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第1話
吾輩は傘である。
名前はまだない。というか、普通ない。
傘に名前をつけるような酔狂な輩 には、吾輩はまだお目にかかったことがない。
吾輩に固有名詞があるとしたら、漱介 である。
いや、吾輩は傘であるのだが。
この家では、傘はそれぞれの所有者の名で呼ばれるのが習わしらしく、それに従うならば吾輩は「漱介」ということになるわけである。
漱介とは、ある雨の日に吾輩を見染め、自宅に連れ帰った男の名だ。似たような外見の傘が何本も詰め込まれた駅の売店で、他でもない吾輩を迷うことなく手に取った漱介は、なかなかに男前であった。
たとえ彼が、一般的には取り立てて褒めるべきところのない男子学生だとしても、吾輩を他の傘連中とは一線を画す存在と見抜いて身請けしたその慧眼には、敬意を表さねばなるまい。
漱介の名を教えてくれたのは、彼の家の古参の傘たちである。彼らは概ね、新参者の吾輩を歓迎してくれた。もっとも、世の中には常に、例外というものが存在する。
「お前なんか、漱介じゃねぇ。その場しのぎに買われただけの、使い捨てだ!」
失礼極まることを言ってのけたのは、自称三年前から漱介に愛用されている、紺と緑の格子柄がなかなか洒落 た傘であった。ハンドル上の丸いボタンに愛嬌があるので、吾輩は彼を格子丸 と呼ぶことにした。
この格子丸は、突然現れた吾輩に「漱介」という地位を奪われることを恐れ、日々くだらない言いがかりをつけてくるのである。
「おいお前、そこのアポ!そんな手前にいたら、漱介が出かけるときにうっかりお前を掴んじまうだろ?でしゃばってねぇで、新参者らしく後ろに下がってろ!」
傘立てで休息していた吾輩を、アポなどという品位の感じられないあだ名で呼んできたのは、やはり格子丸であった。
「吾輩はアポではない。APOは傘布の素材の名だ。君が吾輩をどうしてもアポと呼びたいのなら、吾輩は君をナイロンと呼ばざるを得ないが、それでもよいか?」
「安っちぃビニール傘のくせに、その気取ったしゃべり方はどぉにかなんねぇのかよ!」
「吾輩の傘布はビニールではない。非晶質ポリオレフィンという、安価で軽く、環境に優しい、三拍子揃った期待の新素材だ。正しい知識というものを、少しは身につけたほうがよいぞ、格子丸」
「妙ちきりんな名前で呼ぶんじゃねぇよ!俺の名前は漱介だ!」
どうやら格子丸は、吾輩が一度でも「漱介」と呼ばれたことが気に入らないらしい。
持ち手が竹でできた「お父さん」も、晴雨兼用の美しい「お母さん」も、粗暴な格子丸に手を焼いている様子であった。
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