かな?」
人の手にはそれぞれ個性がある。指の太さが違えば爪をはめるための爪輪の大きさも異なるし、親指が反る人の場合、爪を作る時に角度を自分に合うように調整することもある。もし交換したとしても使えなかったら意味が無い。
「俺が使ってて良いんスか?」
「うん。来年、東京でまた交換しよう。それまでは久保坂のを大切にするから」
律斗は自分の箏爪入れを渡して、久保坂のものを受け取る。
「サイズ、大丈夫だよね……?」
「あ、はい。確か俺と先輩は同じ大きさの爪輪使ってたはずです。それに俺、先輩の弾き方を真似して覚えたんで――……ほら、ぴったりでしょ」
「ほんとだ」
久保坂が律斗の指にはめてくれたそれは、自分が付けていたものと全く同じ付け心地で。彼が律斗の癖までまねていることが伝わってきた。
「ねえ先輩、最後に一曲弾いてもらえませんか?」
「――うんっ」
首を大きく縦に振ると、律斗は既に梱包していた段ボール箱から、音程を調節するための箏柱《ことじ》を取り出した。
久保坂も手伝って何とか箏を置くだけの場所を作り、手早く調弦を済ませる。そして一旦爪を外して、三本の指を軽く舐めた。
演奏の前は、こうして指を湿らせて爪を取れにくくするのが一般的なのだ。
「それじゃあ、始めるよ」
「はい」
姿勢を整えて、箏に向かって斜め四五度に座る。
すうっと息を吸ってから、大きく吐く。吐き出す時に弾き始める癖も、きっと真似されているんだろうな、と思いながら弦を弾 いた。
律斗が選んだのは、あの新入生歓迎会で演奏した曲。これは元々、主旋律である本手 だけで弾 けるものだ。
(凛、聞いてて)
この曲は“出逢い”をテーマに作られている。これが二人の“別れ”だなんて思いたくなかったし、律斗の独奏を好きだと言ってくれた久保坂のために、もう一度弾きたかった。
(これが終わったら、もう……)
今日が最後。何度も自分に言い聞かせてきたのに、今になって寂しさがどっと押し寄せてくる。
曲が終わらなければいいのに。
どんなに疲れてもいいから、ずっと弾き続けたい。
自分が知っている中で一番長い曲にすれば良かったかもしれない。
今更考えてもどうしようもないことが、頭の中で渦巻いている。
「――ッ」
だんだん曲に感情がこもってきて、目に涙が浮かんできてしまう。これは出逢いの曲なのだから、暗い気持ちでいてはいけない。それなのに、自分の感情が上手くコントロール出来なくて、次から次へと雫がこぼれ落ちた。
楽譜は頭に入っているから、止まることはないはずだ。いや、止めてはいけない。
律斗の意思は、こんなものではない。
(何やってんだ俺。最後くらい、ちゃんとした演奏を届けないと)
自分が想われているのと同じくらい、律斗も久保坂のことが好きだ。恋人にみっともない曲を聞かせる訳にはいかない。
そこからようやく立て直すことが出来て、律斗はついに納得のいく“出逢いの曲”を完成させた。
部屋に響く余韻を味わい尽くしてから、久保坂が口を開ける。
「先輩、すっごく良い曲でした。やっぱり先輩の箏、大好きです」
「箏だけ?」
「もちろん、律斗先輩も大好き――いえ、愛してますよ」
「凛……っ」
体を寄せてきた久保坂に合わせて、律斗も身を前に乗り出す。
箏を挟んで肩を抱かれ、久保坂の体温の中でキスをした。ゆっくりと交わるそれは、別れの時を惜しむように幾度となく繰り返される。
そして。
「またね、凛」
「はい――また逢いましょう、律斗先輩」
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