1 / 5

第1話

 カラン、と響きの悪いベルが音を立てた。空調の効いた店内にゆるりと湿ったアスファルトの匂いが入り込んでくる。鼻をひくつかせて顔を上げた。いつの間に雨が降っていたのだろう。  開いた扉と人の気配に目を向ける。 「いらっしゃ……」  ひゅっと息を呑んだ。長い傘を片手に入ってきた男性は、途切れた僕の声を探すように辺りを見渡しながら歩いてくる。  沖村だ。僕は直感的に気づいてしまった。  どうしよう、どうしよう……いや、このままでは目の前まで来られてしまう。 「いらっしゃいませ、お好きな席へどうぞ」  少し大きめの声で早口に言って、目を合わせないように急いでカウンターの奥に引っ込む。背後でぎしりとソファがきしむ音がした。 「ハルくん、お客さん?」  タイミングよくマスターの堤さんが裏から戻ってきた。マスターにお願いするのは気が引けるが、今の僕にはどうしても無理だ。ドキドキとうるさく跳ねる心臓のあたりを掴む。 「マスター、注文取ってきてもらえませんか?」  マスターは後ろに撫でつけられた白髪と同じ色の眉をひょっこりと上げた。僕をじっと見つめている。 「うん、いいよ」彼は穏やかに微笑んだ。 「雨が降り始めたみたいだね。ホットコーヒーがよく出るだろうから、ドリッパーを準備しておいてもらえるかな」 「はい。ありがとうございます」  息を吐き出すと、マスターがひとつ頷いてカウンターから出て行った。  まっすぐな雨の線が、行き交う車のヘッドライトに照らされて白く浮かび上がる。雫が滴る傘をたたみ、鞄から鍵を取り出しながらアパートの階段を上っていく。  小さな部屋の中にも、ぬるく湿り気のある空気がこもっていた。鞄に水滴が付いているのは気づいていたが、そのままカーペットの上に放り投げる。鞄と同じように、部屋の隅にある低いベッドに身体を投げだした。  布団の中を探ってリモコンを取り出し、テレビをつける。夜のニュースだ。アナウンサーの落ち着いた声が流れてくるが、頭にはさっぱり入ってこない。  今日、僕が働く喫茶店に訪れた彼の姿がちらちらと頭をよぎる。髪型は昔よりも長く整えられていて、垢抜けた印象だった。それでも、長い脚をゆったりと前に投げ出す歩き方は変わっていない。 「かっこよかったな……」  思わずこぼれた自分の声にどきりとした。かっこいい。あの頃、何度も何度も頭の中でつぶやいていた。 『本日、ようやく梅雨入りとなりました』  テレビから放たれた言葉に顔を上げた。このタイミングで梅雨入りなんて、出来すぎている。  高校時代、僕は梅雨を待ち焦がれていた。そして卒業して十年経った今でも、梅雨になるたびに沖村のことを思い出していたのだ。

ともだちにシェアしよう!