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潤がワイシャツを整え、ネクタイを結び直してソファに腰掛けると、タブレットとにらめっこをしていた颯真が顔を上げた。
「フェロモンのバランスが安定していないな」
個人差があるにせよオメガの身体に一定の周期で発情期がやってくるのは、時期ごとにフェロモンの波があるためとされている。それを検査しては最適な抑制剤をチョイスしているわけだが、颯真によると、そのバランスが少し崩れているという。
発情期が終わって一ヶ月経った時期ならば、安定している状態といえるはずが、少し多めにフェロモンが分泌されており、症状として香りが漏れてしまっているという。
「一ヶ月抑制剤を服用していないからだな。お前の場合はずっと抑制剤の服用をベースにしてサイクルを作ってきたから、長期間抑制剤を服用していないことで、身体が…そうだな、簡単に言うと少し混乱してるっていう感じ」
本来であれば、発情期を越えてさらに抑制剤を使うことで、きっちりとしたサイクルに戻るはずだったのだが、発情期を越えてそのまま放置した期間を作ってしまったのが原因らしい。
ただ、こういうケースは特段異常なことではなく、オメガのフェロモン量を観察していれば珍しいことではないと聞いて、潤は少し安堵した。
「大きな原因は、もちろん抑制剤を飲んでいないことだけど、ストレスや疲れも原因の一つだから、規則正しい生活も心掛けてな」
潤が無言で頷いた。確かに今は、仕事もプライベートもいろいろ抱えすぎている。目の前に言うなればストレス源もいるわけで、身体が敏感に反応してしまうものなのだと実感した。
颯真がタブレットを引き寄せる。
「抑制剤はちょっと強めのを出すから。一ヶ月飲んでないけど、飲み慣れているものだから身体もすぐ慣れる。
今回のように鼻が利くといえど、アルファに香るなんて言われるとびっくりするからな。まずはバランスを安定させよう」
颯真の言葉は、さらりと誰に香りを指摘されたのか、知っているぞと主張しているように聞こえた。
ドイツにいた頃、同僚の藤堂から香りが漏れていると何度も指摘を受けたという話を、颯真に気軽に話したことがある。その時、颯真からアルファにバレるなんて無防備すぎるとこっぴどく叱られたのだ。今回は、江上からきちんと報告が行っているらしい。
颯真がドクターバッグから取り出したのは、PTP包装されたメルト製薬の抑制剤だ。二シートを潤の前に出す。確かに見慣れた薬剤だった。
「もし体調に何か変化があったら教えて。薬を変えるから。無理することないよ」
手渡された薬剤を眺める。
見慣れた薬剤。飲むことが当たり前になっていたのに、なぜこうも忘れていたのか。きっとそれほどまでにこの一ヶ月はめまぐるしく、そして普通ではなかったのだ。
「とりあえず、十日分。抑制剤が効いていればフェロモン量も落ち着いているはず。不意に香ったりとかしないようになると思う」
「……分かった」
潤は静かに頷いた。
で、次の診察なんだが、俺でいいか? と颯真が不意に問いかけてきた。ここまで押しかけておいて、思いがけない質問だ。
「……颯真で?」
「うん。俺に診られるのが、嫌でなければいいんだが」
もし仮に嫌だと言った場合、どうなるのだろうとふと思う。
すると、鋭く察知した颯真が、言葉を重ねる。
「もし、俺の診察を受けるのが嫌なら、紹介状を書く」
その意外なほどあっさりした対応に、潤は驚いて思わず顔を上げた。
「え」
そこで待ち構えていた颯真の視線に、潤は捕らわれた。
「天野先生でもいいとは思う。でも、俺としてはもし潤が構わないというなら、本院の和泉先生にお願いしようと思ってる」
自分が駄目ならば、誰に託すか、颯真がそこまで考えていたことが、潤にはとにかく意外で、とっさに反応することができなかった。
それに、託す先が誠心医大学病院の和泉暁医師とは、まさかと思った。
「和泉先生は抑制剤でのコントロールが巧い先生だから、お前を安心して託せる」
どうする、と真剣な表情で決断を迫ってくる。
いきなりの決断を求められて、潤は躊躇う。
「……え、今ここで決めるの?」
潤が思わずそう問うと、颯真がうなずく。
「次の診療はできれば十日後。となると、これから紹介状を書いて診療予約を取るとなると、日程的にギリギリだ」
そういうことか。なら、反論などできようもない。
颯真から、どうする、と決断を迫られる。
ぴりりと、なぜか少し張り詰めた空気が漂う。
「……僕は」
正直、颯真と十日後にこうしてまた診察を受けると考えただけで、今の自分にとっては心に負担がのしかかる。こんなに狼狽えて緊張するのだから仕方が無い。
本来であれば、颯真から離れたほうがいいのかもしれない。颯真と離れて冷静に……と、潤は思ったが、離れていても冷静に考えられないことは、これまでからも明らかだった。
果たして、十日後に自分は颯真の診察を冷静に受け入れられるか、その覚悟はあるか。
密かに自分の心と静かに向き合う。
そして潤は首を横に振った。
「いい」
颯真からの視線を感じる。
「……俺でいいか?」
うん、と潤は頷いた。
「颯真がいい」
それは意外な決断と捕らえられたのか。
「……そうか」
「これまでどおりでいいから」
その言葉に、目の前の颯真が小さな吐息を漏らした気配がした。
潤は顔を上げる。すると、わずかにほっとしたような表情を浮かべた片割れの姿を認めた。
これまで潤は、颯真は何にも動じないアルファならではの強靱な精神力を備えていると思っていた。だからこそ、揺らぐ弟を支え、兄として力強く引っ張り、時には背中を押してくれてきたのだと。
しかし、こんな間近で颯真の反応を見ていると、たとえ颯真の様子が平静で冷静だったとしても、本音は違うのかもしれないという思いも過ぎる。
「じゃあ、薬がなくなったら、うちの病院に来てくれる? いつものように直前の連絡で構わないから」
そう言われて、潤は素直に頷いた。十日後は週末にあたってしまうから、金曜日の夕方に仕事を少し早めに切り上げて、品川から社用車で横浜に向かうことになるのだろう。
去年秋までの日常と同じだなあと、不意に懐かしさにかられてふわりと思った。
あとは……、と颯真が呟き、わずかに黙る。
緩んだ空気が少し変わったのを潤も感じた。
「次の発情期は、本来の予定では三月の終わりになる。いつもは抑制剤できっちり押さえちゃうんだけど、これだけの期間放置したら難しいと思う」
それは密かに想像はしていたものの、直接言われてしまうとやはり堪える事実。腹に重いものがのしかかった気がしてならない。やはり主治医から正面から覚悟せよと言われると、前回の発情期の記憶が蘇って憂鬱になるのだ。
なんせ、三十年近く生きてきて、発情期の記憶があの年末の一週間だけなのだから。
これは軽いトラウマになってしまったのかもしれないと潤は感じた。
潤の反応が目に見えて鈍くなったためか、颯真が繕うように言い添えた。
「心配すんな。これからでも、できることはあるし、可能な限り軽く済むようにしていくから」
その力強い言葉に、潤は顔を上げて頷いた。
「うん……。よろしく」
そう、前の発情期は自分が、佐賀にフェロモン抑制剤グランスを打たれてしまったことによって、すべての計画が狂ってしまった。
本来であれば、颯真がきっちりコントロールしてくれて、軽い発情期で済むはずだったのに。
今回も颯真がいてくれる。必要以上に恐れる必要はない。そう、颯真はちゃんと楽にしてくれるのだから。
前回もそうだった。
そう思おうとして、発情期の最後の一日が脳裏を過ぎる。
まさか抱かれるとは思わなかった。
いや、そうではない。
あれは最後の手段だった。それまで颯真はちゃんと管理してくれていたではないか、それを番がいないオメガの発情期が辛いのは自己責任であると拗らせてしまったのは、自分であって……。
あの発情期しか経験していない潤にとって、次の発情期はどんなに繕ったとしても恐怖に近いものを感じてしまう。
そして、前回自分を抱くことによって発情期を終わらせた颯真に、すべてを託すことに少なからず戸惑いがあるのは事実なのだ。
もう。結局は堂々巡りだ。
しかし、ここで和泉を選んだら、颯真と決定的な見えない溝ができるような気がしたのも事実。
「……颯真は冷静だね」
本音が口からついて漏れる。自分ばかりがから回っているかんじがして仕方が無い。
潤は颯真を見つめた。
「どうしてそんなに冷静でいられるの」
二卵性といえど双子なのに、あまりに違う。
いや、同じであっても戸惑うが。
すると、タブレットから顔を上げた颯真が、少し自嘲的な笑みを浮かべた。
「潤には、俺が冷静なように見えるのか」
と、意外な反応が返ってきた。
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