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 久しぶりにビールを飲んだ気がする。苦い味わいが喉を伝って胃に落ちる。喉が渇いていたこともあるのだろうが、喉ごしが気持ちいい。  江上は潤以上に酒には強い。小さなグラスをぐいっと一気に飲み干した。  潤はビール瓶を持って、江上のグラスに再びビールを注ぐ。潤の周りのアルファは皆総じて酒には強い。この江上然り、颯真然り、父親の和真もそうだ。研究開発部長の大西もアルファだが、彼もやはり酒豪と聞く。  潤は弱くはないと思うが、ぐいぐいいけるほど強いわけでもなかった。  でも、今日は早く酔ってしまうほうがいいのかもしれないと思う。  「言いにくいことも直球で聞くから、酔っておけ」と江上が言うのだから、その通りになるのだろう。潤も小さなグラスをくいっと空けた。 「お通し、美味しいですね」  隣に座る尚紀が、小鉢に入った自家製の肉じゃがをつまみながら、潤に笑いかける。  彼の存在は本当に救いだ。 「お通しが美味しいお店は期待できるよね」  そう笑うと、今度は江上が乗ってきた。 「それな。颯真と偶然見つけて入ったんだけど、珍しい酒が多いのと、料理がなんでも旨いんだ」  雑談に乗ってきた江上の雰囲気に、潤は少し安堵した。ただ、颯真の話題は、少し避けたいのが本音。 「廉は美味しいお店を見つけるのが巧いよね」 「お前は店選びで冒険はあまりしないよな。性格が出て面白い。お前は仕事が絡むと驚くくらい大胆になるのに、プライベートは保守的なんだよな」  潤の軽口に、江上が鋭い観察眼をちらつかせる。  「仕事が大胆って……それはちゃんとリスクとベネフィットを計算して……るつもりなんだけど」 「……もちろん、そのあたりは信用している」  それでも考えてみるとその通りだった。あまり新しい店を選ばない潤だが、それでも開拓せねばならない場合はリサーチを欠かさない。対して、江上や颯真はインスピレーションで選んでしまうのだ。とくに颯真などは店を選ぶときの決め手は、店構えと嗅覚なのだと言っていた。潤には全く意味が分からない。 「その計算がプライベートで働かないんだよね。なんでだろね」  すると江上がグラスを片手に少し考える仕草を見せる。 「まあ、お前も敏感なタイプだから。颯真と一緒にいると、無意識でバランスを取ってるんだろうな」  なんとなく話題を逸らしたと思ったのに、直球で戻ってきた気がした。  少し雰囲気が微妙なものになった気がした。 「料理を頼みましょう。すみませーーん!」  尚紀が気を利かせて話題を変える。女将が伝票片手にやってきて、尚紀がメニューを片手に唐揚げと、シーザーサラダとだし巻き卵、砂肝と……と、注文した。  潤は江上に何を話しかければいいか、少し迷っていた。尚紀がいると、それが少し和む。 「痩せたな……」  不意に江上が呟いた。 「……そうかも」  潤もそれに頷いた。 「ちょっと辛かったから。ほとんど食事も睡眠も取れなくて、颯真に点滴してもらったり、薬で無理矢理眠らせて貰ったりしたから……」  女将への注文を終わらせた尚紀が、隣の潤を見る。 「潤さん……」  気遣う声色を感じて、潤は慌てて手を振る。 「そんな顔しないで。もう大丈夫だから。……でも、なんで颯真があんなに計画的に発情期を起こしたかったのか、自分で体験して納得したよ。あれはしんどいね」  手持ち無沙汰を感じ、ビールのグラスを両手で包む。正面を見ていられなくて、目を伏せた。 「颯真はちゃんとお前を最後まで診たんだな」  江上の問いに潤は顔を上げて頷く。 「だって、颯真だよ?」  尚紀も頷いた。颯真は、最後まで投げ出さずに診てくれると言ったのはこの青年だ。  江上から突然颯真の名前が上がった時は思わず緊張したが、すこし慣れてきたためか落ち着いてきた。  動揺することなく、彼から颯真の名前を聞くことができている。 「潤」 「……なに」 「気が付いてると思うけど、今日はあえて颯真には声をかけていない」  江上の告白に潤は僅かに身を固めた。その言葉の意図が掴めず、なんと反応していいのか分からない。 「……そう」  潤も頷く。目を逸らした。 「僕は大晦日から颯真と会っていないよ」 「うん」  知ってると江上が応じた。 「じゃあ、颯真が大晦日からずっと仕事ってことも」 「知ってる」  なるほどと思う。江上は颯真と連絡を取り合っているのだ。でなければ、彼がこの三が日に仕事であることは知らないだろう。 「連絡取ってたんだ。相変わらず仲良いね」  江上が鋭いな、と苦笑する。 「颯真を誘うと、お前が来ないと思ったんだ」  突然間合いを詰められたようで呼吸が止まる。なんと反応すればよいのだろう……。   「……それは。うん……否定できないね」  探るような会話が続く。 「……そんなに緊張しないでくれよ」  宥めるような江上の口調に、潤は少し焦った。自分の緊張など向こうに丸わかりなのか。 「緊張なんて……」  強がってみるものの、この空気がすべてを物語っているのだろうと冷静な部分が思う。 「実は、颯真にお前を頼むと言われた」 「なにそれ」  潤は少しむっとした。  颯真が何を頼んだというのだ、江上は何を頼まれたというのだ。自分の知らないところで、この二人のアルファは物事を決めていく。これまでぼんやりと感じていた不満に包まれた。  しかし、気分を害したような潤の言葉を江上はやんわりと受け止める。  そして苦笑するような困ったような顔を見せた。 「実はどう切りだそうか、迷ってる」 「え」  尚紀が不意に潤の手を握った。驚いて潤が尚紀を見ると、彼は真剣な表情で潤を見つめている。  どこか漂う異様な空気に動揺する。 「……なに」 「実は、お前らふたりの間にあったことを、颯真から大筋聞いてる」 「……え」  動揺が隠せない。 「聞いた…の…?」  心臓が止まりそうなほどに驚き、血の気がさっと降りる。息が詰まりそうになった。    どうしていいか分からず、思わず身を引いた潤だったが、右手を握る手がぎゅっと力を入れてきた。見ると、手を握る尚紀が潤をじっと見ている。 「潤さん……」  思わず尚紀と江上を見比べる。 「だって……」  潤は混乱していた。  江上は、知っているのだ。  なぜ颯真は、江上に話したのか。  潤のなかで急速に、そして、どうしようもなく颯真への不審が募りはじめる。  自分が誰に抱かれたなど、あえて江上に言う必要なんてないだろう。  それは自分への嫌がらせなのか。  颯真を拒絶したから?  その報いとして、こんなことを颯真はしたのか……。  潤の、負の感情が胸の中で急速に膨れ上がったとき、江上が潤を真っ直ぐ見つめてきた。 「潤、落ち着け」  その目が恐くて、潤が慌てる。 「だ、だって……」 「潤さん!」  混乱する潤を、尚紀が抱き寄せる。温かい体温が、ふわりといい香りと共に潤を包む。     思わず潤は尚紀の背中に手を回す。首の後ろにまわった尚紀の手のひらが、とんとんと叩いた。耳元で声がする。 「潤さん……大丈夫だから。落ち着いて? 大丈夫」  江上にも尚紀にも知られていたのはショックだった。でも、それよりじわりと衝撃がきたのは、颯真の真意を疑っている自分自身に対してであった。これまでそんなことはなかった。  告白をされた大晦日の朝も、その気持を理解できず突っぱねたが、颯真自身を疑うことはなかった。  しばらく尚紀を抱き留められた潤は落ち着いてきた。  そこに、ちょうど女将がシーザーサラダと唐揚げを運んできた。 「はーい、サラダと唐揚げね。あらぁ、眼福ねえ。廉くん、この子たち、超可愛いじゃない」  潤を抱き寄せる尚紀の姿が目に飛び込んできた女将が、素直な感想を漏らす。焦った潤が尚紀の抱擁を解こうとするが、案外尚紀の力が強く、潤は抱擁を解くことが出来なかった。 「でしょう。このイチャイチャは見てるだけで癒やされるんですよ」  江上がとっさに持ち前の外面の良さを発揮している。 「でも、こっちのは俺のなんで」 「え、廉ちゃん、番できたの?」  女将の驚いたような反応に江上も頷く。 「お陰様で」 「あらあ。しばらく来ないうちに。じゃあ、あとは颯真君だねえ」  ごゆっくりーと女将が退室していき、明るい声が消えた座敷は、またしんと空気が重い空間になった。 「潤」  広い室内だけに、江上の声が響く。  すこし空気が変わった気がした。 「颯真が言ったんだ。  潤は絶対に精神的に追い込まれている。それを独りで抱え込むから」  吐き出させて楽にさせてやってほしいって。  尚紀の腕の力が少し緩み、潤を解放する。 「発情期はお前はもちろん、颯真もかなり精神的にも肉体的にも追い込まれていた状況だったと聞いた」  潤はぎゅっと口許を締める。口許を締めないと、なにかが溢れてしまいそうな気がした。 「俺はお前がちゃんと正気に戻ってきてくれて嬉しいよ」  まっすぐ見つめる江上の視線に、潤は捕らわれた。 「頑張ったな」  そのシンプルなねぎらいの言葉を掛けてくれるのだ、親友は。この正気に戻るためにどんな手段を取ったのか、知っていてもなお。  視界が急激に潤んで、目からほろりとなにかが落ちた。  指に落ちて、初めて、それが水分で涙だと気が付いた。 「俺はその極限の状態でのお前らの選択を否定する気なんて全くない。むしろ、よく選んだと思う」  その江上の言葉が意外だった。  見れば、尚紀も頷いている。 「発情期のしんどさはオメガじゃないと分からないし、それに誘われるアルファの辛さもそうだ」  ましてや颯真はお前がずっと苦しむ姿を見てきたわけだから、と言った。 「辛い発情期の中で、そんな風に颯真に見られたら、お前にはどうにもできないだろう」  江上は潤になにか起こったのかをちゃんと把握していた。それに羞恥を覚えたり動揺する余裕はもう潤にはなかった。ただ、それを把握してもなお、変わることのない友情を示してくれている親友に感謝した。   「僕は……拒絶されるかもって……」  胸の奥から込み上がるものがあって、巧く言葉にできない。  ここまできて潤は思う。先程までの緊張は、颯真との行為が知られて、江上と尚紀に否定されることが恐かったのだ。  この二人とは全く違う発情期を経験してしまった。望んだわけではないし、結果としてそうなってしまったのだが、望まれる形できちんと番となった二人に、たとえ言葉を尽くして説明できたとしても、このギリギリの選択を受け入れてもらえる自信はなかった。   「どうして俺が、俺たちがお前を拒絶しないといけないんだよ」  江上が苦笑した。 「どんな関係になっても、お前らは俺の大事な親友だよ」

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