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 三人が退出して、室内は江上と二人きりになった。 「藤堂は、相変わらずふざけた奴ですね」  江上が呆れるような声を上げた。他の社員がいる前では絶対に出さないような、親友の潤だけが知る声色だ。  潤は苦い笑みを浮かべた。 「もともと藤堂には辛口だよな」  なんで私がって……会社でそんな言葉をお前から聞けるとは思わなかったよ、と含んだ笑みを漏らした。  業務中は徹底的に潤を上司、社長として扱い、サポート役としての姿勢を崩さない江上だ。そんな彼がとっさに反応した言葉は、潤にとって大層新鮮だった。 「申し訳ありません。ああいうノリを好まないだけで」 「うん。知ってる」  昔から、江上は藤堂と反りが合わないらしい。というか、江上が一方的に藤堂を避けている。  江上は森生家の分家にあたる江上家の次男。そのような意識が昔から彼にはあって、公私をきっちり分けるのも当然だと思っている。だから彼は、潤や颯真への接し方が、オフィシャルとアンオフィシャルでは大きく違う。  ここからは潤の想像に過ぎないが、そこをあやふやなままコミュニケーションをはかる藤堂の姿は、きっと江上の勘に大きく触るに違いない。  ……潤からみれば、江上もきっちり公私を分けているようで、時々有無を言わさぬところがあると思うのだが。    見ていると、不満はそれだけではなさそうなのだが、江上が一方的に藤堂に食ってかかっているという印象は拭えないが、そのあたりの詳細について潤は詳しくない。  同期といえど藤堂と会うのは、今は数年に一度。相性や好みを仕事に持ち込まないことを徹底している江上が、そこまで藤堂を毛嫌いしているのは珍しい反応だと思っている。  これはあれだなと潤は思わず口許が緩む。  完璧なアルファでも、こういうところで本音が見え隠れするというやつだ。 「社長」 「いや、お前でも苦手な人種がいるんだよなって、改めて」  そんな潤の愉しげな指摘に、江上は少し困ったように眉を寄せた。 「そうだ、さっきの藤堂の話で、片桐さんが取材を申し込んできた話。広報も同席していると思うから、その報告書を適当な理由で、こっちに上げておいてくれる?」 「かしこまりました」  それなりの規模をもつ会社であるため専門誌やマスコミなどからは頻繁に取材の申し込みがある。それらは、基本的に引き受けるというのが会社の姿勢で、広報部は窓口として一手に引き受け、適切な対応ができる部署に割り振っている。  同席した広報部の報告書を読めば、片桐が調べてたいことの一端が掴めるかもしれない。彼への連絡はそれからでも遅くはない。 「マスコミが今何を知りたいのかを知りたいね」 「……確かに。早急に対応します」  あとさ……、と潤はさりげなさを装って江上に話しかける。 「はい」 「ちょっと予約を入れて欲しいところがあるんだけど」 「承知しましたが、どちらですか?」 「この下の医務室」  さすがに江上の反応が詰まり、困惑の表情を浮かべる。 「社長?」  森生メディカルの本社は、常時約千人の従業員が働いている。彼らの健康を維持管理するために、社では産業医と契約を結んでおり、週に何度か階下に医務室が開設されている。  アルファはともかく、オメガの社員は体調が不安定なこともあるため、福利厚生の一環で月に一度、産業医の診察を無料で受けることができるし、健康相談などにも随時乗ってもらえる。  潤はこれまで颯真が主治医であったため、会社の医務室を訪ねたことも、産業医の世話になったこともなかった。 「香りが漏れてるって藤堂に言われた」  江上が驚いて近づき、失礼しますと潤の耳元に顔を近づける。 「……ああ、確かに。感じますね」  そう言われて、思わず潤は身体を引いた。  参ったなと思う。  このタイミングで香りが漏れていると藤堂に言われ、年始から抑制剤を全く飲んでいないことに思いあたった。本当に気が付かなかった。  これまで慎重にフェロモン管理をしていたのに、颯真から離れたとたんにこれだと、自分が少し情けない気分にもなる。  一月近くも抑制剤を休んでしまっては次の発情期を完璧に押さえられないかもしれないという心配もあるが、とにかく今は医師の診断と処方が必要だ。  しかし、新たにどこかの病院にかかる気にはなれないし、実家のかかりつけ医の天野医師を頼るのも気が乗らない。颯真はいわずもがなだ。  となると消去法で、手近なところで会社の医務室で手を打つことにした。 「藤堂は……そうでしたね。『雨読みが出来る男』ですから」  鋭い嗅覚を持つ藤堂の、同期ならば知るエピソードを江上が挙げる。  新入社員研修の自己紹介で藤堂は、嗅覚が敏感で、空気や風の匂いで、いつくらいからどの程度の量の雨が降るか予測できるのが特技と話した。聞けば、父方の祖父母が北海道で畜産と農業を営んでおり、幼い頃から頻繁に祖父母の元を通っていたため、匂いに敏感になったらしい。 「……そう、それ」  潤も笑みを浮かべる。 「向こうにいたときも結構指摘されたんだ」  その特技は渡独しても健在で、潤は何度もその嗅覚に助けられた。  あの頃は当然ながら定期的に颯真の診察を受けることができず、彼に紹介されたドイツ人のドクターに掛かっていたが、ストレスでフェロモンが安定していなかった。  朝出勤して、少し香りが漏れていると藤堂に指摘され、そのまま昼休みにドクターに連絡を取る、といったことを何度もしていた。   「で、早急に抑制剤が欲しいんだけど、僕が突然行ったらさすがに驚かれるでしょ。だからの予約」 「……確かに」 「よろしく」  潤は念を押す。  気のせいではないと思うが、江上の目はやはりなにか問い質したそうな雰囲気を持っている。何を言いたいのか分かっていたから、潤はあえてそのことには触れないし、触れてくれるな、という気分で話を打ち切った。   「ならば、社長……」  江上は少し考えている様子だ。 「いっそのこと、医務室の先生にはこちらに来て頂きましょう。往診のような形で。その方が社長も安心して診察を受けられるでしょうし」    ここで颯真が、と言われたらどうしようと思っていただけに、江上が潤の依頼に応じてくれて少し安堵した。 「診察って言っても、抑制剤もらうだけだよ」 「それでも、社長が医務室に入っていくのを誰かに見られたら、それなりに話題になると思いますよ?」  江上の指摘はもっともだ。潤は頷く。 「そうだね。そのあたり全部任せるよ。なるべく早めでお願い」 「承知しました」  江上は一礼をした。  潤が週末のデートを断ってから暫く連絡がなかった松也から電話が入ったのはそれから暫くしてのことだった。 「連絡、何度か貰っていたのに。ごめんね」  潤は水族館のデートを断った翌週、何度か松也に連絡を試みていた。しかし、松也も仕事が多忙であったようで、メッセージアプリで連絡は来るものの忙しげな雰囲気。向こうから連絡が来るまで、静かにして置こうと思っていた。 「いえ。松也さんは相変わらずお忙しそうですね」  いやいや、と松也は携帯電話の向こうで否定するが、声色に少し疲労感が窺える。 「……大丈夫ですか」  潤の気遣いに、松也も大丈夫と答えた。 「潤君の優しさが身に沁みるよ。  実は参加しているグループ研修会で纏めている論文が山場を迎えていて。みんな忙しい先生ばかりだから、集まるのも結構大変でね。俺も仕事が終わってから車を飛ばして都内に行ったりとかしていて。なかなか連絡がつかなくてごめんね。  でも、仕事が一段落ついたら、ご褒美に潤君の時間を少し僕に割いてくれると嬉しいな」 「……そのことなんですが」  そこでスマホの向こう側からサイレンの音が聞こえた。思わず部屋の時計を見る。もう日付が変わる時刻。 「あれ、もしかして当直でした?」 「いや、当直ではないんだけど、立て込んでる仕事を片付けるため残ってるんだ」 「忙しいのに、本当にすみません」  向こうの松也がくすりと笑った。 「俺としては、すみませんではなくて、忙しいのに連絡してくれてありがとう、の方がいいな。……って何度も潤君には言ってるんだけどね。まあそういう所もいいんだけど。  そろそろ梅が咲くね。ドライブとかどうかな。国府津の近くに梅の名所があるんだ」  梅林の向こうに富士山っていう絶景が見られるから、是非行ってみないかい、と松也が言う。 「二月に入ったら、俺も時間が取れると思う。朝から車で行って梅を見て、ビール工場見学でもして、温泉に入るっていうプランはどうかな……」  そう言ってから、松也は一瞬考えて言葉を重ねる。 「あ、でも潤君は温泉は駄目だよね。美味しいレストランがあるから、そこに行こう」  それで蒲鉾をお土産に買えば、日帰りでも十分楽しめるよ、と松也が誘う。  水族館の予定が消えてしまって、松也がまたいろいろと考えたのだろう。 「梅が咲き始めるのは、二月の半ばくらいかな」 「……そうですね。予定が合えば」  潤の消極的な言葉に、松也は自信満々の口調で言う。 「大丈夫、僕が合わせるから」  現状を顧みない言葉に少し面白くなって潤が突っ込む。 「また。忙しいのは松也さんなんだから」 「もう少しで、俺も時間が取れるよ」  時間が取れると言いつつままならないのが医師という仕事であるというのは分かっている。一方で潤も暇ではない。予定を合わせることは容易ではないと思い、なんとなく気が楽になる。 「……じゃあ、松也さんの時間が取れた時にでも」  その言葉嘘じゃないよね、俺はそれを糧に頑張るからね、と松也は笑って、通話を終了させた。  月が変わり二月になった。  潤にとって、月初めの大きな仕事は、今年四月に予定している組織改正について、各部門の部長クラスに意図と方針を伝えることだった。  クリスマスイブに開催された取締役会は、社内に対しては開催の事実のみ公表しており、詳しい内容は明らかにしていなかった。それ故に、社内でも大きな発表があるのではないかと噂が流れ始めており、幹部クラスには正確な情報を伝える必要があったのだ。  部長会は、毎週月曜日恒例で、ファーマ部門とデバイス部門のそれぞれで開催されており、その二つの会合で潤が四月一日付けの組織改正について説明した。  結果としてはさほどに大きな衝撃や反発はなかった。年末年始にかけて密かに立ち上げたタスクチームによる、各部門の問題点洗い出しが奏功した内容だったためだろう。  大きな変化が伴うため、一般社員には今月の下旬には社長からのビデオメッセージで直接伝えることで、方針を確認した。 「例の件。社長室への往診をお願いしました。水曜日の午後六時と少し遅めの時間なのですが、応じて頂けました。よろしくお願い致します」    江上から、そんな連絡を貰っていたのに、潤は今社長室に急いでいる。  二月初めの水曜日の午後六時過ぎ。  下の階のミーティングルームで、例の組織改正に伴うタスクチームのミーティングが予定よりも長引いてしまい、約束の時間を少し過ぎてしまったのだ。  先程、江上からはメッセージアプリで、先生は到着しているので、社長室に通してありますと連絡が入っていた。  産業医とはいってもドクターなのだから、暇ではなかろう。一人社長室で無駄な時間を取らせてしまい申し訳ない。    そういえば、と潤はエレベーターの中で思い起こす。全く面識がないドクターに診察してもらうのは久しぶり。ドイツにいた時以来だ。  今回は会社が契約している産業医なのだから、不安に感じる必要はないが、それでも少し緊張する。  エレベーターが、目的階への到着を告げ、扉が開く。秘書課の前を通りがかったとき、江上に声をかけよかと思ったが、すでに約束の時間は過ぎているため、諦めた。  扉が閉じられた社長室のドアをノックして、ノブに手を掛ける。 「失礼します」  扉を開くと、目の前にネイビーのスーツの後ろ姿が見える。窓からの風景を眺めているようで背を向けていた。男性のようだ。  潤は背中に向かって挨拶した。 「お待たせしてしまい、申し訳ありません」  そう言って、思わず脚が止まった。  動けなかった。  後ろ姿に、十分見覚えがあったからだ。その背丈、すっきりとした背中、そして少し癖のある茶色の髪。  スーツ姿の人物が振り返る。  潤は心臓を掴まれた気分になった。 「遅かったな。待ちくたびれたぞ」  目の前にいるのは、久しぶりに見る片割れの姿だった。

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