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第5話

 翌日は久しぶりに明るい朝だった。真っ白に輝く障子を開けると、何日ぶりかに見る青空が広がっていた。明け方までは雨が降っていたのだろうか。庭の草木は濡れていて、軒下からポタポタと雫が落ちた。紫陽花の前に雨京さんが立っている。布団を片付けて外に出ようとしたところ、枕元に洗濯された服が置かれているのに気付いた。僕が寝ているあいだに洗ってくれたのだろう。僕は浅ましい願望を抱いていたというのに、雨京さんの純粋な優しさに申し訳なくなった。 「雨京さん、おはようございます」  庭に出ると、雨京さんは振り向いて不器用に笑う。 「よく眠れましたか?」 「お陰さまで。昨日はありがとうございました。あと、ごめんなさい。迷惑をかけて」 「いきさつがどうあれ、家に誰かがいるというのは新鮮でした。ひとりは気楽ですが侘びしい」  ふと亮也のことを考える。昨夜はどうやって過ごしたのだろう。きっと僕がいなくて伸び伸びとしたに違いない。ひとりは侘びしいけど、ひとりがいい時だってある。どうやって家に戻ろうかと考えていたら、雨京さんが僕の心を読んだかのように、紫陽花に目を落としたまま話し出した。 「あなたの恋人も心配している。早く安心させてあげて下さい」 「心配なんて……」 「わたしは以前、あなたに前を向いて歩けと言いましたね」 「ぶつかると危ないから?」 「あなたと彼が一緒に歩いているのを何度か見かけたことがありますが、あなたはいつも楽しそうに話をしている彼の隣で俯いていました。あなたの恋人にしてみれば、表情が分からないから楽しくないのだろうかと不安にもなるでしょう。悲しかったと思いますよ。あなたは彼が人が変わったと言うけれど、その原因を考えてみたことがありますか?」  「……」  こんな早朝から、遠くで誰かが走っている足音が聞こえた。雨京さんに手首を引かれて紫陽花の陰に隠れた。葉と葉のあいだから、その正体を見た。亮也だった。息を切らせて、不安そうな表情でキョロキョロと辺りを見渡しながら走っていた。 「陽向さんを探しているんですよ。さっきから何度か見かけました。この紫陽花を見れば考えがつきそうなものなのに、必死すぎて目に入っていない」  てっきりせいせいしているだろうと思っていたのに。亮也があんなに汗だくになって僕を探しているなんて想像もしなかった。  亮也の明るい性格に惹かれて自分から告白したのに、陰気な自分とは不釣り合いだという負い目から、僕は卑屈になって俯くようになった。きっと自分でも気付かないうちに下を向く癖が付いていたのだろう。亮也だって楽しくなかったはずだ。怒るのも無理はない。 「……雨京さん、ありがとうございます。僕、ちゃんと亮也と向き合います」 「そうして下さい。朝食はどうします?」 「すぐに帰ります。これ以上待たせられないから」  立ち上がろうとしたところ、腕を強く掴まれて引き止められた。何事かと目を丸くすると、すぐ目の前に雨京さんの顔があった。細い野性的な目が僕をまっすぐ捉えている。 「このまま『いい人』で終わるのも癪な気がします」 「……雨京さん」 「紫陽花の花言葉を知ってますか?」 「いえ」 「『浮気』です」  直後に唇を奪われた。普段の優しくて物静かな雨京さんからは考えられないほど、力強くて情熱的なキスだった。僕の口をやすやすと覆い、上唇と下唇を交互に甘噛みされる。舌が少しだけ触れたが、内までは入ってこなかった。熱い息が交じり合ったところで離された。「お元気で」と残されて、僕は紫陽花の陰から飛び出して走り去った。  ―——  玄関のドアを開けると、亮也が慌ただしく出迎えた。目を見開いて唇を震わせている。怒鳴られる、と身構えたら、亮也は突然僕の前で土下座をした。 「ごめん!」 「え?」 「ずっと八つ当たりしてた……自分の苛々を全部、お前にぶつけてた。陽向はいつも黙ってるから調子に乗ってたんだ! お前が出て行って初めて怖くなった。帰って来なかったらどうしようって」 「違うんだ、亮也」 「ちゃんとお前のことが好きなのに、大事にしてやれてなくてごめん。……八つ当たりなんてもうしない。ごめん……帰ってきて」  小さくなって肩を震わせる亮也が悲しくて、愛しい。僕は膝をつき、彼を抱き締めた。 「僕のほうこそ、いつも黙っててごめんね。もう下は向かない。これからは、ちゃんと目を見て話すよ」  ***  天気予報で梅雨明けしたと聞いた。しつこく降り続いていた地雨がぴたりと止んで、刺さるような日差しとともに夏を迎えた。  花は意外と身近にたくさんある。朝顔に向日葵、百合。近所の人が育てているものを見て「綺麗ですね」と声を掛けると、そこから広がる輪もある。時々、花を分けてもらってはテーブルの上に飾った。 「今度は向日葵かよ」 「邪魔かな」 「ちょっとな。でも最初は鬱陶しかったけど、最近じゃ『次はなんの花だろ』ってけっこう楽しみになっちゃってよ」  明るい向日葵がよく似合う亮也に口元を綻ばせながら、ほんの一瞬恋人だった人のことを思い出す。雨京さんの紫陽花は、梅雨が明けてから色がくすんでしまった。まるで最初から存在しなかったかのように、雨京さんの姿を見ることもない。いつも夏が来ると心が躍るのに、今年はなぜか寂しい。  紫陽花が枯れたから? 梅雨が明けたから? それとも……。 「陽向、ビール買いに行くけど、行く?」 「また昼から飲むの?」  そう言いながらも僕は差し出された亮也の手を握った。  縁がなかった人のことを考えても仕方がない。だけどこれから梅雨が来るたび思い出すだろう。ほの暗い雨の中で咲き乱れる紫陽花と、その隣にいる雨京さんの姿を。そして誰にも知られることのない切なさを、何度でも味わうのだろう。 (了)

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