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しばらく、抱き合っていたが、潤は思い出す。
「そうだ、尚紀さんに飲んでほしくて持ってきたものがあるんだ」
抱擁を解いて、潤が鞄から取り出したのは、ステンレスボトル。目を丸くしている尚紀をよそに、談話室の給茶機に設置してあった紙コップを持ってきて、中身を注いだ。
それは、湯気が立つほどに温かいホットロイヤルミルクティだった。
「あ……ミルクティだ……」
尚紀が驚きの声を上げ、潤は嬉しくなった。
どうぞ、と潤が紙コップを渡す。熱いからね、と言い添えた。
尚紀が恐る恐る紙コップに唇を近づけて、一口飲み込んだ。先ほどの憂い気な色が薄まり、目がきらりと輝き、驚きと喜びが表情に上がる。
「美味しい……」
「会社で煎れてきた」
そう打ち明けると、尚紀が驚いたような表情を見せる。
「え、会社で?」
「そう。ここに来る前に会社の給湯室で作ってきた」
役員フロアの給湯室にはミルクティ好きの潤のために秘書課の社員によって、ミルクパンと茶漉しが常備されており、備え付けの冷蔵庫の中には牛乳とミルクティ用の茶葉が常にある。今日は朝出がけに鞄のなかにステンレスボトルと颯真が買ってきてくれた茶葉を入れて出社し、業務終了後の十分ほどでロイヤルミルクティを煎れてここに持ち込んだのだ。
尚紀が少し呆れたような声を出す。
「……社長がそんなことしてたら、社員の方は驚くんじゃ……」
その指摘に潤も苦笑した。
「うん。給湯室で茶葉煮出してたら、同じフロアの秘書課の女性が来て……。ちょっと引いてた」
そう素直に告白すると、尚紀が笑う。
「まさか、社長がそんなことしてるとは思わないですよね」
「かもね。家では結構やるんだけど、さすがに会社ではね。ランチの時も秘書課の人にやってもらってるから、社長何やってるんですか! って問い質された」
尚紀の笑顔に潤も笑みを浮かべる。
「本当にありがとうございます。美味しいです。茶葉の香りがすごい」
僕、ミルクティ好きなんです、と尚紀が潤を見る。
「うん。そう颯真から聞いた」
「え、颯真先生が?」
「ベッドサイドにミルクティのペットボトルが置いてあるって。よく見てるよね」
潤は苦笑する。たぶん、颯真は自分の番にする相手だから、よく見ているのだ。
「僕の好みもモロバレですね」
尚紀も笑った。
「ペア・ボンド療法がうまくいったら、退院できるんだよね?」
潤がそう問うと、尚紀も頷く。
「はい。なにもなければ年明けには……」
「この茶葉は颯真が、この病院の近くにある専門店で買ってきてくれたものなんだ。年が明けて、元気になったら一緒に美味しいお茶を飲みに行こう」
潤の誘いに、尚紀が嬉しそうに頷いた。
来年になったら。元気になったら。
それは今の尚紀にとって、希望なのかもしれない。
「元気になったら、モデルに復帰するんだよね?」
潤のさらなる質問に、尚紀は少し躊躇って頷いた。
「ええ……。前の番に勧められたことなのですけど、僕にはこれしかないですから」
「前の番の方は、そういう芸能関係のお仕事をされていたの?」
具体的に話を聞くのは失礼かと思ったが、やはり尚紀の咬み後を付けた人物が、どんな人間だったのか。潤は気になっていた。モデルという天職を持つ彼に、あんな痛々しい一生の傷を付けた人間はどんな人間だったのか。
「はい。そういう方向にも顔が広い人でした」
その答えが少し曖昧でひっかかる。
「どんな人だったのか……聞いてもいい?」
その潤の質問に、尚紀が困ったような表情を浮かべた。
「自分勝手な人でした」
口から上ったのは意外な言葉だった。
「項を噛んで僕を縛り付けたのに、普段はどうでもいいように扱って、でも、振り回して……」
尚紀が、形のいい下唇を噛む。
「僕にショービジネスの世界を見せてくれた人なので、感謝はしています。でも、愛おしいと思ったことは一度もないし、どんな人だったのかなんて……一言で言うなら、酷い人でしたよ……」
「……」
言葉を失う潤に、尚紀が逆に謝る。
「すみません……」
潤は首を横に振って、尚紀を再び抱き寄せた。
「謝るのは僕の方だ。無神経なことを聞いてごめん。もう考えなくていいから」
尚紀は望んで番となったわけではなかったのだ。
番契約は一般的に、望んで望まれてなるものだと言われている。しかし、アルファが一方的にオメガの項を噛むことで成立するこの関係性が、綺麗なことばかりで存在しているわけなどなく、中には無理矢理番にされたオメガだっていることくらい、潤にも分かっている。
しかし、いつも笑顔を絶やさない尚紀に、そんな辛い過去があるとは。完全に予想していなかった。
潤の背中に、尚紀の腕が回ったのがわかった。
ため息を漏らすような、少し気怠げな尚紀の声が耳元でする。
「正直、まだあの人のことが身体に染みついていて……」
尚紀は新たな番となるアルファと共に人生を歩むと決めたからこそ、ここに居て、ペア・ボンド療法を受けると決意した。しかし実際は、既に亡いアルファの、身体から抜け切らない影響が、僅かな感情の機微をきっかけに大きな波となって尚紀に押し寄せてきているらしい。
潤は猛烈に自分の浅はかな判断を後悔していた。
「治療前にナーバスになっているのに、変なことを聞いたね」
「潤……先輩。ごめんなさい……」
なにを謝ることがあるというのだろう。潤は労るように、尚紀の背をさする。
もっとこの青年に寄り添いたかった。
「尚紀さん、もう僕に『先輩』って付けるのやめない?」
「え?」
突然の提案に、尚紀が驚く。
おそらく尚紀は颯真と番うのだろう。となると、自分は彼の義弟になる。颯真の番なら、自分にとっても大切な人だ。
「潤、でいいよ」
尚紀が、慌てたようにえ、え、と繰り返す。それが、嫌がっているようには見えなくて、潤は苦笑した。
「潤……さん?」
「さん? 付ける?」
潤が苦笑すると、会社の社長さんですし、年上ですから、と尚紀は律儀だ。
「僕の秘書なんてプライベートでは呼び捨てだけどな」
潤はそう独りごちる。
「潤さん……。じゃあ僕も『さん』はやめて、尚紀って呼んでください」
「え、僕はいきなり呼び捨てなの? ハードル高くない?」
そう潤が言うと、尚紀は笑みを浮かべる。
「潤さんは、なんかお兄さんみたいだ。僕は二人兄弟の次男だったのですけど、潤さんにそう言われるとなんか嬉しいです」
「そっか。尚紀」
どこかくすぐったい。でも、尚紀は嬉しそうに、はい、と応じた。
「僕も弟がほしかった。嬉しいよ」
彼が、颯真の番となり「義兄」という立場になっても、自分は彼のことを弟のように思うのだろうと思った。
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