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朝から降り続く冷たい雨は一日中、しとしとと街を濡らし、松也との待ち合わせ時間になっても止むことはなかった。
潤は江上にプライベートで人に会うことを告げて仕事を切り上げ、待ち合わせ時間の五分前に品川駅の港南口に立っていた。この時期の雪に変わらないまでも気温が下がりきった雨は寒い。革靴の足許は冷たく、スリーピースにコートを羽織っていても冷たい風が吹き抜けて、寒さで身が震える。
松也の車は待ち合わせ時間ぴったりにロータリーに入ってきた。潤が歩み寄ると、松也は雨が降っているにも関わらず、車を降りて潤を助手席にエスコートしてくれる。そして自身も運転席に戻ると、車を発車させた。
車内はエアコンで適温に保たれており、寒い街中で立っていた潤は少しほっとする。松也も仕事帰りなのだろう、いつものようにスーツ姿だった。
「ずいぶん待った?」
松也が運転しながらも潤に視線を送る。潤はいえ、と短く応じた。
松也はどこに行こうとしているのだろう。
車はロータリーをくるりと周り、線路の脇を走っている。
「先日の話は、考えてくれたかな」
突如として松也が切り出した。潤は不意を突かれた形だが、その動揺をなんとか身のうちに押さえ込む。
「それは……、どこか落ち着いてから話しましょう」
この、運転手に主導権がある二人きりの密室で、この話をしたくはなかった。
潤がそう提案すると、松也も頷いた。
「そうだね。これから中目黒の潤君の家の近くまで行くけど、行きつけのお店とか、おすすめはある?」
そんなことを松也に聞かれたのは初めてだった。潤が言いよどむと、松也が意外なほどに優しい瞳を向けてきた。
「なんか、とても緊張しているみたいだから。俺の馴染みの店でもいいけど、そこよりは行き慣れた場所の方がいいんじゃないかなって思って」
潤は唇を噛んだ。
この人は……。
本当にこういうところが松也という人なのだろうが、一歩引いて見てしまうと、嫌みな性質にも思えてくる。この人をストレートにいい人だと思えば、気遣ってくれる人になるのだから、受け手の意識一つだなと思う。
こちらの緊張ばかり読まれていて、男として悔しい。本当に悔しいが、あちらには余裕がある。
「……お気遣い、ありがとうございます」
潤はかろうじて口に出した。
潤が松也を連れてきたのは、中目黒駅の近く、高架線の真下にあるカフェバーだった。このような小洒落た店は多く、選ぶのに事欠かない街だ。
行きつけ、というのであれば本当はここから少し目黒川沿いを行ったところに、颯真のことで逃げ場所として通いまくった地下のカフェバーがあるが、そこはあえて避けた。
松也は行きつけのお店と言ったが、彼の言葉に馬鹿正直に応えなくてもいいかと思ったのだ。今となっては松也に自分の行きつけの店を知られることに抵抗がある。
ここは以前、颯真と江上の三人で入ったことがある店だ。バータイムでも美味しいロイヤルミルクティを出してくれて感激した店で、記憶に残っていたのだ。
店内は高架線の下とは思えないほどの広さで、テーブルにもほどよい間隔があって、気の張った込み入った話をしても目立たない。少し薄暗い店内というのもいい。
入店すると、手前のテーブル席に案内された。
「へえ、ここが潤君の行きつけ?」
のんきな松也の質問に潤は曖昧にぼかす。
「何度か来たことがあります」
誰と、とは言わなかった。
バータイムになって入店しておきながら、潤はロイヤルミルクティ、松也はコーヒーをそれぞれオーダーした。年明けに初めてお茶したときに選んだメニューと一緒だなとふと思う。
もう、この人とこうやってお茶を飲むのは最後にしたい。
いや、本当に、今日が最後だ。
ロイヤルミルクティとコーヒーはすぐに運ばれ来てきた。
潤と松也は、それぞれカップに口をつけ一息つく。
「どう?」
松也は、無言で目の前に座る潤に、余裕を持った表情で問いかける。肘をついて、潤を見つめた。
「決心はついた?」
その様子を眺めて、潤は思う。この人は、本当に自分が断られるなんて夢にも思っていないのだろう。ここまで気遣ったオメガから、自分が拒絶されるなんて、可能性として考えてもいないに違いない。
しかし、潤はまっすぐ松也を見つめ返した。
「僕は貴方の取引には応じられません」
はっきりと目を見て言い切った。
「どういうこと?」
対して松也は潤の反応が意外だったようだ。戸惑う様子を見せている。
「貴方の番にはなれない、ということです」
潤は松也の反応を眺めながら、自分の予想が当たっていたのだとしみじみ思う。手を取ると信じて疑っていなかったのだろう。
「なんで? 理由を聞かせてくれる?」
それでも、松也が見せる余裕の態度は変わっていないように潤には思えた。
「貴方は僕の個人情報を不当に取得したからです。そのような不当な手段で得られた情報で提示された取引になど、応じることはできません」
先日の松也の交渉は、冷静で冷徹だった。潤は、自分もそうあろうと思った。
「不当な手段……」
「先日、貴方は僕のカルテ情報に『甚だ不躾で職権乱用だけど、カルテ情報にアクセスした』と仰いましたね。誠心医科大学病院では業務範囲外の患者のカルテ閲覧は規定違反です。明らかに不当な手段です」
潤はもう一度言った。明快に松也の行為を不当であると決め付ける。話の主導権を取るためにもそれが必要だと思った。
本当に予想外の反応だったのだろう。松也の戸惑う様子が見て取れた。
松也は額に手を添えて、悩ましい仕草を見せて、潤に向き直る。
「ちょっと待って。どうして俺がそんなことをしたのか、その弁解をさせて欲しいな」
「弁解?」
その反応に、少し聞く耳を持ったと思ったのか。松也が勢いついて口を開く。
「俺は、君を助けたいと思っているから、ここにいるんだ。君のお眼鏡にかなわなかったのは重々承知している。でも、今の時点で君を助けることができるのは、俺だけだ」
なぜ理解してくれないといった様子で松也が迫る。潤には意味が分からない。どういうことか。
「貴方は、僕を何から助けようと……」
思わず問うてしまう。相手の思うつぼになってしまうのかもしれないと思いつつ、ここを明らかにしないと話が成立しないのでは……という懸念にかられた。
「もちろん、君を抱いた颯真君だ」
松也の応えには躊躇いは見られなかった。潤はなんとなく想定していた答えながらも、思わず息を飲んだ。
「君たちの行為は罪深い。普通ならばありえないことだし、俺だって本当ならば否定したかったよ。でも、颯真君の潤君への執着を見ていると、可能性としてあり得なくもない」
松也はずっとおかしいと思っていたと切り出した。
「年末年始、どこまで自覚があったのか分からないが君は様子がおかしかった。
そもそも品川駅で見た君の目が異様だった。まるで別世界の住人みたいに周りの人たちを、荒んだ目で見ていて、疲れ切った顔をしていた」
確かにあの時は疲れ切っていて、自分でも思うような感情のコントロールができなかった。知り合いに会うとはゆめゆめ思っていなかったから、感情と疲労がダダ漏れだった。
「それほどまでにメンタルにダメージを食らっていて、颯真君が潤君を放っておくわけはないのに、颯真君は颯真君で必死の形相で仕事をしていた。……君達の仲を知る俺から見れば、完全にあの時の君達はおかしかったよ」
松也は潤を見つめる。
「俺は潤君を助けたいと思ったから今ここにいるんだ。君は先日、番いたい人間はいないと言っていた。その答えを聞いて、俺はちゃんと引き下がっただろう。君の言葉に嘘はないと思ったからだ。
……もし、君が抱かれた相手が颯真君でなければ、今回もおとなしく引き下がったと思う」
潤が反応しないことを良いことに、松也は目をギラつかせて潤を見据える。
「でも、颯真君は、きっと君を、無理矢理発情期に抱いたのだろう。そんなことは見て見ぬふりはできない。
振られてしまったけど、君のために俺は提案しているんだよ」
松也が潤の手を掴んだ。思わず潤が身体を揺らす。
「彼は君の弱いところにつけ込んだ、卑怯な人間だ」
潤は、すっと気持ちが引いたのを感じた。それまでその一カ所しか見えなかったものが、視界が急に開けて、俯瞰して見えるようになった気がした。
きっと松也は、これまで颯真が抱えてきた苦しみなど、想像したこともないのだろう。だからそんなふうに颯真を切って捨てられるのだ。
颯真はずっとヒート抑制剤を服用しながら自分の面倒を見てくれた。森生メディカルのヒート抑制剤「スラット」は、他剤に比べて特段高い抑制効果を持っているが、それ故に身体への負担も大きく、服用には連用禁忌とされている。
そんな強い薬剤が大量に入った袋を見つけたのは、あのしんどい発情期の最中だった。
年末のひんやりとした薄暗いリビングで、大量のヒート抑制剤を手にした潤を後ろから抱き寄せた颯真。
「俺はずっとお前の香りに当てられてきた」
そう告白した颯真の目は射貫くような強さがあって、潤は戸惑いを覚えた。
「楽になりたいだろ?
……潤。俺も限界だ……」
そう短く告げられた言葉を、発情期の最中に沸いた頭でも覚えている。
おそらく颯真の身体的な限界もあったし、潤の辛い発情期を颯真に見せつけることになってしまい、精神的に追い込まれていたこともあった。
だから、自分たちはあのギリギリの状況で身体を重ねて発情期の波を乗り越える選択をしたのだ。
松也の言葉は、その颯真のギリギリの決断を穢されたような気がした。
「颯真を卑怯というなら……」
潤は松也に向ける視線に厳しさを込めるのを止められなかった。
「パートナーになることを断るならば、母に話すと言った貴方は、なんなのですか」
完全に僕の弱みにつけ込んだ発言ですよね。卑怯な取引だ、と潤は断じた。
松也は痛いところを突かれたようで、ふいっと視線をそらす。無意識の反応か。
「貴方がもし、僕の母に何かを言うのであれば、僕は誠心医科大学病院に対して自分のカルテのアクセス情報について、情報公開請求をします。
そしてそこに貴方のアクセスログが残されていた場合、僕は、貴方と貴方の父親である天野先生に対し、慰謝料を請求しようと思います」
松也の顔色が明確に変わった。
潤はその松也に追い打ちをかけるように断じた。
「僕は貴方によって救済されたいなんて、一切思っていない」
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前話44話の冒頭で、潤が一人で回想に浸っていた、尚紀にミルクティの作り方を教えてあげる話をprivatterに載せています(44話の後書きにも書いていますが改めて)
二人がイチャイチャしている、気軽に読める話なので、ぜひどうぞ!
https://privatter.net/p/6339094
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