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「タマちゃんて、多分自分で思ってる以上に俺のこと好きだよね」

関東は平年よりも3日早い梅雨入りを迎えた。 バイトを終えて外に出ると、空はどんよりとぶ厚い雲に覆われていた。湿気を含んだ空気が身体中に纏わりつき、ベタベタする。肌寒いくらい冷房が効いたコンビニの店内とは大違いである。アパートから徒歩15分、駅近くのコンビニでアルバイトを始めたのは今年の4月、大学に入って少し落ち着いてきた頃。コンビニの業務は多岐に渡り、2ヶ月が経った今、ようやく仕事に慣れてきたところだ。 ここ最近の天気は雨が降っているか、灰色の雲がかかっているか。ずっと太陽を見ていない気がする。まだ梅雨入りしたばかりだというのに、もう日の光が恋しくなっている。 天気予報では晴れると言っていたのに、今にも降り出しそうだ。家路を急ぐ途中、顔に何かが当たった。それが雨粒だと認識する頃には道路に黒い水玉模様がいくつも描き出されていて、それからすぐにザーという音を立てて本格的に降り出した。考えるより先に、身体が動いた。荷物を抱え残りの距離を走る。この時期の天気予報ほど当てにならないものはない。天気予報を信じて、傘は持ち歩いていなかった。 徒歩5分という短い距離ではあったが、部屋に着く頃には下着までぐっしょり濡れてしまっていた。雨のせいでぐっと気温が下がり、全身に鳥肌が立ち寒さに身体が震えた。濡れた服が冷たくて体温を奪われる。鏡を見たら、きっと唇は紫色になっていることだろう。鍵を開けて部屋に入ると、すぐ左手側にある浴室に駆け込んだ。風呂を沸かそうと思ったのだが、とてもお湯が溜まるまで待っていられそうにない。シャワーを捻って、首を浴槽に向けた。アパートの風呂の設備は古く、お湯が出てくるまでに少し時間がかかる。お湯になるのを待つ間、濡れて肌に貼り付く服を脱いだ。うまく脱げず、ひとり浴室で大暴れする。特にジーパンは苦労した。すべて脱ぎ去った頃にはシャワーから湯気が出ていて、少し水を捻って温度を調整してから温かい湯を浴びた。今日は散々な目に遭ったが、それでも俺はこの季節が嫌いじゃなかったりする。雨の音は何だか落ち着くし、花を愛でる趣味はないが何故か紫陽花は好きで、紫陽花が一斉に咲き乱れるこの時期は俺にとって特別だった。高校に通っていた頃、雨が降るとわざわざ遠回りをして家に帰ったものだ。雨粒が傘を弾く音は心地良く、雨露に濡れた紫陽花は一段と美しく、艶やかだった。 幸い、バッグは表面が濡れただけで中身は無事だった。浴室の端に寄せておいた服は洗濯機の中に移した。自分のことが落ち着くと、次に気になるのは幼馴染兼恋人である同居人のことだ。小太郎も、傘を持って行かなかった。途中で買ってくれればいいのだが、小太郎という男はとにかく傘を嫌う男で、邪魔になるから、荷物になるし、と家を出る際に雨が降っている時以外は傘を持ちたがらなかった。挙句の果てには、濡れたら着替えればいいと言うのである。台風が来ると言われていた時でも、風で使い物にならなくなるから意味がないという男に期待をするだけ無駄というものである。だから、昔からよく幼馴染のよしみで同じ傘に入れて帰ったものだ。仕方がないから迎えに行ってやろうと、小太郎に連絡を入れようとした時だった。ガチャ、と音を立てて玄関の戸が開いた。 「ただいまー」 「おかえ……」 返事をしながら部屋から廊下を覗き込むと、予想通り濡れ鼠の小太郎がいた。何事もなかったかのように、靴を脱いで部屋に上がろうとする。スマホを放り出し、小太郎の元へ駆け寄った。 「びしょ濡れじゃん! 何で傘買って来ないの」 小太郎を土間に押しとどめ、肩に掛けていたタオルでガシガシ小太郎の頭を拭く。普段は小太郎より目線が下だが、今は上がり框のおかげで小太郎を見下ろす形になっている。 「だって、この時間じゃコンビニ寄ってもタマちゃんいないし、ビニ傘も溜まる一方じゃん」 一度濡れるとどうでもよくなっちゃうんだよね、とあっけらかんとしていた。 「それより、タマちゃんもうお風呂入ったの?」 「帰ってくる時ちょうど降られちゃって、寒かったから先入った。お風呂沸いてるからコタも早く入んな」 突然小太郎の腕が腰に回り、ぎゅっと強く抱き締められた。胸にぐりぐりと頭を押し付けられ、乳首にあたってビクッと身体が反応する。どさくさに紛れて手が服の中に侵入してきた。 「わ、冷た! 何!?」 「タマちゃん、お願いだから俺ともう一回風呂入って」 「は? やだよ、俺もう入ったし。それより、濡れるからやめて」 「頼むから! 変な事しないって約束するから」 「うーん……」 正直、面倒臭い。とりあえず、胸に掠ったのはたまたまで、手が入ってきたのは意図的でないことはわかった。強く締め付けられて、爪先立ちで身体を仰け反らせていた。うん、と言うまで離してもらえそうにないし、このままでは体勢的に辛い。 「わかったよ。わかったから、離して」 「……うん。でも、もうちょっとだけ」 ふぅ、と大きく息を吐いた。長年小太郎の幼馴染をしているが、小太郎が頑固でわがままだと知ったのはつい最近のことだ。 「どうしたの。何か様子おかしいけど、嫌な事でもあった?」 「いや、別に? タマちゃんあったかいなーって思って。あといい匂いするなって、幸せ噛み締めてたところ」 「それなら早く風呂入んなよ。お湯冷めちゃうよ?」 それから、小太郎がこんな無防備な甘え方をすると知ったのは、同居してしばらくしてからだった。 「コタのせいで俺まで濡れちゃったじゃん」 上がり框に乗る前に小太郎に靴下を脱がせ、廊下で小太郎が服を脱いでいる横で俺は小太郎のリュックを開けていた。 「いいじゃん、どうせまた風呂入るんだから」 「よくないよ。しばらく洗濯できてなくて、替えのパジャマがない」 「俺の貸してあげようか」 「コタのもこれから着るやつしかないでしょ。いいよ、しまったやつ出すから」 最近ようやく夏物に衣替えしたのに、小太郎のせいで春物のパジャマを引っ張り出さなければならなくなった。俺が溜息を吐く隣で、小太郎はえらく上機嫌だった。夜は更に冷え込むだろうし、ちょうどいいと思うことにした。リュックの中身はと言うと、さすが少々値の張る防水リュック。中身は無事だった。小太郎は少々物に無頓着なところがあって、リュックにはノートパソコンやら電子辞書やらが入っていたにも関わらず水濡れを気にしていた様子もない。本人がそんな調子だから、小太郎のお母さんはさぞ大変だっただろう。この防水リュックも、母の愛なのだと思う。空になった弁当箱と水筒を取り出すと、底に赤いお菓子の袋が見えた。 「ねえ、コタ。このお菓子」 小太郎を見上げると、シャツと肌着を同時に脱ごうとしていた小太郎が首の辺りで服をつかえさせてもがいていた。シャツを掴み、半ば強引に首から抜いてやる。 「ありがと、タマちゃん」 一瞬ぽかんとしていた小太郎が、懐っこい顔で俺に笑いかける。小学生の頃は同じくらいだった背丈はぐんと伸びて、その頃に比べたら体格も随分と変わってしまって。それでも、寝顔と笑った顔は昔から変わらない。 「濡れた服って脱ぎにくいよね。俺もさっき苦労した。下も手伝ってやろうか」 親切心からで、決してそれ以外の感情はなかった。小太郎の下腹部を見て、視線が釘付けになる。肌が粟立って乳首はきゅっと縮こまっていたのに、股間はジーパンを押し上げていた。 「だからいいって言ったのに」 小太郎の言葉は、俺の耳には届いていなかった。顔を赤くした小太郎が、口を片手で押さえて目を泳がせていた。 「なんで勃ってるの?」 我ながら無神経なことを聞いたと思う。 「そりゃ、帰ってきた時に好きな子が風呂上りでいい匂いさせてたら男は誰でも興奮するでしょ」 「……コタって、結構俺のこと好きだよね」 「ああそうだよ。だから一緒に風呂入って。何もしないから」 ヤケになった小太郎は、耳まで顔を赤くして冷たい両手でぎゅっと俺の手を包み込んだ。小太郎の必死さに気圧されてコクコクと頷いた。小太郎には引かないで、と言われたが引いたのと戸惑いが半々だった。小太郎から告白されて、付き合い始めて約2年。俺は未だに小太郎から向けられる好意をどう受け取っていいのか分からなかった。恋人として重ねてきた年月の何倍もの時間を、幼馴染として共に過ごしてきたのだ。俺にとって小太郎は、家族とは違うが親友というには他人行儀過ぎて。家が近い一番仲の良い従兄弟ぐらいの間柄がしっくりくるだろうか。告白される前は、同性だし、恋愛対象として見た事は一度もなかった。恋人として同居している今も、幼馴染としての延長線上にいるような感覚でいる。だから、たまに感じる小太郎の好意に後ろめたさを覚えるのだ。 「そういえば、タマちゃんさっき何か言いかけてたでしょ? 何?」 小太郎が分かりやすく話を逸らした。自分の為なのだろうが、少し気まずい空気になっていたから、助かった。 「リュックの底の方にチョコ入ってたんだけど」 「ああ、いいよ。タマちゃんにあげる」 小太郎が甘いものは好きではないことを、俺は知っている。あえて聞いたのは、小太郎がチョコを俺にくれることが分かっていたからだ。昔からそうだ。好きでもないのにわざわざ貰ってきて、俺に譲ってくれる。その代わりに俺もせんべいなど小太郎の好きなものは取っておいて小太郎にあげた。小太郎の好みはオヤジ臭くて、せんべいや、しょっぱい系のスナック菓子、おつまみ類が喜ばれた。ちなみに、せんべいなら堅焼きのしょうゆ味だ。甘いものに目がない俺は、小太郎の前で包みを開封しようとした。ピコンピコン、と立て続けに2回着信音が鳴ったのはその時だった。 小太郎がポケットからスマホを取り出し、画面を一瞥すると洗濯機の上に置いた。そう言えば、リュックの中にスマホはなかった。防水機能ありのスマホだったとはいえ、よく無事だったと思う。裾の内側に入っていて、直接水の浸入を防げたのだろう。3回目の着信音が鳴り、メッセージが画面に表示される。見るつもりはなかったのだが、メッセージが短いせいでつい読めてしまった。1回目の着信音は、佐々木がバイトしてる店に来たよ、という理香子さんからのメッセージ、2回目の着信音は画像の受信。画像は小さく表示されていてよく見えなかったが、小太郎の大学の友人なのだろう、女性2人と男性1人がテーブルを囲んでいる写真だった。3回目の着信音は、佐々木いなくて残念、今から来て、という内容のメッセージがたくさんのハートの絵文字と共に送られてきた音だった。 「返事、しないの?」 「あとでするよ」 4回目の着信音が鳴ると、小太郎はスマホをマナーモードに設定して、今度は画面を伏せて置いた。ズボンのボタンを外し、ズボンを脱ぎ始める。俺は見てはいけないものを見てしまったかのようにすぐに目を逸らした。チョコレートを食べようと、今度こそ包みを開けようとした時だ。パッケージに黒マジックで書かれていた大きなハートが目に付いた。 「やっぱり、これはコタが食べなよ」 「えっ、なんで!?」 スマホの隣にチョコを置くタイミングと被せて小太郎が言う。 「だってこれ、コタのじゃん」 弁当箱と水筒を手早く回収すると、キッチンへ足を向けた。小太郎の手が俺の腕を掴む。一瞬顔を顰めたほど強い力だった。 「タマちゃん何か誤解してない?」 何て答えたらいいか分からず、口を噤んだ。小太郎が俺の心を見透かしていて、呆れた顔をしているんじゃないかと思うと小太郎の顔を見れなかった。手が離れたかと思うと、袋を開ける音がした。コタが食べなよ、なんて言っておきながら、小太郎がチョコを食べるのが嫌だと思っている自分がいる。目の前に、開封されたチョコレートが突き出される。 「食べて?」 「自分で食べなって言ったじゃん」 顔を上げて小太郎と目を合わせると、小太郎は何の表情も浮かべていなかった。ただ、真っ直ぐに俺を見ていた。 「タマちゃんが食べないならこのまま捨てるけど」 あくまでも、口調は穏やかだった。 「何を誤解してるのか知らないけど、これは市販のただのチョコレートだよ。タマちゃんは食べ物を粗末にすることを極端に嫌ってたよね」 これは脅しだ。確かに、食べ物に罪はない。幼馴染だった頃の小太郎は、俺を試すようなことはしなかった。だから、この先の小太郎の行動が読めない。折れて捨てないかもしれないし、本当に捨ててしまうかもしれない。口を開くと、小太郎の指の温度で溶けたチョコが押し込まれる。咀嚼している間に小太郎は空になったパッケージを足元のゴミ箱に捨てた。 「それ、捨てちゃうの?」 「うん、だってゴミだし。それとも、大事にとっておいた方がいい?」 小太郎の質問に、首を振って答えた。小太郎は表情を柔らかくしてふっと微笑むと、俺の頭に手を置いてぐしゃぐしゃ撫でる。 「この話はこれで終わりね。先入ってるから、後から来て」 うまく言えないけれど、すごく嫌な気分だ。逃げるようにしてキッチンへ来た。一体、自分は何に対してモヤモヤしているのだろう。確実に言えることは、小太郎に対する不満。こんなに意地悪な奴だと思わなかった。それから、食べるのをためらった自分に対して。小太郎に聞こえないように小さく溜息を吐いた。弁当箱を洗って泡を流し始める頃、立て付けの悪い浴室のドアが開く音がした。はぁ、と二度目の溜息を吐いた。できることなら行きたくはないのだが、やっぱり、どうしても行かなければならないのだろうか。 本日二度目の風呂に入るにしても入らないにしても、どちらにせよ着替える必要があったので小太郎の部屋の引き出しを開けた。主な生活拠点はダイニングキッチンで、寝起きは俺の部屋で共にしている。小太郎の部屋にはベッドや机など一通り揃っているのが、入室した頃から物置になっていて未開封のダンボールや季節はずれの衣類がしまい込まれていた。時間稼ぎをしたかったが、春物のパジャマは、すぐに見つかってしまった。 「ターマーちゃーーん」 小太郎が、浴室から大声で俺を呼んだ。 「はーい、今行く!」 うじうじ悩むのは、昔からの悪い癖だ。何事もなかったかのように振舞おうと決めた。 濡れたパジャマと下着を脱いで浴室のドアを開けると、小太郎は前方の鏡に向かって、風呂椅子に座って頭を洗っているところだった。浴室に一歩足を踏み入れて、違和感を覚える。風呂床がやけに冷たい。先に湯船に浸かっててと言うので、小太郎の言う通り浴槽に身体を沈めた。小太郎が、水色の蛇口を捻った。 「うわうわ、馬鹿何やってんの」 シャワーヘッドから勢いよく飛び出した水が小太郎の肌に当たり、跳ね返った水が俺の顔に掛かる。水とお湯を間違えているのかと思ったら、小太郎は意図的に行水をしていたようだ。風呂床が冷たかったのも、小太郎が水を浴びていたからだ。 「何って、勃ったモノを鎮めてたんだけど。何もしないって約束したじゃん。おかげでほら、縮こまってる」 「もぉ、馬鹿なことしてないで早く風呂入れよ」 帰ってきた時よりも更に冷え切った腕を掴み、強く引っ張った。小太郎は待って待って、まだ泡流しきれてないから、とどこか嬉しそうに言うと、お湯使いなよ風邪引くから、と言う俺の言葉をあとちょっとで終わるから、と受け流して結局水を使うのをやめなかった。 言うまでもなく、小太郎の身体は冷え切っていた。小太郎が浴槽に入ると、ザバァと音を立ててお湯が溢れて排水溝に流れていった。ふたりで入ることになるなら、最初からお湯の量を少なくしておけばよかった。水遊びが好きだった頃は風呂の湯が溢れる様子がすごく面白かったのだが、バイトを始めてお金の価値が分かるようになった今、すごく勿体無く感じる。小太郎の腕が俺の腹に巻き付き、体育座りしたままずるずると後ろに引き摺られる。小太郎の身体に寄りかかると背中がひやっとした。 「タマちゃん髪冷たい。風呂上がったらすぐにドライヤーで乾かそうね」 俺の頭に頬擦りしながら小太郎が低く甘い声色で言う。髪どころか、全身冷たい男が何を言っているのだろう。何もしないと言ったくせに、俺の髪に鼻を埋めどさくさに紛れて耳の裏にキスをした。鳩尾辺りでロックされていた手が緩んで、上下に動こうとしていたから小太郎の手の甲を掴んで元の位置に戻した。気持ちいいのは嫌いじゃないけど、今日はそんな気分になれなかった。 「雨すごいね」 あっさり諦めた小太郎が俺の後頭部にキスをしながら言う。これは一緒に入る時にいつもするじゃれあいで、小太郎は何もしないと言っていたから、今のは軽い挨拶のようなものなのだろう。シャワーの音、お湯が溢れる音が止むと外の音が鮮明に聞こえてきた。 「俺が帰ってくる時はここまで酷くなかったな。タマちゃんが帰ってきた時はどう」 「怒ってたんじゃないの」 「え?」 何事もなかったかのように振舞おうと思っていたけれど、限界だった。喧嘩するよりずっといいと分かっているけれど、俺がモヤモヤしているのに小太郎が涼しい顔をしているのが気に食わなかった。そもそも、何でも言い合ってきたのに、今更我慢するなんて性に合わない。 「蒸し返して悪いけど、さっきコタ怒ってたじゃん。何で今そんなに普通にできるの?」 ザァァァァと、雨の降る音が聞こえる。縁を掴んで腰を浮かせ、後ろを振り返ると小太郎がぽかんとした顔で俺を見上げた。それから、ちょっと困った顔をする。 「だって、タマちゃんが相手のことばかり気にするから」 元の場所に収まるのがなんとなく嫌で、湯船に足を浸けたまま縁に腰を下ろした。 「ハートに気付かなかった俺も悪いけど、俺が好きなのはタマちゃんなんだよ? もっと自信持てばいいのにって思って」 不覚にも、膝を抱えて不貞腐れたように言う小太郎にきゅんとしてしまった。小さい頃は親に叱られた時、納得できないと半べそでぐずってたっけ。 「あのチョコ、どっちから貰ったの?」 送られてきた写メに写っていた2人の女性。そのどちらかだろうと俺は睨んでいた。 「松本。と言ってもわかんないだろうから後でさっきの写メ見せるよ。他にもうひとりいるんだけど、あいつらはグループ課題のメンバーで」 「その子、コタのこと好きなんじゃないの?」 自分から聞いておきながら、小太郎の口から俺の知らない人の名前を聞くのは面白くなかった。 「そうかもね」 からかってやるつもりで言ったのだが、小太郎はあっさりと肯定した。 「けど、向こうから何か言ってこない限りこちらからは何もできないし、もし告白されてもちゃんと断るよ。俺が好きなのはタマちゃんだけだからね」 こういう時に整った容姿は本当にずるいと思う。顔を赤くして手の甲で口元を覆い、目を逸らした俺に小太郎は両手を広げた。ゆっくりと浴槽に腰を下ろし、元の場所に収まる。 「もう一個だけ聞いていい?」 「ん?」 背中を丸めて膝を抱え、前を向いたまま言う俺の肩に小太郎は甲斐甲斐しく手で掬ったお湯を掛けた。 「メッセージで理香子って出てたけど、下の名前で呼んでるの?」 「いや、名字だけど。俺、名前の設定親とタマちゃんしか変えてないから、相手が登録したままの名前で届くんだよね」 「なんだ……」 ボソッと呟くと、ふふっと背後で小さく笑う声が聞こえた。そして、ぎゅっと後ろから抱き締められる。 「タマちゃんヤキモチ妬いてくれたんだ。嬉しいな」 「やっぱり、ヤキモチなのか、これ……」 なんとなく分かっていたけれど認めたくなかった感情。みっともなくて、情けない。幼馴染から恋人になって小太郎は随分と変わったと思っていたけれど、自分にも多少なりとも変化があったらしい。今まで小太郎がどんなに女子にモテようとヤキモチなんか妬いた事はなかった。 「タマちゃんて、多分自分で思ってる以上に俺のこと好きだよね」 「もうやめて。これ以上は無理」 「はいはい」 顔が熱くて、今にものぼせそう。 「今週末ちょっと遠出しない?」 一足早く風呂を出ようとした俺に小太郎はこんな提案を持ちかけた。振り返ると、小太郎は瞬時に察してもう出ようか、と言ってくれた。立ち上がった時にはもう手遅れで、頭から血の気が引いていくような感覚があり、視界が少しずつ狭まっていった。足元がふらついて、小太郎に支えられながら風呂を出た。ふたりとも裸のまま場所をダイニングキッチンへ移動し、ソファに座らされる。合皮のソファが水を弾き、肌が触れているところがぬるぬるして気持ち悪い。小太郎がキッチンから濡れタオルと水を持ってきてくれた。 「大丈夫?」 「ちょっとめまいしただけ。もう大丈夫。心配かけてごめん」 小太郎がコップに注いできてくれた水を一気に飲み干す。相当喉が渇いていたようで、同じ水なのに普段飲む水の何倍も美味しく感じた。顔に濡れタオルを乗せて休んでいると、小太郎が2杯目の水を運んできた。 「そういえば、遠出ってどこ行くの?」 顔からタオルを外して聞く。 「神奈川の紫陽花寺。正式名称何寺って言ったっけ、ごめん後で調べとく」 水をテーブルの上に置いた小太郎は、出したばかりの扇風機を持ってきて首を俺に向け、スイッチを入れた。ここまでされると、今度は逆に寒い。 「あれ、小太郎って紫陽花好きだっけ?」 「いや。でもタマちゃん好きでしょ?」 風に嬲られながら、ぽかんとする。男なのに花が好きなんてバレたら馬鹿にされると思って今まで誰にも言った事がなかったはずだ。小太郎が言葉を続ける。 「高校の頃、この時期よく寄り道して帰ったよね。俺は少しでも長くタマちゃんと相合傘したいって子供じみた下心があったんだけど、タマちゃんそれに気付かずに紫陽花に魅入っててさ。なんかやたら詳しかったし。あの頃はみっともなく花に嫉妬したよね」 「ふふっ」 何だかおかしくて、鼻から息が漏れた。 「ねえ、コタ。紫陽花の花言葉知ってる?”辛抱強い愛情”。ずっと好きでいてくれてありがとう」

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