39 / 225

(6)

 断るか。  スマホのメッセージを見て、一瞬そう思った。  大晦日のことを思い起こせば、顔を合わせにくいこと、この上ない。  なにかいい理由はないだろうか。  体調が悪い……とか、と思いつくが、颯真は何をやっている? と聞かれれば藪蛇な気がしてきた。  江上は勘が良い。嘘だとバレたらかなり気まずい。    それに「恒例行事」と言うなら、颯真も来るのだろうか。それも気になるが、メッセージには何も書かれていない。  颯真は、三が日が仕事と言っていた。もしかしたら明日は来れないかもしれない。  それでも、このタイミングでわざわざ恒例行事と銘打って招集をかける理由は……。  潤はとっさに決断することができなかった。   「そういえば、どこに住んでいるの?」  松也の質問で、潤は現実に引き戻される。 「え」 「もう実家を出ているよね」  ああ、と潤は応じる。 「中目黒です」 「いいところに住んでるなあ」  そう言われると何とも言えない。ただ、物件を選んだのは自分ではない。 「治安とか、通勤のし易さとかで選ばれたみたいです」  不便を感じたことはなかったため正直そのあたりをきちんと聞いたことはなかった。そこに松也が楽しそうに食いつく。 「みたい?」 「あ、うちの秘書と颯真が……」 「そういうことね」  素早く察したらしい。それで素早く察することができるのもどうかと正直思うが。  僕に選択権はありませんでした、と漏らす。松也は、あははと声を上げて笑った。 「颯真君は少し過保護だよね。僕も院内で何度か雑談をした時に、高頻度で潤君の話が上っていたよ」  颯真……と潤は思う。颯真の過保護を心配していたのは自分だけではなかったようだ。 「そんな颯真君が、正月二日に君を手放すのは珍しいなって思ったんだ。喧嘩でもしているの? いや、もう喧嘩なんてする年齢でもないか」  松也は独りで納得している。潤もそれに乗じて頷くだけにした。 「子供の頃から潤君と颯真君はいつも一緒って印象だったけど、僕はずっと潤君が颯真君にくっ付いてると思っていたんだよね。でも、今改めて思い出すとさ、なんか颯真君が潤君にぴとっと、くっ付いてる記憶ばかりなんだよねえ」  松也の言葉は鋭いかもしれない。潤自身、やはり颯真が近くにいた方が安心できた。自分の半身と思う所以だ。しかし、潤が望む前にいつも颯真は潤の近くにいた。 「僕も颯真にくっ付いていたからお互い様かもしれませんね。でも、さすがにもうそこまでではないですよ」  潤がそう苦笑する。 「それぞれが自立したなら、僕にはチャンスだな」  思わぬ言葉に潤は顔を上げる。 「え」 「また会って欲しいんだ」  その意味を、とっさに問うことはできなかった。本音では潤は少し怯んだのかもしれない。 「そんな困った顔をしないでよ」  松也が苦笑する。 「潤君は忙しいと思うし、俺もほどほどには忙しい」  いや、ほどほどなんて程度ではないだろうにと潤は思う。 「時々お茶仲間として、美味しそうにミルクティを飲む姿を見せてくれればいいよ。それくらいの気楽な関係。どう?」  松也はそのように言うが、もちろん本音は違うところにあるのだろう。ただ、この人のこういう気遣いで今は気が楽になっている。  松也といると、正直気負わずに済んで気持ちが和む。どこにいても颯真のことを考えてしまうけれど、この人にはそれがない。  今のところは、それが理由でいいかもしれないと潤は思った。 「ええ、わかりました」  そう頷いた。  翌日。潤は京急川崎駅の前で、江上と落ち合った。想像通りだったが、江上だけではなく、尚紀も一緒だった。    潤は、正直行くかどうか、かなり迷った。  それでも、その迷いを断ち切ってきた。  颯真が来るのかどうかは敢えて聞かなかった。もし来るとなった場合に怖じ気づくと思ったからだ。  逃げても仕方が無いことなのだ。颯真とは顔を合わせなければ済むが、江上とは仕事が始まれば顔を合わせることになる。気楽な仕事ではない。できればそれまでに彼との間にある問題はクリアにしておかねばならない。  だけど、勘がいい親友に隠せる自信が潤にはなかった。  尚紀の同行は、颯真とはもちろん、江上ともどことなく気まずさを覚える潤にとって救済にように思えた。ただ、江上を通じて尚紀にも全てが筒抜けなのかもしれないと思うと、少し緊張する。 「潤さん! 明けましておめでとうございます!」  そんな潤の鬱屈とした気持ちは一瞬で吹き飛んだ。やっぱり尚紀が一緒にいてくれて良かったと思う。  大晦日に脱兎したとき、尚紀も一緒にいただのから、おそらく思うところはあるのだろうと思う。それを表に出さない彼は、やはり人生経験を積んだ大人だと潤は思う。 「尚紀、廉。明けましておめでとう。誘ってくれてありがとう」  だから、自分もそれを少し見習おうと潤は思った。逃げていてもどうしようもないのだから。  江上と尚紀はどこか安堵したような表情を浮かべて視線を交わしあった。  三人で川崎大師い向かう電車に乗り込み、揺られること十分ほど。最寄り駅に電車が到着すると、多くの客が降車した。その人波に乗るように、潤と尚紀と江上は並んで歩き出した。  関東の三大厄除けである川崎大師には三が日には多くの人が初詣に訪れる。今年も、昨年同様に表参道は交通規制が敷かれており、多くの人々がのんびりと参道を歩いている。  三人は潤、尚紀、江上で並んでのんびりと人波に乗った。  潤は隣を歩く尚紀に話しかける。 「年越しは廉の部屋で? それとも廉の実家に?」  待ちあわせに颯真が来なかったことで、彼は欠席であるとなんとなく察した。変なことを聞かれる前に、こちらが会話の主導権を取ろうと考えたのだ。  すると、そんな自分の打算に罪悪感を抱いてしまいそうな程に、嬉しそうな表情を浮かべた尚紀が潤を見る。 「年が明けて元旦に廉さんの実家に連れて行って貰いました。昨日の夜まで」  番の実家に連れて行って貰ういうのは嬉しいものなのだろう。詳しくは聞いては居ないが、尚紀自身は実家と繋がりが深そうではない。余計に嬉しいのだろうと思う。 「初めて行ったの?」 「はい。廉さんのご両親にもご挨拶できました」  潤は頷く。尚紀の年末年始は新しい世界が開けた楽しい時間だったのだろうと思う。そんな彼にはあまり嫉妬心は浮かばない。むしろ、これまで辛い思いをしてきた彼が、幸せへの一歩を踏み出せたことへの安堵と悦びで温かい気持ちになる。  潤は頷いた。 「それはよかった」 「廉さんのお兄さんにも昨日お会いしました。親族が集まって皆さんで新年の挨拶と新年会をするんですって。僕そういうの自体も久しぶりで、緊張しました」  尚紀が身振り手振りを交えて報告するのを見て、潤の気持ちも浮上してくる。 「廉の番が実はモデルのナオキって、皆驚いたんじゃないの?」 「廉さんの姪っ子さんが、僕のことを知っていて、驚かれましたよ」  江上家は兄弟揃ってアルファで、江上の兄はすでに番と家庭を持ち子供がいると聞いている。  ほんわかとした正月を過ごしたのだなと思う。潤が江上を見ると、彼は穏やかな表情で、番となった尚紀を眺めている。  尚紀と楽しい正月の話を聞いていると、大山門が見えてくる。昨年は、帰りがけにこの近くで、誠心医大の和泉医師と会ったのだと思い出した。  和泉暁医師のすらりとした姿が不意に蘇る。  あの後、和泉とは、仕事で何度か顔を合わせた。印象的だったのは、昨年五月に開かれたアルファ・オメガ学会での出来事。昨年は森生メディカルの企業セミナーの講師を和泉に依頼していたのだ。  セミナー後に謝礼の意味を込めて会食をしたが、やはり誠心医大のアルファ・オメガ科のナンバーツーだけあって、職務に対しての意識が高く、潤自身も勉強になることが多かった。  和泉と個人的に繋がりを持っていていいんじゃないかと話していたのは颯真だったが、そのとおりだった。アルファ・オメガ領域が抱える課題など、和泉は的確な問題意識を持っていて、かなり突っ込んだ話をすることもできた。このような知見を持つ医師と繋がりが持てたことが、潤にとって大きな成果になった。  そして和泉は颯真を高く評価していた。 「私自身はベータと偽っていたということもありますが、アルファが、アルファ・オメガ科の医師を目指すというのは並大抵の覚悟ではできないことだと思っています。社長のお兄さんの森生先生は、その点、強い信念があってこの領域を選んだのように思えます。本院と分院ですが、彼の見解は参考になることが多く、後輩といえど非常に頼りにしています」  そう言われて、自分のことのように誇らしくなった。こんなに真面目で真摯な医師が、颯真の仕事ぶりと姿勢を評価してくれている。自分の片割れはこんなに優秀な人間なのだと思うと、潤自身も誇らしく晴れやかな気持ちになった。    ……駄目だと思う。すべて考えることがすべて颯真に繋がってしまう。 「潤さん?」  尚紀が気遣ってきた。 「ううん。なんでもない。ぼうっとしてた」  先程、和泉と挨拶をした場所からのんびりと歩いてきて、三人は大山門の前に並んでいた。  警備員が笛を吹き、大山門の開門を報せた。 「潤、大丈夫か。動くぞ」  江上の言葉に、潤が我に返った。  前の人に付いていきながら、潤は考える。  颯真に繋がってしまうことは仕方が無いのだ。  それほどに、これまでずっと一緒にいたのだから。  問題なのは、それを冷静に考えることができない自分だった。

ともだちにシェアしよう!