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第1話

 エスカレーターを駆け上がり改札にICカードを押し付ける。反応する零コンマ数秒さえもどかしい。人ごみを掻き分けコンコースを抜けると降りしきる雨の中、傘もささず飛び出した。  駅から自宅まで徒歩で約15分。走れば8分って所だ。 「そんなに慌てなくても、まだ消えたりしない」  息を切らして庭に駆け込んだ俺を見て、総一は馬鹿にしたように鼻で笑った。 「昨日言っただろう三日後だと。明後日の夜、雨が止むまでは僕はここにいる」  濡れ縁に腰掛け、羽田(はだ)総一(そういち)は降り込む雨に濡れる事も厭わず、悠然と脚を組み直す。  何をしたっていちいち様になる男だ。 「早く家に入ったら? いつまで突っ立ってるつもりさ」  びしょ濡れのまま立ち尽くす俺を、総一は再び鼻で笑った。  この蒸し暑い雨の日には不似合いな真っ黒な学ランも、まるであの頃の総一といるような、そんな倒錯的な欲情と感傷をそそる。  つくづく厄介な男だよ、お前ってやつは。   ☂  総一とは、高校の同級生だった。  同じクラスになったのは三年生の時の一度きり。  だが一年の頃から生徒会にいた総一の事を、俺はずっと前から知っていた。向こうはどうか知らないけれど。  成績優秀で運動もよくでき、人徳があっておまけに見目も良い。  涼しげな切れ長の目とスっと高い鼻梁に薄い唇。  今時のアイドルみたいな軽薄な色男ではなく、ハッとするほど清廉で端整な顔の造り。  誰にでも優しく作り物みたいに完璧な優等生だった総一が、実は絵に描いたような慇懃無礼を地でゆく痛快な性格である事は、未だに俺しか知らない事実だろう。  この先もずっと。  永劫に。  総一が死んだと報せを受けたのは、一月前。  大学に入り二ヶ月、ようやく新生活にも慣れた頃だった。  同級生から回ってきた、総一の訃報を知らせるSMSを目にした時も。  葬儀に参列した時も。  棺が火葬場に運ばれてゆく時も。  俺の足元はいつまで経ってもフワフワとしていて、ずっと夢の中にいるようだった。  これは現実ではない。  本当は総一は生きていて、俺が記念受験すら叶わなかった私大の医学部に通いながら充実した日々を送っているに違いないのだ。    灰まみれの骨だけになった総一を見ても、そこはまだ夢の中だった。  箸から箸へと総一が運ばれ、小さな壺の中に収められてゆく。  行儀にうるさい祖母に育てられた俺は、ははあ、なるほどこれが合わせ箸というやつか、などと妙に感心しながら、その光景を眺める事しかできなかった。    ☂   「ただいま」  と、誰にともなく呟く。  同居している祖母は先週から入院中で、葬式から帰った俺を出迎える家族はいない。  入学式以来の革靴を脱ぎ捨てると、蒸れた足が開放された安堵感と共に、どっと疲れが押し寄せる。  喪服のまま居間に立ち尽くし、俺はポケットの中身を……〝それ〟の感触を確かめるように何度も何度も指先で転がす。  一人きりの家に帰ってきた途端、俺は突然夢から醒めた。  〝それ〟は総一だった。  総一が、あの完璧な優等生だった総一が。  こんなカケラになって、俺のポケットの中にいる。  ぽろりと涙が一筋溢れた。  ぽろりぽろりぽろり、次から次へと涙が出てきて、俺はポケットの中で総一だった〝それ〟をぎゅっと握り締めた。  どんなに泣いたって、総一はカケラになってしまった。  どんなに辛くても、優しく抱き寄せて慰めてくれる腕はもうない。  もっとも、ただの一度だって総一は俺を抱き締めてくれた事なんてなかったけど。    ☂  葬儀の日、俺は遺骨をほんのヒトカケラ盗んだ。  なぜそんな事をしたのか、自分でも分からない。  カケラになってしまった総一となお離れ難かったとでも言うのだろうか。  高校を卒業してから、いや、卒業するより何ヶ月も前から、俺は総一との交流を絶っていた。  総一があんな事ならなければ、俺から会いに行く事もなかっただろう。  或いは、総一がいつかどこかの誰かと結婚して、セックスして、子どもが出来る頃には。  それが5年後なのか10年後なのか。もしかしたら20年後になるのか。  その頃には、少しは穏やかな気持ちでまだ会いたいと思う事が出来たかもしれなかった。  それももう叶わない話だ。  盗んだ遺骨は、肌身離さず持ち歩いていた ――わけではなく、喪服の上着のポケットの中だ。  葬式から帰ってきたあの日。  総一の遺骨を握り締め、泣きじゃくったあの日から、〝それ〟はずっとポケットの中にいる。  どう扱って良いのか分からない、というのが正直なところだ。  四十九日が近づいてきた。  納骨も一緒にするという話を小耳に挟んだ時、いっそのこと〝それ〟を返しに行こうかとも考えた。怒られるだけじゃ済まないだろうが、それが良いような気がした。  しかしそうしなかったのは、やっぱりただのカケラでも総一がいた証が、手元に欲しかったのかも知れない。  結局遺骨は、庭の紫陽花の下に埋める事にした。  様々な花の植えられた祖母の庭の中から、そこを選んだのは紫陽花は死者に手向ける花だと聞いたことがあったからだ。  どんよりと分厚い雲が空を覆っていた重苦しい湿気の日。俺は庭に総一を埋めた。  小さな穴を掘り、花の種でも植えるように穴の中に総一を入れる。  元どおりに庭の土を被せ、俺は安堵の息を吐いた。  ぽつ、ぽつ。と、疎らだけど大粒の雨が降り始めた。  恵みの雨は不自然に色の違う土を、自然に紛れさせてくれるだろう。  完全犯罪でも成し得た後のような達成感をもって、俺は小さなスコップ片手に立ち上がった。慣れない事をするもんじゃない。首と腰が鈍く痛む。 「おい泥棒」  背後から聞こえた声に、俺はハッと息を飲んだ。  それは誰もいないはずの庭で声がしたから。  そして、酷く懐かしい声だったから。  膝が笑う。  恐る恐る、俺は振り返った。  セリフとは裏腹に、総一の表情は至極愉快だと言っていた。  濡れ縁に腰掛けた総一は、何故か学ラン姿で長い脚を悠然と組んでいる。組んだ足の上に肘をついてこちらをからかうような笑みを見せた。  〝それ〟は総一だった。 「幽霊?」 「キミは俗っぽい言い方をするなぁ。まあ、似たようなものかな」  まあ、似たようなものかな、と言ったが今目の前にいる総一はちゃんと実在するように見える。  透けたりしてないし、足だってある。  ただ学ランを着ている事以外、変な事は何もない。 「それ、コスプレ?」  驚き過ぎて声が出ないと思ったが、口をついて出たのはそんな言葉だった。  総一は俺の質問を「もっとマシな質問できないの?相変わらずバカだな、泰知(たいち)は」と鼻で笑った。  たいち。  久しぶりに聞く声。久しぶりに俺を呼ぶ、総一の声だ。 「泣き虫なのも、相変わらずだな」  じわりと目を潤ませた俺を見て、今度は総一は目尻を下げた。 「この雨は明後日まで降り続ける。雨が上がる三日後の夜、僕はいなくなる」  ハッとして総一を見ると、彼は思いの外優しく微笑んでいた。 「だからそれまでは好きなだけ泣いて良い。だけど雨が止んだら、泣き止むんだよ」  総一がゆったりと立ち上がり、目尻に浮かんだ涙を拭ってくれた。  ぼたぼたと大粒の雨が段々と強くなってきた。「風邪を引く前に早く入れ」と、スコップを握り締めたまま立ち尽くす俺の手を引いた。  俺の手を引く、その手は温かかった。

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