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「会いたいよ……」
思わず口からついて出た。
一気に潤の中で感情が爆発していた。
まず脳裏に蘇ったのは颯真の手。
大きくて温かい、いつも躊躇いなく潤に触れてくる手だ。
潤より少し焼けた肌の色や、節や爪の形、そしてしっとりとした感触さえ蘇ってくる。その手が、いつも自分の頬を心配そうに這い、目が、気遣うような色を見せて揺れる。心配ばかりかけているのかも。いつもそういう色を浮かべていた。
「大丈夫か?」
唇が動く。その温かくしっとりとした手に包まれて、自分は、いつもわずかな反発心と大きな安堵感の中で大丈夫と頷くのだ。
颯真の目。
自分の深いところまで、なんでも見透かされそうな深い視線。
しかし、今颯真に見つめられては、今の自分は酸素が足りなくなった魚のように、パクパクとあえなく息ができなくなってしまうかもしれない。
その目にさらされたい。触れられたい。その口でキスを受けたい。
いや、単純に颯真に会いたい。
心の中で逸るように育つ颯真に会いたいという気持ちが、これまでとは全く違うことに潤は気づいてしまっていた。
颯真の姿を見ただけで、この不安は霧散する。
愛おしい人と離れている時間が、こんなにも狂おしいものだなんて知らなかった。自覚するまで考えたこともなかった。しばらく前までは考えることさえできなかった片割れのことを、こんなにも想う日が来るなんて、正直、潤は想像もしていなかった。
颯真に会いたくて会いたくて、苦しい。
これが、兄弟間では持ち得ない愛情であり、恋慕というものかもしれない。
颯真の枕を強く搔き抱く。
そこにいない存在を少しでも感じたい。
大きく呼吸をして、その香りを感じて安心したかった。
視線の先に、放置されたスマホが留まった。
そのまま手を伸ばせば、手にできそうな距離だ。
潤は手を伸ばしかけて、わずかに考える。
颯真に電話をかけて、まずなんて言えばいいのか分からなかったのだ。
会いたい?
そんなことを言ったら、驚くにちがいない。
少し落ち着け。
自分が普通の精神状態ではないことに潤は改めて自覚した。
颯真の枕に身を寄せたまま、大きくゆっくりと深呼吸を繰り返した。
もう夜中だし、颯真に会いたいなんて言えるわけがない。それに少し冷静に考えれば、今颯真に会ったら自分の気持ちなど、言わずともばれてしまう。それはとても恥ずかしい……。
それに颯真は仕事かもしれない。
そうだ仕事だろう、きっと。
潤は気持ちを宥めるために、自分にそのように言い聞かせる。
それ以前に、自分の気持ちは颯真に果たして受け入れてもらえるのかも分からない。颯真が大晦日に告白してきたことがもともとの発端だが、気持ちが颯真に追いついたとたん、颯真はその気持ちを失っていたなんてことはないだろうか。待たせすぎて呆れていないだろうかという不安もよぎる。
考えれば考えるほどに不安になってくる。
颯真が双子の弟である自分をオメガと自覚したのは小学生の時。それから恋心を抱いたのはいつなのかは聞いていないが(そんなことは容易に聞けない……)、ただ、そんな気持ちをずっと抱いて、自分の横にずっと立っていたのだ、あの片割れは。
それはとてつもなく長い時間に思える。
自分に振り向く保証もなく、片割れとして兄として家族として、ずっと隣にいた颯真。
一体どんなことを考えてここまできたのだろうと思う。
颯真には自分からも告白しようと思う。
松也のことをきちんと片付けてから、気持ちを伝えたい。
潤は、颯真のベッドの中に身を埋め、彼の香りに包まれて、己を煽ってさらに二度達した。
発情期に一人で慰める行為はあれだけ切なくしんどかったのに、今、颯真のことを思いながら慰めると、幸せな気分になる。愛おしい人の存在が胸にあると、こうも違うのかと潤はしみじみ感じた。
そして、全裸のまま颯真の寝具に包まれて、安心して眠った。
翌朝、目が覚めた。
颯真の部屋も遮光カーテンで朝日が漏れてくるのはごくわずかだが、外が明るくなったのは分かる。
起きてみると、全裸で、周りの惨状を見て血の気が引いたが、それでも身体は軽く、気分は清々しかった。
証拠隠滅とばかりに、颯真の部屋のリネン類を洗濯機に入れてスイッチを押し、簡単にシャワーを浴びる。
久しぶりにちゃんとしたものが食べたいと思い、冷蔵庫を物色すると、冷凍庫に颯真が保存していたと思われる冷凍クロワッサンが出てきた。それをオーブントースターで焼きつつ、ロイヤルミルクティを煎れる。
パンの甘い香りが漂い、ミルクティの濃厚な香りがキッチンに充満する。朝日を浴びたリビングが、どこかこれまでとは違うもののように思えて、潤はひとりで気分がよくなった。
朝食を終えて、颯真に電話をした。
連絡を取るのを躊躇ったが、松也とのことを連絡しておかねばらないと思ったのだ。
少し緊張して、スマホの画面を指を滑らせ目的の番号をタップした。
颯真はすぐに応答した。
「颯真? おはよう。今いい?」
潤は、いつもの調子で話しかけることができて内心で安堵した。
潤の問いかけに、颯真もおはようと挨拶をして、大丈夫だと答えた。
「仕事は?」
今は朝の九時だ。仕事であれば応答することはなかったと思うのだが。
「さっき帰ってきたところ。仮眠してまた夕方には出るんだけど」
「休日なのに大変だね」
潤のねぎらいに颯真も頷いた。
「だから人手が要るんだよね」
聞けば救急救命センターにヘルプで入っているらしい。
「こっちもいい経験になってるから、心配するな」
「あのさ、ちょっと厄介なことを抱えたから、報告しておこうと思って」
声色が変わった潤に、颯真もすぐに反応する。
「なんだ。廉は知らないことか」
潤はうん、と頷いた。おそらく颯真は、自分が江上に話したことは一通り知っているのだろうと思う。
「廉はこういうことには巻き込めないよ。もう尚紀の番だからね」
「……そうだな」
「あのさ、松也さんのことなんだけど……」
潤は一瞬、どのように切り出そうか逡巡する。が、ストレートに話すことにした。
「年末の僕と颯真のこと、知ってるみたいなんだよね、彼……」
「………」
あまりに意外な展開だったのかもしれない。あの颯真が言葉を失っていた。
「それで、そのことを母さんに話すと。それが嫌なら、パートナーとして自分を選べと言われた」
僕がちょっと油断したからと話すと、颯真が厳しい声で問うてきた。
「潤。何があった?」
潤は、先日の松也とのやりとりを、颯真に説明した。
食事に誘われて天王洲アイルのレストランに行ったこと、そこで松也からパートナーになってほしいという申し出をきちんと断り、彼も納得してくれて、友人としての付き合いを継続しようという話になったこと。そして帰りの車内でのやりとりと、松也が提示した取引内容。できるだけ冷静に私情を交えずに淡々と説明できたと潤は思う。
一方で、スマホの向こう側の颯真の反応は、うんうん、と相槌を打つが、だんだんと雰囲気が険悪なものになっているような気が、潤にはした。
「悪い。それはお前のせいじゃなくて俺の責任だ。俺がお前にキスマークなんて付けるから」
颯真はそう言うかもしれないと、潤は予想していた。しかし、社長室であのような行為を許したのは自分だ。なにより、松也に見つかったのは自分のミスだ。
「そこじゃないよ。僕に油断があったから」
「でも。いや、分かってると思うが、松也さんのそれは脅迫だ」
颯真が重い一言を告げる。潤も頷いた。
「だよね……。できれば穏便に済ませたかったんだ。母さんが天野先生を信頼してるし」
スマホの向こうからも「そうだな」と同意が聞こえた。
「どうするつもりだ? 一人で大丈夫か? お前のことだから、何か考えているんだろうけど……」
そのような信頼感が、潤にはとても嬉しい。
大丈夫と応じた。
「やっぱり颯真は分かってるね。僕もやられたらやり返す方向で考えているんだ」
さっき、松也さんが僕の発情期の経過をカルテで見たって話したじゃん。それって、完全に個人情報保護の観点ではNGだよね、と潤は切り出す。
すると颯真は察したようで、ああ、なるほどな、と応えた。
カルテの業務外閲覧というのは、わりと「ある話」と潤も聞いたことがある。
昔のような紙のカルテであれは、診療科内にファイルとして保管され、閲覧するにも周囲の目もあって関係者以外は難しかったが、電子化されたことで、IDとパスワードがあれば容易にアクセスができるようになった。それは多くの関係者がリアルタイムで情報共有ができるようになる一方で、プライバシーの保護が難しくなり、閲覧者自身の職務倫理上、自制が求められる。
そのため、現在は多くの病院で業務外でのカルテ閲覧禁止を院内規定や、診療録の運用規定に盛り込んでいるケースが多い。
誠心医科大学病院でも、もちろん電子カルテの職員の閲覧については制限されているにちがいない。
外科の松也が、アルファ・オメガ科で治療を受ける潤のカルテを覗くのは、完全に職務上の権限を逸脱した行為だ。知り合いであるなどというのは関係ない。規定違反になる。潤はその部分を突こうと考えていた。
「松也さんが、颯真とのことを両親に話すのであれば、僕は自分の診療録の閲覧履歴について情報公開を求める」
患者自身からの情報公開請求がされれば病院側としては調査せざるを得ず、そこで松也の職務規程違反が明確になれば、彼は処分の対象になる。これは、彼に対して牽制になるはずだ。
「正攻法だな。疚しさがないだけに良いと思う」
颯真が、スマホの向こうで冷静な感想を漏らす。
「俺もなにか手伝いたいが、俺が先に動くと、今度は情報漏洩を疑われかねないから、結局はお前の案で正攻法で動くのが確実かな」
その通りだった。当初潤も、颯真にカルテのアクセス履歴を探ってもらおうかと思ったが、それは颯真から部外者の潤への情報漏洩を、逆に松也に突かれる懸念があった。
「そうだね。本当は颯真にお願いしようと思っていたんだけど、リスキーだね」
颯真はあっさり分かったと頷いた。
「でも、頼むからGPSはオンにしておいて。いつでも場所は明らかにしておいてくれれば、俺も駆けつけられる」
潤は苦笑した。
「わかった。颯真は心配性だね。大丈夫だよ。人気かないところは行かないよ」
「それは当たり前だ。車の中も密室だからな」
先日のやりとりはまさに自宅前という安全な場所の車内で交わされた。颯真の念押しに潤も頷いた。
それでも、松也との交渉が決裂した場合を想定しておかねばならない。
「もし、松也さんを通じて母さんに知られることになったら……」
潤の懸念を、颯真が心配するな、と一蹴する。
「お前が、松也さんにノーと突きつけることが大事なんだ。俺にとっては、潤が松也さんの番になるほうが悪夢だからな。
もし交渉に失敗しても、あの年末の出来事が親に知られるだけだ。たいしたことはないと思え」
「たいしたことはない?」
思わず漏らした潤の呟きに、颯真が頷く。
「そうだ。責められるのは、主治医でアルファの俺だ。お前になんの咎はない。心配はない」
潤は少し戸惑った。
「そうじゃなくて……」
「何か違うか」
そうかと潤は思い至る。
颯真はまだ自分の気持ちを知らないから。わざと自分に責任を追わせないように庇ってくれているのだ。
なんて言って良いのか、潤には分からなくなった。
「……心配しなくていいから」
颯真が念を押すように言う。
潤は頷くしかない。
そしてそんなことを颯真にさせないように、松也を思いとどまらせなければならない。
「わかった。颯真」
「なに?」
「明日の夜、こちらに来れる?」
「仕事は定時には終わると思う。潤、やっぱり、俺も松也さんとの場に同席したい」
颯真の気持ちは嬉しいが、潤は首を横に振った。
「駄目。颯真に伝わっていることまで分かったら、松也さんが何をするか分からない」
その言葉に今度は颯真が黙った。
「その通りだ。……じゃあ、お前に俺が掴んでる情報を渡しておく」
お前なりに上手く使ってくれればいいから、と颯真は言った。
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