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「潤君!」
そう爽やかに自分を呼ぶ声がする方に視線を向けると、愛車の窓を開けて顔を出している松也の姿が入った。
その日の夕方。午後六時半前の品川駅、港南口。
潤が仕事を終わらせ、コートを羽織って会社から品川駅前まで行くと、すでにロータリーには松也の車は到着しており、呼び止められた。
潤が小走りに松也の車まで近寄ると、松也が出てきて、助手席に回る。ドアを開いて、エスコートをしてくれた。
「ありがとうございます」
素直に礼を言って乗り込む。
どういたしまして、と松也がにっこり笑い、再び運転手席に戻り、車を発進させた。
「電話では結構話しているけど、実際に会ったのは久しぶりだよね。
品川でランチをして以来?」
松也が潤に視線を流す。松也も仕事を上がってそのまま来たようで、スーツ姿だった。
そうだっけ……と頭をひねり、そうだったと思い出して潤は頷いた。あれはたしか年が明けてからさほど経っていない頃だった。……もう一ヶ月も前になる。
「そうですね。なんか一月が終わるのがとても早くて、そんなお久しぶりとは思えないんですけど」
「言えてる」
松也は苦笑した。振り返ってみると松也はマメな性格だ。忙しくてもメッセージアプリでのやりとりは最低限していたし、電話も程々にしていた。ただ、会う時間がなかった。
「松也さんもお仕事が大変そうでしたし」
松也も前を見たまま、笑った。
「あはは、まあね。潤君にそう言われると、責められてる気分だ」
確かに連絡すると言っておいて、音信不通になった時期もあったが、後々に聞けば仕事が忙しかったらしい。
「そんなことないです。ドクターが忙しいのは十分分かっていますし」
潤がそう繕うと、颯真君も忙しそうだしねえ、と松也が呟いた。潤が思わず反応できずにいると、少し気まずい空気が流れた気がした。
車窓に視線を流すと、いつもとは違う道を走っている。それが疑問として表情に出たのだろうか。松也がフォローするように一言添えた。
「もうすぐ着くよ」
「え、どこに向かってるんですか」
驚く潤に、松也は、少し視線をこちらに寄越した。
「今日は、天王洲アイルのお店を予約しているんだ」
この人はやはりそういうところがそつがない。
「ぜひ潤君を連れて行きたいと思っていたお店」
松也の言葉に、潤は恐縮してしまう。
「お忙しいのに、本当にすみません」
潤がそういうと、松也は「だから、こういうときはありがとうでしょう」と応じた。このように、ぐいぐいくるところはやはり松也だなと思ってしまう。
「ありがとうございます」
潤はしかし素直にそう言って微笑んだ。
アルファというのは総じて店選びの嗅覚が鋭いのだろうか。
そんなことをはないのだろうが、潤が知るアルファは皆そうだ。江上も颯真もちゃんとその場にぴったりの店をちゃんとチョイスすると思っていたが、松也もその手の嗅覚が鋭いような気がする。
松也が潤を連れてきたのは、この辺りを縦横無尽に走っている運河沿いにあるカフェバーだった。
倉庫を改装したような、天井が高く広い店内から、テラスに出られるようになっており、運河の向こうの品川の街並みを一望できる。
しかも人気店らしく、午後七時前なの広い店内には多くの客がおり、飛び込みでの入店は難しそうなほどの混み具合だった。
松也はテラス席を予約していたらしい。まだまだ外は寒い時期だが、屋根から透明のシートが張られており、外の冷たい空気が遮断されていて、暖かく外の雰囲気も楽しめる趣向となっている。おそらく人気席なのだろう。
二人掛けのテーブル席には、小さなキャンドルと一輪挿しが置かれており、小さな白い花が活けられている。客席数も多く混んでいるのに気配りが行き届いた店のよう。店員に導かれて、潤は松也の右隣の席に着いた。
彼は何度か来ているらしい。この時間はもうすでに完全に陽が落ちてしまい暗いが、彼によるとこのテラス席は春から初夏の時期が最高だからまた来よう、とのこと。
「仕事の打ち上げで何度か、ね」
行きつけのお店ですか、と問うた潤に、松也は笑ってそう答えた。
店員からメニューを受け取って気が付いたが、ここはクラフトビールのラインナップが充実している。聞けばクラフトビールの醸造場を改装した店舗らしい。
松也は、自分は運転するからアルコールはNGだけど、潤君は気にせず楽しんで、と言った。
しかし潤も松也をさしおいて一人で飲む気はない。結局二人でノンアルコールドリンクを注文する。
これはこれで種類が豊富で、メニューを見ているだけで楽しい。目移りするような色とりどりの凝ったドリンクの
写真から、潤はクランベリージュース、松也はレモネードを選んだ。
「ここは何でも美味しいよ。潤君は意外にもがっつり系も好きみたいだから選んだんだ」
「ありがとうございます」
潤は素直に微笑んだ。潤と松也は、気軽に食べられるカプレーゼとサラダ、フィッシュアンドチップスを選んだ。
「松也さんは、本当に忙しいんじゃないですか。外科医の先生はほとんど寝る暇もないと聞きますし」
店員が去ってから、潤が気遣う。
「僕も入社してすぐのMR時代に、外科の先生についたことありますけど、ほとんど相手にしてもらえなくて。歩いていることがないような先生でした」
潤がそう振り返ると、松也が頷く。
「あーそれは言えてるね。俺も院内では歩くより走っているほうが多い」
走らないと身体が間に合わないんだよね、と松也が笑った。
「松也さんはどうして外科を選んだんですか?」
潤の不意の問いかけに、松也は少し考える仕草を見せた。外科はやはり体力的にもしんどいし、それ故に希望する医師も減っているという話を聞く。
「うーん。やっぱり、生命を助けるという観点では外科だと思ったんだよね。
いや、もちろんどんな領域でも医師であることに代わりはないし、内科医ももちろん多くの生命を救っている。だけど、内科系と外科系と、大ざっぱにそう括った時に、目の前で血を流している人を助けられるのは外科だと思ったんだ」
松也が口にした例えが妙に生々しく印象的だった。
「目の前で血を流している人……」
松也も苦笑する。
「実際に事故現場とかで、そういうシーンに遭遇したことはないよ。でも、学生時代の頃かな、そういう夢を見たことがあるんだ」
潤は興味を惹かれた。
「夢、ですか」
「そう。目の前に血塗れの人が倒れている夢。血がどくどくと衣服を濡らしていて、俺もヤバイと感じているんだ。でも、自分にはこの人を助ける技術がないことがわかってる。本当にもどかしくて、悔しかった。誰かに託して、助かりますようにって祈るような気持ちになって、何もできない自分が辛かった。
そんな夢の感情が痛烈に記憶に残ってて。たぶん、大事な人だったんだと思う」
「誰なのかは覚えていないのですか」
松也は頷く。
「そう、その肝心なところはすっかり。忘れちゃったのか、もともと覚えていなかったのか。身内なのか恋人なのか。
でも、あの夢を見てから医師を目指すからには救命を、と思った。そんな歯痒い思いはしたくないから。それで、外科を選んだ」
「強烈な思い出ですね」
潤が応じると、松也が「夢だけどね」と軽く受け止めてから、でも、喝を入れられた気分になったよ、と苦笑した。
注文したノンアルコールドリンクが運ばれてきた。
潤と松也はそれぞれのグラスを手にして、再会を祝して乾杯した。
クランベリージュースは濃厚で、甘さと酸っぱさが絶妙なバランスで美味しい。松也が注文したレモネードは自家製らしい。
「ドクターを目指したのは天野先生の影響ですよね、やっぱり」
潤が立て続けに問う。すると松也は楽しそうに潤につっこむ。
「今日はぐいぐい聞いてくるね」
「いや……あの」
「いやいや、嬉しい。俺のことに興味を持ってくれてるのかなって思えて」
それは誤解を生みそうだと潤は焦る。そういうわけでは……と否定しようとして、それもまた失礼だなと思い直した。
「そう。たしかに父の影響なんだ。俺はこれでも父の後を継いで、アルファ・オメガ専門医になるつもりだった」
父の病院もちゃんと継ぎたかったしね、と松也は言う。
「でも、残念なことに俺はアルファだった。中三の時に知らされる、第二性別通知書ってやつは残酷だよね。あれで人生が大きく変わってしまう子はいるけど、……俺もそうだったんだろうな」
松也は懐かしそうに、そして寂しそうに笑った。
「医学部に進むつもりで、高校も医学部受験に強いところを狙ってた。あの頃はアルファと分かってても、自分の将来の夢にはなんら障害はないと思っていたんだ。でも、実際に医学部に入学して、父からはアルファ・オメガ領域はやめた方がいいと勧められた」
潤は意外な思いを持って松也の話を聞いていた。アルファとして自信に溢れた松也が、アルファであったが故に挫折を経験しているということ。
「今ならば分かるんだ。あの領域はやはり特殊で、アルファが目指すには負担が大きい。アルファの息子には荷が重く、生半可な覚悟ではやっていけない。父の心配も分かるし、そのとき止められたのも分かる。
だから、俺もその言葉を受け入れて、アルファ・オメガ領域ではない、違う道を模索していたんだ」
医学部に入ったはいいけど、何を目指したいんだとずっと自問自答の日々だったよ、と松也は振り返った。
「大事な人を助けられなかった夢は、その頃に見たんだ。俺も単純だったから、なにか運命じみたものを感じたんだよね」
松也は笑った。それから十五年以上経ったが、外科医として食えてるんだから、結果オーライということかなと締めくくった。
潤は何も言えなかった。
「潤君?」
「……意外でした。松也さんはずっと順調に人生を歩んできたと、僕は勝手に思っていました」
潤には意外なエピソードとしかいいようがなかった。とくに印象的だったのは、松也が自分の第二の性を「残念なことにアルファだった」と表現したこと。
アルファだと信じて疑わず、ふたを開けたらオメガだった潤にとって、その逆の結果だった松也の気持ちを思うには少し複雑だが、共感できるところもある。
「潤君?」
「いえ」
「がっかりした?」
松也らしくない少し自嘲的な問いかけに、潤はとっさに首を横に振る。
「いえ。むしろ、松也さんを深く知ることができてよかったです」
潤は初めて、天野松也という人物の芯に触れた気がした。
「そう。幻滅されないでよかった」
松也も安堵した表情を浮かべた。
店員がちょうど注文したサラダとカプレーゼを運んできた。
グリーンサラダに、トマトをモッツァレラのカプレーゼが並び、テーブルの上は一気に華やぐ。松也が気を利かせて、緑と赤と白を彩りよく盛りつけてくれた。
「ありがとうございます」
「それで、潤君」
潤がフォークを手にする。松也が話題を変えてきた。
「次のデートだけどね」
そうだった。
「あ……あの」
その言葉に、潤はわずかに躊躇ったものの、今しかないと、松也を改めて呼び止める。
少しこれまでとは違ったいい雰囲気になっている気がして、それを壊すのに躊躇いもある。しかし、言うならば、今しかない。
「なんだい?」
手にしていたフォークを皿に添え、改めて身構えた。
「あの、前からお話をいただいている、僕をパートナーにという話なんですが」
この話題をここで振られたことが少し意外だったようで、松也はうん? と素直に頷いた。
「申し訳ないのですが、やはり僕はその話をお受けできません」
潤は隣の松也に、はっきりとそう言ったのだった。
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