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そこまで寂しいわけじゃないし
『そこまで寂しいわけじゃないし 1.炭酸水』
合鍵をくれたということが、付き合ってる証拠にならないのだろうか? あの男……。
さっき寝室を覗いたら、広いベッドに、ふたり分の乱れがあった。
行く当てのない俺に同情しただけなんだろうか? そうとも考えられる。だったら、アイツは何人の男に合鍵を渡しているのだろう?
キッチンに入る。暗くてよく見えない。しばらく立ち尽くして、暗かったら電気を付ければいいんだ、と気が付いた。
飴色と緑色の中間くらいの色をした、空の瓶が転がっている。シンクにふたつの細長いシャンパングラス。
寝室に戻って、布団をめくってみる。やっぱり違う男の匂いがする。
「今、何時だろ?」
声に出して言ってみた。認めたくないことに出会うと、独り言を言う俺の癖。
午後三時。ヤツは普通に会社員だから、まだ帰って来ない。なんの会社なのかは知らない。
冷蔵庫を開けてみた。無意識に開けてみて、それが俺の幼さを表しているような気がして、がっかりした。子供が学校から帰って、まず一番にすること。
鮮やかなレモンイエローのペットボトルが目に入る。まだ開封してない。
蓋を開ける時、微かな音がして、煙の様な泡が立った。
口を付けて飲んでみる。あんまり甘くない。って言うか、変な苦い味しかしない。
トニックウォーター? 御酒に入れるヤツだな。
キャビネットを開けて、ジンのボトルを選ぶ。ヤツはよくバーでジントニックを注文している。俺は携帯で、ジントニックの作り方を検索してみた。
なんだ、こんなに簡単なこと? そんなことも知らない、自分の幼さを呪う。
「氷、あるかな?」
俺はまた、声に出す。
氷の上から、勢いよくトニックウォーターをぶっ掛ける。思ったより大量の泡が、グラス一杯に弾ける。音までしている。小さいけど、景気のいい音。
「違う世界にいた泡なんだ」
違う世界に飛び散っていた泡。自分で言ったのに、意味が分からない。
胸の中まで泡立ったみたいになる。涙が頬にポタリと落ちる。
もっと泡が綺麗に見えるように腰を下ろした。
泡が飛ばなくなるまで待っていたら、普通、先に酒を入れるよな、と気が付いた。
もう遅いから、ソーダの上からジンを注ぐ。今度は注意深く。科学の実験みたいだ。
匂いを嗅いでみる。ちょっと飲んでみたら、やっぱり、キスする時の耕二の味がする。
ヤツにどんな仕事をしてるのか、聞いたことがある。
「教えてもいいけど、聞いても分からないよ」
と言われた。
そしたら、ほんとに聞いても分からなかった。石油関係の、地質学関係のなにか。忘れた。
地質学に詳しいんだったら、この泡が飛ぶ理由も知ってるのかな? 関係ないか?
椅子を立って、窓の外を見る。ビルの谷間に、薄くなった虹がぼんやり見える。
グラスを飲み干して、しばらく放心する。酔ったのかな? さっき見た、ふたり分乱れたベッドのことを思い出す。なにも考えたくなくて、もう一度トニックウォーターの蓋を開ける。
不思議だな。もしかしたら、これはただの炭酸の泡じゃない。海の泡の集まったもの。ほんとに?
太古から蓋の開くのを待ってたみたいに、泡が飛び上がる。怖いな、ずっと待ってたとしたら。
今度はなにを入れようかな、と思ってキャビネットの中を探す。透き通った、大きなウォッカの瓶が呼んでいる。
綺麗なカットグラスを見付けた。電気に当てて、その光に見入る。やっぱりナイーブな子供みたいに。
それでウォッカトニックを作って、写真に撮って、耕二にメールした。泡の飛んでいるのが、思いがけず上手く撮れた。
意外なことに、すぐ返事が来た。
「誠? 俺ん家で、なに遊んでんの?」
俺は返事を返した。
「トニックウォーターの泡が開けて欲しいって言ってる」
「なにそれ?」
「閉じ込められて苦しいって」
耕二は俺より七つも年上で、俺はいつもベッドで新しい寝技を掛けられて、快感に叫ばされる。
野良猫みたいな俺を捕まえて、キスして、ケツの匂いを嗅いでくれた男。
俺は上半身裸になって、ベッドの上で誘う写真を撮って、ヤツに送る。ヤツが可愛いって言ってた、俺の乳首もしっかり入れて。
分からないことが色々ある。地質学者じゃないと分からないこと。本当に海の底には何千年も前から閉じ込められた泡がいるの?
先週、父がコンサートに連れて行ってくれた。俺の高校中退が決まった時、生まれて初めて、父の困惑した表情を見た。頭の中にマーラーの交響曲が蘇る。それはいつも父が日曜日の朝、聴いていた曲だった。
空色のドレスを着たソプラノが前に出る。こんな曲知ってたって、こんな教養、なんの役にも立たない。
さっき空気に溶けて、逃げて行った泡が、俺に歌ってくれる。
また窓の外を見た。なんだ、違う、さっきの虹だ。消えて行くのかと思ったら、そうじゃなかった! 鮮やかな色達。虹は大分近い。
気分が弾んでくる。見ているうちに、色がもっとどんどん濃くなる。
「男なんて、たくさんいるし」
また、声に出す。
そこまで寂しいわけじゃないし。
耕二から電話が来る。
「今夜、食事に行こう」
寂しくないのに、涙が出る。
『そこまで寂しいわけじゃないし 2.プール』
耕二と待ち合わせをした。マンションにカギを掛けて表に出る。ビルとビルの谷間を抜ける。そこはさっき、虹が立っていた場所だ。不思議だな。確かにここから始まっていたのに、もうなにもない。
靴の先でコンクリートを蹴る。細かい埃が舞う。
五時って言ってたな。丁度五時だ。そこは大きなガラス戸のあるバー。中は丸見えで、バーテンダーが一人いる。店を覗く。客はいない。彼と目が合った。どこかで見たことのある顔。
未成年が先に入るわけにいかない。俺は回れ右をして、その坂道にゆっくり戻る。
さっきのバーテンダー、こないだ母に連れて行かれた精神科の医者に似てた。家にいたくなくて、街をうろつくようになって、それで連れて行かれた。
医者は若くて楽天的で、患者に定時制高校に通っているのがいるから、聞いておいてあげる、と言われた。俺は去年の始めに中退して、その坊ちゃん学校の同級生はもうみんな卒業している。
軽い抗鬱剤が出された。母はオーガニック好きで、俺が薬を飲むのを嫌がったけど、俺には抵抗はなかった。気分が良くなるんだったら、なんでもするつもりだった。自然界にだって毒は色々存在する。毒キノコとか、毒ヘビとか。フグだって食ったら死ぬし。
あ、急に今朝見た夢を思い出した。と、思ったらまたすぐ忘れた。雰囲気だけは記憶に残っている。気持ちの悪い爬虫類の夢。
六本木。金曜の宵。左右にたくさん飲み屋が続く。
梅雨の湿気の残る街に吹く風は冷たい。
御酒なんてどこが美味しいのか分からない。酒は少ししか入れなかったけど、さっき作ってみたジントニックとウォッカトニック。酔った気はしなかったけど、その代わりになんだか頭が痛くなった。
耕二の乱れたベッドを思い出す。昨夜どんな男と寝たのか聞いてみようかな? 聞いてもいいのかな? そういうことが分からない。俺が聞きたければ聞いてもいいんだろう。
下を見ながら歩いていると、向こうから来た男に腕を取られる。
耕二だ。いつもより明るい色のスーツを着ている。よく似合う。ドキドキして、増々下を向く。俺みたいな初心な坊ちゃん、手なずけるの簡単だろうな。モテる人だから。少し悔しい気持ちになる。
「こいつにコーラでも出してあげて」
耕二が勝手にバーテンダーに注文する。
「さっきのトニックウォーターが飲みたい」
苦い味の記憶が口の中に蘇る。
カウンター席に並んで座る。いつの間にか客が何組か入っている。耕二はやっぱりジントニックをオーダーする。ヤツの手が俺の背中にある。身体中がゾクゾクする。いつかもこうしてたな。癖なのかな? 男にいつもするのかな?
それから耕二とバーテンダーはなんだか大人の話しを始めて、俺にはそれがよく理解できない。外国語でも聞いてるみたいだ。俺ってどう振舞ったらいいのかな? 居心地が悪い。店は通りから透けて見えて、余計身の置き所がない。
俺のトニックウォーターにライムが添えてある。俺は神妙にそいつを絞って、更にそれをグラスに落とす。泡で浮いてくる。指で突ついて沈ませる。
背中に置いた耕二の手に、彼の体重が少し掛かってきた。酔ったのかな? 俺はヤツの顔を見る。ヤツは俺の頬に素早く自分の頬を寄せる。バーテンダーにそこをしっかり見られた。
「耕二さん、何処でこういう若い子と知り合うの?」
急に女言葉になる。不服そうだ。嫉妬してる? 客に女性もいるから、普通のバーだと思ってた。バーテンダーは耕二より少し年上で、古風なボウタイを着けている。
俺はどんな顔していいのか迷って、カウンターに目を落とす。また居心地悪く思って、悪戯に耕二のジントニックに手を伸ばす。
「二十歳前だろ?」
彼が俺の手からグラスを取り戻す。
「耕二がこんな所に連れて来るから」
彼の手が俺の手に触れた。
毎年、春が終わって夏になって、初めてプールに入る時の気持ち。冷たい水。消毒液の匂い。
耕二の手がまた俺の背中に戻る。今度はそれが愛撫するように動く。
乱れたままのベッドに裸にされて寝かされた。耕二の服を脱ぐ手が速い。焦ってる? それが可愛いと思う。布団の下で裸で抱き合う。
「誠? なんで身体がこんなに冷たいの?」
耕二の身体だって冷たい。またプールに入る時の感じを思い出した。頭の芯が凍っていくような、脳がリセットされるような冷たさ。息が苦しくなる。
俺はこの人が好き。激昂して涙が溢れる。声には出せない。でも俺はこの人が他の男と寝るのは嫌だ。
ベッドをゴソゴソと抜け出そうとする。後ろから抱き締められる。彼の硬い性器が俺のケツに当たる。彼の口髭が俺の背中に当たる。俺の性感帯の背中。
「薬飲むの忘れた」
泣いてる声にはならなかったはず。
暗いキッチンの中で立ち尽くす。いつまでも戻らないので、耕二が追って来る。俺って子供なのかな? 普通はどうするのかな?
耕二が電気を付ける。涙が馬鹿みたいに、いくつも頬に落ちる。
「誠、泣いてんの? なんで泣いてんの?」
答えようとして考えたら、ほんとはなんで泣いてんのか、自分でも分からない。俺って泣いてんの? 俺はこの人のことが好きで泣いてる。他の男は関係ない。
冷蔵庫を開けて、扉の後に自分を隠す。子供みたいに。少し鼻をすする。
「薬飲んだ?」
「ううん」
「どこにあるの? やっぱり君、ちょっと鬱なんだな。こんなに泣けるんだから」
彼が側に来て、俺の伸びた髪に触る。俺はショックで飛び上がる。冷蔵庫が閉まる。
寝室に戻って、床に脱いであったジーンズから薬を出す。ついでにそれを穿いてシャツも着て、キッチンに戻り薬を飲む。耕二はバスローブを羽織って、椅子に座って俺のすることを見ている。
彼が溜め息をつきながら、身体をモゾモゾさせる。
「君が変なところでいなくなるから」
俺はなにか言う代わりに、鼻をクスンとさせる。
「心配だから、なんで泣いてんのか言って」
そんなこと恥ずかしくて言えるわけない。
「学校のプール開きの時あるじゃない? その夏の初めてプールに入る時みたいな感じがして」
「なにが?」
「さっきベッドに入った時」
それはほんとだから。
「誠、やっぱり学校に戻った方がいいな。ちゃんと卒業しないと。俺、できることは手伝うし。理系だったら得意だぞ」
本物の物理学者に勉強教わるなんて。俺は可笑しくてクスって笑う。
「笑った方がずっと可愛い」
頭を撫でられて、そのままベッドに連れて行かれて、冷たいシーツに触った時、また大泣きしたけど、やることはしっかりやって、それで抱き合って寝た。
『そこまで寂しいわけじゃないし 3.水槽』
いつかと同じバーで、耕二と待ち合わせをした。時間通りに行ったら、彼はもうカウンター席にいた。ガラス張りの水槽みたいなバー。
彼はサングラスをしている。ブラジルとかにいるカッコいいマフィアみたいだ。あんまりイケメンだから恥ずかしくなって、俺は店に入るのをためらう。
勇気を出して重たいガラス戸を押す。クーラーの冷気で、またプールのことを思い出す。
水に飛び込む。脳がリセットされて、軋んだ歯車がまた回り出す。息ができない。水の冷たさに慣れるまで。
耕二の隣に座ると、途端に、カウンターにある彼の携帯が鳴る。彼がそれを覗き込む。
「ちょっとゴメンな」
そう断って、電話に出る。小声で話している。なんだか深刻そう。誰かな? 俺以外で寝てる男かな?
考えたくなくて、俺はプールの夢想に戻る。得意は平泳ぎ。手と足を揃えて、身体全体を細く伸ばす。円を描きながら水を掻いて、滑らかに進む。水の底ではなにも聞こえない。
耕二が電話を切った。サングラスを掛けているから、彼の考えていることが分からない。キスされる。俺の頬にサングラスの縁が当たる。
バーテンダーにそこを見られる。
「いつも可愛いの見せびらかしに来るんだから」
いつもってことは、他にも俺みたいなのがいるってこと? 俺はバーテンダーと耕二の顔をかわりばんこに睨む。
俺が酒が飲めるようになるまで、あと一年くらいある。なのにこんなとこに連れて来るのは、見せびらかしに来るため? だとしたら納得できる。でもそしたら、俺って見せびらかしたくなるほど可愛いのかな? 頬が熱くなる。俺って、なんでこんなに女の子みたいなの?
だから早く梅雨が終わればいいんだ。そのうちプール開きになって、本物のプールに飛び込めば、俺の苦しい幻想も終わる。
耕二の肩が俺のに触れた。その瞬間、質問が俺の口から考えるより先に出てしまった。
「耕二って、他に付き合ってる人いるの?」
その質問はずっと暗く隠れていた。俺達は出会って一月になる。心の中で、「キャッ、とうとう言っちゃった」と思う。失敗だったかな?
俺達は、泳ぐようにその水槽のようなバーを後にする。濡れた身体から流れた水が、頭や手から滑り落ちる。
空に夕陽の名残がある。
耕二が俺に囁く。
「君は繊細だから、大事にしたくなる」
よく分からない、その意味。俺の他に男はいるけど、言いたくないのかな? そういうこと?
二人で坂を上る。
「さっきの電話の人?」
また考えるより先に言葉が出た。彼は坂の途中で立ち止まり、フッと息を吐く。サングラスを外して、シャツの胸ポケットに掛ける。
なにか言うのかと思ったら、そうじゃなかった。
歩いてるうちに街の喧騒が高まっていく。突然、視界に東京タワーが現れる。記憶よりずっと巨大に見える。気圧の関係かなんか? 地質学者なら説明できるかな?
東京で育ったら、東京タワーなんてなんの意味もないのに、今夜はなぜか郷愁を誘う。耐えられる範囲を超える郷愁。
俺達の前を、白人の家族が歩いている。皆から一歩遅れて付いて行く、十才くらいの女の子。少し不貞腐れて、先を行く家族に、「今、何時?」って叫ぶ。その訛りのない日本語に、哀愁を感じる。「エトランゼ」という言葉が浮かぶ。
なにを見ても、なにを聞いても悲しくなる。六本木は俺にとって、いつも大人の街だった。近付いて来る東京タワーは赤く光って、俺達は、まるで違う惑星にいるみたいだ。
この惑星に住んで、人と出会って、人と関わって、この先もそうやってずっと生き続けないと。それって大変なことだと思う。
俺も変わっていくだろうし、耕二だって変わっていくだろう。少なくとも俺の方の気持ちは決まっている。でも、俺達の関係が今上手くいったとしても、その先は分からない。
炭酸水のように泡立つ心をして、水槽の様に透けたプールの中で迷いながら、俺は彼の腕に少しの間触れたまま、艶めかしい東京タワーに向かって歩いて行く。
強がりを言ってみる。
「俺は大丈夫。だって、そこまで寂しいわけじゃないし」
(了)
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