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本作のカレンダーは2019~2020年を想定しています。念のため。 ୨୧┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈୨୧  今年の年末年始休暇は長い。  例年であれば一月五日には仕事始めとなるが、今年は土日が絡むため、仕事始めは六日だ。  一月四日の土曜日、潤は実家を後にして品川の森生メディカル本社に顔を出した。  とはいっても、本社機能はまだ年末年始休暇の最中で、人気はほとんどない。全国各地の営業所に属するMRの中には、得意先の医療機関のニーズによって動き始めている者もいるが、本社ビルはエントランスに鍵が掛かっている状態だ。  潤はいつも社用車が停車する地下駐車場に回り、その一角にある警備室の詰め所に顔を出した。 「明けましておめでとうございます」  潤が顔を覗かせてそう挨拶すると、顔なじみの若い警備員が待機していた。 「あっ……社長」  どうも驚かせてしまったらしい。もう一人の警備員も、たがたと椅子から立ち上がった。 「あ、明けましておめでとうございます! 社長」    外部委託している警備会社の社員だが、長くこの場所に勤めてくれている人もいて、自然と顔なじみになるのだ。 「年末年始もご苦労様です。今年もよろしくお願いします」  潤がそう挨拶をすると、この警備室の責任者の年配の警備員が出てきたので、彼とも新年の挨拶を交わした。潤は途中で買った差し入れを渡す。 「昨年も頂いたのに。お気遣いいただきすみません。ありがとうございます」 「なので……、僕が今日来たことは内緒で」  潤が口許に指を添えて言うと、責任者の警備員が小さく笑った。 「今年も大変ですね。今、上層階の鍵を開けるように連絡しますね」 「ありがとう」  実はこのやりとりを昨年もしたのだ。昨年も仕事始めの前日の一月四日に、ふらりと会社に現れた社長を、この警備員は驚いた表情をひとつせずに迎え、上層階のセキュリティを開けてくれたのだ。  昨年はまだ社用のPCを自宅に設置しておらず、やむを得ずに出社したのだが、今年は自宅にPCがあるにも関わらずに出社することになってしまった。  自宅では仕事に集中できないのだから仕方がない。  警備員にセキュリティを解除してもらい、セキュリティカードを使ってエレベーターで役員専用フロアまで上がる。    フロアは少し陽が差し込んではいるが、いつもの雰囲気をとはまったく違い、閑散としていて寒々しい。  潤はそのまま執務を行う社長室のドアを開ける。  思えば、あの取締役会の日以来だった。  ようやく帰ってきたという気持ちと、懐かしいと思う気持ち、さらに十日前の出来事が交互に胸に押しよせてきて、複雑な気分がこみ上げる。しかし、とりあえずそれらには蓋をして、室内の蛍光灯を点けて、コートを掛けると、デスクに着いた。  そして、PCを立ち上げて、溜まったメールを裁き始めた。    潤が最後に出社したのは十二月二十四日。会社は二十七日まで営業していたため、その四日間、そして年末年始のタイムラグをこの時間でキャッチアップし、明後日の仕事始めに備えるつもりだった。  不在期間の実務を任せていた副社長の飯田は、あのあともスマホのメッセージアプリを使って報告を入れてくれていた。それを潤もチェックはしていたが、不急の案件については、社用メールで報告を入れてくれているはずだった。  一週間以上メールを開いていなかったため、受信フォルダを開くと未読メールの数がおびただしい。それを一つ一つ裁いていかねばならない。スクロールして件名をさっと攫うと、年末ということもあり、あまり重要案件は入っていなさそうなのが幸いだ。  一通ごとに部下からの報告をじっくり読んでは返信する、を繰り返した。  江上からも昨日の日付で一通入っていて、案件は新年の全社向けの社長メッセージの草案だった。  あの年末年始でいつ仕事をしていたのだろうと思うが、そこは今更である。さすが、仕事が速くて完璧だ。潤は了承する旨のメールを返信した。  どのくらいの時間、そのようなことを繰り返していたのか、集中していて自覚がなかったが、外から差し込む陽の角度が変わってきたことに潤は気が付いた。  いつもは日中でも蛍光灯を点けているため、そのような形で時間の経過を感じることはなかったが、今日は執務スペースのみ明かりを点けているため、些細な光の加減で時間の経過を意識することになった。  時計を見ると、出社してから二時間が経過していた。  喉が渇いたな、と感じる。お茶を淹れようと思い立ったが、さすがに給湯室に牛乳はないだろう。  でも、茶葉はあるだろうから、紅茶は淹れられるかなと思いつつ、チェアの上で思い切り背筋を伸ばした。  潤はチェアの背もたれにゆっくりと背中を預けて、脚を組む。そして窓の外の風景に視界を移した。  陽の傾きで日陰に入ったビル群が少しもの悲しい雰囲気を漂わせている。それが自分の気持ちと少しシンクロして、苦い思いがこみ上げてきた。  ここまできても、時間が空くと脳裏に浮かぶのが颯真のことなのだ。いや、今日は仕方がないのかもしれない。ほんの数時間前の出来事が脳裏に蘇る。    さっき、潤は四日ぶりに颯真と相対した。  潤が実家を出るときに、丸四日間の仕事を終えて帰宅した颯真と入れ違いになったためだ。まさか気持ちの整理がついていない状態で、颯真の姿を見ることになるとは思わず、動揺した。  颯真は帰宅してすぐにシャワーを浴びていた様子。身支度を調え、一階に降りようとする潤と、二階に上がってきた颯真が、偶然階段で落ち合ってしまったのだ。  最初に口を開いたのは颯真。潤を見上げて、いつもの調子で語りかけてきた。 「あけおめ」  それでも少し声は硬いかと感じた。簡単な挨拶に潤は、おかえり、と返した。たぶん、自分はいつもの声で返せたはず。  すると颯真はさらに問いかけてきた。 「体調は?」  潤は、平気、と頷いて視線を逸らしてしまった。颯真の問いかけは続いた。 「これから帰るのか?」  潤は頷いた。会社に行く、と短く答えた。 「そうか……」  颯真はそれ以上は聞いて来なかった。潤も階段の通路を空けてくれた颯真に、何のリアクションも返さずに、そのまま階段を駆け下りた。  正月休みを終えた父の和真が、午後の便で羽田から上海に飛ぶらしく、潤はその父の車に乗せてもらい品川の本社に出社することになっていた。  階下には両親が待っていたが、必要最低限の挨拶しか交わさなかった双子をどう思ったのか。  おそらく、これまでとは明らかに違う空気が二人の間を流れていたのは分かったはず。ただ、三十路になろうかという双子の兄弟が、あれだけべったり一緒にいたというのも普通ではなかっただろう。案外、両親もようやく兄弟離れができたのかと安堵しているのかもしれないと潤は思った。  その証拠に、車内でも特段和真から兄弟間の関係変化について、言及してくることはなかった。  親子で他愛のない会話ばかりをして東京に向かった。  潤がそのようなことを考えていると、不意にドアがノックされた。  コンコンと響き渡る、音。  誰だろう。骨髄反射のように、突如身体に蘇ったのは、扉の向こうから佐賀の姿が現れた、あの日の衝撃だった。身体が覚えてしまっている。落ち着けと、自分に言い聞かせる。  はい、と、それでも少し硬い声で応じると、ドアが開かれた。  入ってきた人物に、潤は驚いて、思わず立ち上がる。 「飯田さん……」  姿を見せたのは、潤が信頼する腹心、副社長の飯田だった。 「社長、お帰りなさい」  飯田は一礼した。

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