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木こりとあぢさゐ
降りしきる雨が茅葺の屋根を叩き、その勢いで青青とした植物たちを頷かせる。ざあぁ、ざあぁ、と止めどなく響く雨音に雑じって聞こえるのは、やたらと淫靡な水音だった。それは伝助の下腹部を中心として発せられて、彼にはもう制止の余裕もなかった。
「ん……まだ、出さないでくださいね……?」
両脚の間に潜る銀色の稀有な髪は、顔をあげるとそんなことを言う。なんて酷だろう。唾液と体液でぬらぬらと光らせた唇でそんなことを言うなんて。いや、本当に、なんという状況だろう。
「あ、づさ……」
なんとかその銀の髪をした居候の名を喉から絞り出すが、また花びらのような唇に包み込まれ、息を漏らすしかできない。この行為に上手い下手があるのなら、きっと『下手』であろう。それでも温かな口内に触れるだけで、腰が抜けてしまいそうな感覚に襲われる。
(耐えるんじゃ、伝助……!)
伝助はただ色々な感情に振り回されながら、雨音の中にあの日を思った。
◆ ◆ ◆
むかしむかしあるところに、伝助という若い木こりがあった。齢は数えで十八。流行り病ではやくに親を亡くし、山小屋で一人つましく暮らしている。若いながら、よく働く真正直な青年だった。
「はー、今日はこんなもんかなあ」
切り株に腰かけて伝助は独り言ちる。じわじわとした湿気を含む暑さに、肩から垂らした手拭いの両端を団扇のようにはためかした。
今年の雨期は遅いのかそれとも控え目なのか。秋に実る農作物の心配をしながらも、本格的な雨期になれば木こりの仕事が減ってしまう――そう考えれば、雨の少なさも悪くはなかった。
木を切り倒したことにより現れた青空を仰ぎ見ながら、竹筒の水を一気にあおる。ぬるくなってはいたが、清流の水は喉に心地いい。のどごしの爽やかな清水をごくりごくりと飲み込んでいく最中に、ふと目の端に道祖神が立つのに気付いた。
そしてその傍らには、紫陽花が一株咲いていた。しかし雨期に差し掛かっても雨が少ないせいなのか、花びらはくすんで萎れかけている。
「こりゃ可哀そうな。ほれ、これで綺麗に咲いてくれな」
伝助は飲み干してしまう前に竹筒を下ろし、その中身を紫陽花に分けてやる。水分は葉の上で弾け、珠のようにしたっていく。その勢いで上下に揺れる紫陽花は、まるでお礼をするようだった。
「日が暮れる前に帰らねえとな」
やがて伝助は切り倒した丸太を携えて、一人暮らす山小屋へと帰っていった。明日にでも町へ売りにいこう。そう考えながら、慣れた山道をひょいひょいと歩いていく。着物も上下ともに縫い足し続けて着古し、髪もほぼ伸び放題を高い位置で結っている。そんな風に自由に過ごしていた。
それから数日のことだった。都での雨乞いが成されたとかで、雨が降り出したのだ。特に強弱があるもなし、ひたすらに降り続ける。木こりの伝助は、山小屋へこもることを余儀なくされるのだった。
しかしそんな時でも、伝助は真面目に手を動かした。売り物にならなかった湿気った木材を使って、木彫り細工を作るのだ。簡素で飾り気のない木彫りだが、町の子供たちの遊び道具くらいにはなる。作業の割に売り上げは微々たるものだが、木こりよりもこちらの方が好きであった。
「もし、もし……」
とんとん、とんとん、と木戸を叩く音がする。雨の中聞こえたその声は、不思議な色合いの声だった。青年とも少女ともつかぬ、なんともいえない声色だ。
「なんの用じゃ」
伝助は木彫りの手を止めると、立ち上がることもなく戸の方へ問う。こんな山奥の、知り合いも身よりもない自分を訪ねるなんて碌な手合いではない。すっ、と刃を滑らせて木くずを飛ばす。
「もし、もし……」
それでも声の主は繰り返し言った。あわせて木戸を軽く叩きながら。
伝助は怪訝に思いながらも、あまりに切な呼びかけに淡く気を許し始めた。山を越えようとして迷ったのか、はたまた何か事情があって山へ逃げてきたのか。一先ず訳を聞くだけでもよかろうと、木彫りを置いて戸口へ向かった。
そして戸を開けたと同時に、「あ……」と声をもらしたまま、伝助は固まってしまった。
立っていたのは、華やかな模様の傘を差した美人である。うまれてこのかた、このような美人は見たことがなかった。しかし伝助を驚かせたのはそれだけではない。その頭髪は鈍い白銀色をしていたのだ。老人の白髪とはまた違ったその色に、この世のものではない気配を瞬時に感じ取る。
「ゆ、幽霊じゃ!」
伝助はとっさに彫刻刀を握り直すと銀髪の麗人に真っ直ぐ向けた。
「驚かせてしまいましたか? この姿、おかしかったでしょうか……」
銀の髪に差した花飾りを揺らしながら、その人は己の姿を見回している。向けられた刃物には特に恐れもないようだ。というよりも、まるで刃物なんて知らない様子である。
「あの日、あなた様にお助けいただきました。お忘れですか?」
「こ、こんな幽霊を助けた覚えなんかねえ!」
伝助の言葉に、その人は悲しそうな顔を見せた。華やかに彩られた傘を、雨がしとしとと叩きつけていくばかりで沈黙が流れる。垂らされた眉に、薄く開いた唇……なんだか迷い子のような表情に、なぜか罪悪感を抱かされた。
「ひ、人違いじゃないだか……?」
この罪悪感を一刻もはやく払いのけたくて、伝助は見知らぬ誰かに思わず責任をなすりつける。それでも麗人は長いまつ毛を伏せながら、首を左右にゆっくりと振った。
「間違えるだなんて……わたくしめに綺麗になれと言ってくださったのは、まぎれもないあなた様にございましょう」
「はっ!? 綺麗だ!? んなこと――」
麗人は傘を閉じると、髪の花飾りから一枚花びらを抜き取った。そうしてそれを伝助に差し出す。着物の肩が雨に濡れ、色濃く湿っていく。
「これ、って……紫陽花じゃねえか? ……って、あ!」
「ああ! やっと思い出していただけましたか?」
あの日、道祖神の傍らで鈍く咲いていた一株の紫陽花。ほんの気まぐれで竹筒の水を分け合った一株の――それがこの人だというのか。
「わたくしめは、あの紫陽花の精にございます」
「お、おらを取り殺そうっていうのか!?」
伝助は声を震わせながら、この異常事態に彫刻刀を握り直す。すぐにでも突っ込んでいきたいが、なにぶん紫陽花の精だなんて聞いたことも見たこともなかった。何をしてくるのか、まるで検討がつかない。
「そんな! とんでもないことです! わたくしめはただ、どうしてもあなた様に恩をお返ししたくて……」
「お、恩だって……?」
「はい……恩返しがしたいあまり、道祖神様にお願いをしてこの姿を作り上げていただきました。どうかどうか、わたくしめをお側に侍らせてくださいませ……」
侍る? 恩返し? ……紫陽花の精が? もはやすべて理解が追い付かず、伝助は絶句する。次になにを言えばよいのか、なにを問えばよいのか。うまいことは思いつく筈もなく、ただただ池の鯉のように口をぱくぱくとさせるだけだった。
そして気付けば、紫陽花の精とやらは戸口を越えて沓脱にまで迫っている。
「木彫りをされているのですね。……これは兎でしょうか、ふふ、可愛らしいこと」
紫陽花は草履を脱ぐと部屋へ上がり、床に並べられた木彫り細工を眺めて笑みをこぼした。伝助はいまだに何も言えないでいる。それどころか、悲しいかなその笑みに心が揺れていた。
「では、この兎にひとつおまじないをかけましょう」
「ま、まじない……!? 呪いか!」
麗人の笑みに翻弄されかけたその時、恐ろしい言葉に伝助は突き動かされていた。自らの作品を守るため、床を転がりながら木彫り細工たちを抱きしめていたのだ。
「わたくしめは紫陽花ですよ? そのような恐ろしいことはいたしません」
しかし驚きの素早さで、自称・紫陽花の精は兎を一羽、すでに手のひらにおさめていた。そして髪飾りから再び花びらをまた抜き取ると、兎の耳元へ添える。不思議なことに、素朴でしかなかった兎に可愛らしい生気が宿ったように見えた。
「明日、こちらを問屋へ納めてみてくださいな。この花びらは、その日のお天道様の気分で色づきが変わりますから、きっと珍しがられるでしょう」
――紫陽花の精の言う通り、花びらを付けた木彫りの兎は工芸品として高値で取り引きされた。伝助の質素な生活であれば、この稼ぎで一冬くらいは越せるだろう。思いがけずに湧いた貯えだ。紫陽花の精にも分けようとしたものの「恩返しですからお気になさらず」とにこにこ笑って受け取ってくれない。
「せめて欲しいものを教えてくれねえか。おらも落ち着かねえよ」
「……では、わたくしめに名前というものをくださいませんか?」
「名前……?」
「はい。伝助様もお困りのご様子ですし」
それは結局、紫陽花の為ではなく、呼びかけに困惑する自分の為では……と思わずにはいられない。けれど、今はこれ以上の望みを聞いても無駄だろう。無理に金や絹を与えても暖簾に腕押しになりかねない。
「な、まえ……名前って……」
ずっと一人で生きてきた伝助にとって、名付けは初めての行為であった。懸命に頭を働かせ、やがて自信なさげに声をしぼり出す。
「あづさ……で、どうじゃ?」
「……あづさ」
「あじさいに似た音で、なじむかと思って」
紫陽花の精は、口の中で「あづさ」と繰り返し呟いている。気に入らなかったか、と問おうとした刹那、銀髪を飾る花びらが薄紅に色付いていく。
「どうぞこれよりは、あづさとお呼びくださいませ」
その色付きが喜びと照れの表れなのだと、どうしてか伝助には分かった。それは雨模様の日々のなかで、伝助の心に小さな晴天を生むようだった。
◆ ◆ ◆
そうして伝助の元に、ほぼ押しかける状態であづさは居座った。
しかしあづさはよく働く精だった。無頓着な伝助の山小屋を掃除し、衣を洗った。そして珍しく生地が欲しいと言うので与えてみれば……。
「少々不格好ではございますが、新しい着物を縫ってみました」
差し出された新しい着物は誂えたようにぴったりであった。だが、あづさの指は傷だらけで、その不器用さをありありと伝えていた。それを見ると、着物を走る糸の一針一針がどうにもいじらしく感じられる。伝助は自らがこしらえた切り傷用の軟膏をその手に塗ってやった。
「人としては全てがはじめてなのです……ご容赦ください」
「そんなことは分かっとる。……これはおらなりの礼じゃって」
ぱち、ぱちと囲炉裏の火が音を立てる。伝助の言葉にあづさは目を伏せていた。花飾りが、また淡く色付いたような気がする。
「お、おらは木彫りをする。あづさはもう休んどれ」
「いいえ、わたくしめもお手伝いします。今度は何をお作りに? 兎ですか? 猫ですか?」
そう問いながら、あづさはまた木彫り細工に添えるため花びらに手を伸ばす。しかしそれを見て、伝助は思わずその手首を強く掴んだ。
「やめるんじゃ、それはもうやめるんじゃ」
「どうしててすか? 花びらを付ければ、高く売れるのですよ?」
確かに、あれからいくつかを小間物屋へ卸した。あづさのまじないをかけられた木彫り細工は、やはり高値で取り引きされた。それも子どもたちが遊ぶような人形ではなく、商人やお武家が欲する細工として。
「おらは……恐い」
「こわい……?」
「あの花びらの出どころがあづさだと知られて……誰かに見られるのが恐い」
もちろん、卸した問屋や木彫り細工を手にした者は、その制法を知りたがる。天気によって色を変える花びら――どうしてこんな不思議な細工を木こりが片手間に出来るのか。しかし問われても伝助には答えようがない。「紫陽花の精が家に居ついて、その花びらを分けてくれる」……そう答えて解決することではなかった。
「……わたくしめが紫陽花の精だから、ですか?」
どこか寂し気にあづさは言う。
「違う! そうじゃねえ、おらはあづさを……」
伝助は慌てて口を開いて、また慌てて口を閉ざす。いま、何を言おうとした? 伝助は真新しい着物の膝をぎゅっと握りながら言葉を押し殺した。
「……いや、その花びらむしるとき、あづさの顔色が悪くなってるんじゃ」
「そのような、ことは……」
しかし実にそうである。あづさの花飾りは、出会った当初に比べて瑞々しさを失いつつあった。まるで道祖神の傍らに見た時のような、雨の降らない雨期に咲いた紫陽花に戻っているようだ。
「あなた様は、本当にお優しいですね…………それでは、お願いをしてもよろしいですか」
「願い?」
「目合ってください」
「は? ま、まぐわ……!?」
そんな言葉を知らなそうなあづさの口から、あまりに真っ直ぐに発せられ面食らう。
「人間の生気……子の源を注いでいただければ、力は戻ります。もちろん伝助様には害はありません……多少の疲労はあるかと思いますが」
いつになくあづさはすらすらと話し、やがて膝立ちになると伝助へ近づいていく。
「道祖神様が体をお与えくださったときにおっしゃいました。女体にしては目合った際に子ができてしまうが、男体にしておけばその危惧はないと……」
「だ、だからってなんでそんなこと!」
囲炉裏の火に照らされた、あづさの影が長く伸びる。伝助は座ったまま後ずさると、やがて背中を壁にぶつけた。
「力を戻して、また伝助様のお役に立ちたい……その一心でございます」
◆ ◆ ◆
降りしきる雨が茅葺の屋根を叩き、その勢いで青青とした植物たちを頷かせる。ざあぁ、ざあぁ、と止めどなく響く雨音に雑じって聞こえるのは、あづさの口元で絡まる唾液の音だった。
「ん……まだ、出さないでくださいね……?」
両脚の間に潜りこんだあづさは、伝助の根を唇と舌で愛撫していく。伝助はひたすら堪えていたが、こういった刺激を自分自身以外で与えたことがない。なんともたどたどしい触れ方ではあるが、他人から与えられる刺激はどう走るのかが予想もつかず思わず反応してしまう。
「ん、んぅ……ん」
鈴口から先走り液が伝い、それをあづさは唾液を絡めた舌で舐めあげる。生々しい水音が響き、伝助は息を漏らした。
「あ、づさ……」
「……っんん?」
舐りながら、名を呼ばれたあづさは青紫色をした瞳を伝助へ向ける。頬を染め、やや苦しそうなその表情を見た瞬間、伝助の中で怒りよりも狂暴な火柱が立った。あづさの肩を掴むと、愛撫をやめさせ仰向けに押し倒す。
「っ……伝助様?」
「あづさ……すまん、すまん」
そうして華やかな紫陽花の描かれた着物の衿元を開き、首筋へ食むように吸い付いた。驚いたのか、あづさの肩が跳ねる。皮膚を探っているうち背中には蔦が絡むように腕が回っていた。
「あっ……これが、人間の目合いですか……?」
「……知らねえで言ってたのか?」
「はぁ、そういう、わけでは……っ」
伝助の舌がじっとりと胸を舐めあげると、あづさの腹は魚のようにびくびくと震える。思っていた以上の感覚に戸惑っているのか目じりには涙が浮かんだ。
「ああっ……っ、なに」
「痛くねえか……?」
「なに、なんですか……っ」
先ほどあづさの手に塗ってやった軟膏を、伝助は指に掬うと柔らかい肉の奥へ潜ませる。力んで閉ざされた後孔をそっと刺激しながら、その内部へ侵入させていく。きゅうと締めつける孔の深くを突くと、やがて吸い込むように柔らかくなりつつあった。
「だめです、そこ……だめなんですっ」
指の腹で奥を触れているうちに、あづさに備えられた性の機能が反応し熱く形作られていく。
「やぁ、あっ、あ」
「あづさ……いま、元気にしてやるからな」
「……ん、は、はい……っ」
本来の目的である「生気を送ること」を強調すれば、あづさは我に返ったように頷いた。そして伝助は優しく唇を触れ合わせると、あづさの体に熱を送り込んでいくのだった。
◆ ◆ ◆
心地のいい倦怠感の眠りなか、耳に小さな啜り泣きが聞こえて跳ね起きる。
「あづさ!? どうした!?」
布団には伝助しかおらず、あづさは部屋の隅で小さく膝を抱えて泣いていた。聞こえてきた啜り泣きはあづさのもので間違いなかった。跳ね起きた四つん這いのまま、慌てて近付くが、あづさは自分の膝を見つめているだけだ。
「なんだか……人でいう心の臓のあたりが詰まるような感覚がして」
「心の臓が変なのか……?」
一先ず伝助はあづさの額に触れてみる。しかし発熱というわけではなさそうだ。こうなったら抱えて町医者に駆け込むか。いや、寧ろ町医者を抱えて連れてくるべきか……思案しているうち、あづさが続けて口を開く。
「……たく、ない……」
「え?」
「……伝助様と……離れたくない、気持ちで……いっぱいなんです……」
そう言いながら、またすんすんと鼻を鳴らしながら泣く。梅雨が終わったら、帰らなくては――その一言が伝助とあづさの境界を改めて明確にした。
確かにあづさは紫陽花の精である。それでも伝助はこの数日間で思い知らされていた。あづさと名付けられたこの人がどんな風に笑うかを。
「あづさ、おらは……」
「ご、ごめんなさい。さあ、もうひと眠りなさいませ」
肩を掴もうとした瞬間、あづさは顔をあげる。そして雨粒に濡れた花びらのような瞳をしたまま、伝助の頬に手を添えた。
「生気を奪われたばかりなのですから……、少しだけお返ししましょう」
ふっと唇を吹いて気を送られると、伝助はすぐに眠気に襲われた。生身の人間にとって直接的な生気の圧は大きく、しばらくは意識を保てない。
「伝助様、わたくしめは……幸せでした。あまりお側にいたら……欲張りになってしまう」
眠らせた伝助に布団を掛けなおすと、ぽんぽんと布越しに背中を撫でる。気持ちの良さそうな寝息が鼓膜をくすぐった。
「あなた様から生気まで奪って……なにが恩返しなのでしょう。いつの間にか、優しいあなた様にそれ以上の気持ちまで抱いて」
瑞々しく咲き誇った花飾りから数枚花びらを外すと、手の甲へそっと乗せる。
「どうかお元気でありますように……」
どれくらいの刻限が経ったろうか。伝助が目を覚ました頃にはあづさは消えていた。そして置き土産の花びらを見つけて家を飛び出していく。着衣は乱れたまま、笠もかぶらずに、草鞋は指をつっかけただけで。
「あづさ!!」
降り止まない雨に濡れる山道は歩くのすら難しい。何度も泥に足を取られながら、伝助は走った。途中で草鞋の片方は脱げていた。
「いた……! あづさ!」
やがて、以前に見つけた道祖神に辿り着く。やはりその傍らには紫陽花が一株咲いていた。あの日、水を与えた日よりもしっかりしているが、どこか元気がなかった。花にも気分があるのか。いや、きっとあるのだろう。
「はあ、はあ……あづさ」
雨に打たれて揺れる花毬を両手で包む。
「人と花なんて、おらには関係ないんじゃ! おらはあづさがいいんじゃ!」
山奥に伝助の懸命な声が響いた。それは雨にも負けない声色だった。
「……おらがあづさを人に見せたくないと言ったのは……あづさを好きだと思ったからじゃ! 誰よりも心を綺麗に咲かせるあづさを、奪われたくない、ずっとおらのそばにいてほしい……おらのそばで、咲いていてほしい。そう思ったからじゃ……!」
ふと、指先に熱を感じる。両手で包んでいた花毬は、いつしかあづさの頬となっていた。目の前の紫陽花の株は、もう見慣れてしまったあづさへと姿を変えていた。
「本当に……お側にいてもよいのですか……」
「ああ!」
「ただの花ですよ」
「構わん!」
「……子は、なせませんよ」
「いらん! おらは、あづさが欲しい!」
そうとびきり叫ぶと、それを皮切りに二人は強く強く抱き締めあった。雨に濡れた着物が肌に張り付いても、気にはならない。ただ今は、互いの体が触れているのを感じられれば充分だった。
「ずっとずっと、咲かせてください……あなたのお側で」
――梅雨が明けても、くるくると表情を変える紫陽花は、木こりのすぐとなりに咲き誇った。
了
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