1 / 1
花人
花人という言葉がある。
花の人と書いて、カジンと読む。
遠き昔、五穀をつかさどる稲田姫が、花より人型をお造りになられた。神社仏閣、神仏のおわす場所に仕えていた人型たちは、やがて稚児となりて身分の高いものに仕えるようになった。稚児の役目には夜伽の世話も含まれる。時代が下がるにつれて、その役目のみをおう、男娼の花人が生まれた。
ほうほうと露の雨にけぶる遊郭街。そこには稀に、神のみ使いもお通いになる。今宵の物語の主人は、五穀の神に仕えし、狐のみ使いの話。彼が可憐なる紫陽花に出会う話だ。
※
若い雌狐ほどうるさいものはこの世にない。白い銀髪を翻して、墨色の単衣を着流す若狐はほとほとうんざりしていた。彼の姿は若い男衆のそれ。ただ違うところと言ったら、狐耳が頭の脇から生えているところだろう。
梅雨のこの時期には、狐の嫁入りが頻繁にある。
けぶる雨の中をゆく花嫁行列は美しいものだが、その中核たる雌狐のなんと小うるさいことか。相思相愛でもないのに、三日に一度は手紙を寄こせと、棲み処に押しかけられて泣きじゃくられた。
たまったものではないと棲み処を跳びだし、彼は遊郭街をぶらついている。これからはあの女に縛られる毎日を送ることになる。少しぐらいはめをはずしても、稲田姫はお怒りにはなるまいとの算段だった。
そんな彼の鼻腔に、花の匂いがふんとかかる。艶やかな朱色の格子の向こうには、着飾った花人たちがしなをつくって、こちらに流し目を送っていた。男とも女ともとれない中性的な外見を持つ彼らは、幼い頃に雄蕊にあたる生殖器を去勢され、雌蕊にあたる生殖器だけが残される。本来ならば男と女両方の性を持つ彼らは、男の部分を去勢され、男との交わりがなければ次の世代に命を残せないようにされているのだ。
花人の命は短い。花の精である彼らは、一夜限りの契りによって孕み、次の世に命を繋ぐ。そうして彼らは孕んだ子を産み落としたと同時に、その生涯を終えるのだ。
「うるさい女どもより、花人の方がよほど趣がある……」
そんなことを人に許す神もどうかしていると自嘲しながら、若狐は鼻を鳴らしていた。と、蒼く翻るものが若狐の側を通り過ぎていく。艶やかな藍色の着物を纏う中世的な顔立ちの若者だった。漂う花の香から、彼が花人だと分かる。
さらりと蒼い髪を翻して、彼は狐の横を走り去ろうとしていた。その彼の手を狐はそっと握ってみせる。
「待ちやがれ! 紫陽花!」
それを追う黒子の集団が数人、こちらへと走ってやってくるのがみえてからだ。どうにもこうにも、彼は廓を逃げ出してきたらしい。
黒子たちは若狐を取り囲む。その中の頭らしき男が口を開いた。
「ありがとうごさいやす! 旦那! そいつ、人と寝るのが嫌とか言って、客のいる部屋から逃げ出しやがった!」
「そのお客は、いまでもこの麗しい紫陽花をご所望かい?」
そっと彼を背中に隠して、若狐は微笑んで見せる。頭は虚を突かれたような顔をして、頭をそっと左右に振った。
「そんなやつは抱きたくもない。興が冷めたと帰っていきましたよ。お陰でこちとら、大損だ。神様方からいただける花人は数が限られてるっていうのに……」
「するとこいつは、俗世もんじゃないんだね」
「へい、正真正銘の神域生まれの花人です」
若狐の言葉に、頭は頷いてみせる。
遊郭で働く花人には二通りある。一つは遊郭で生まれた俗世者と呼ばれる花人。もう一つは、神域で育てられ神々から人に授けられたみ使いと呼ばれる花人だ。通常、廓で生まれた華人は穢れているとされ、価値がみ使いよりも下がる。それゆえ、値段も安い。
それに比べ、穢れなき神域からもたらされた花人はみ使いと呼ばれ、高値で取引されるのが常なのだ。
「私がこいつを買ってもいいかな?」
背後の花人を見つめ、若狐はそう頭に尋ねていた。花人は眼を見開きこちらを見つめてくる。そんな花人に、若狐は優しく微笑んで見せた。そして、唇を動かして彼に小さく伝える。
――大丈夫だと。
「そりゃ、嬉しいことで! どうぞ、どうぞ! ささ、うちの廓はこちらです」
先ほどまでの権幕はどこえやら、頭は破顔しながら手で来た道を指し示す。そんな彼に微笑みながら、若狐はしっかりと花人の手を握りしめていた。
「ではいこうか、紫陽花……」
「はい……」
小さく、震える声で彼は返事をしてくれる。そっと彼に振り返り、若狐は彼に微笑んで見せた。
※
「本当に、ありがとうございました」
畳に額をこすりつけ、紫陽花と呼ばれた花人は若狐に頭を下げてみせた。煙管を吸って欄干越しの遊郭を眺めていた若狐は、不敵に彼に微笑んでみせる。
「なに、俺も嫌なことがあってね。金は置いていくから、適当に嘘八百でも並べて俺とはうまくいったとあの頭に伝えておいてくれよ」
「ですが……」
「前座だけで満足したとでもいえばいい」
頭をあげた紫陽花に、若狐は笑みを深めて答えてみせる。実際に、そういう客は結構な数いるのだ。相手をすれば命を落とす花人が哀れすぎて、金だけおいて彼らとの交流を楽しむだけの優しい輩が。
「それでは……申し訳がたちません……」
そっと紫陽花は顔を逸らし、薄紫の眼を潤ませてみせる。そんあ紫陽花の様子を見て、若狐は困った様子で狐耳を掻いてみせた。
「俺も花人と寝るつもりはないんでねぇ。刹那の命をとるほど、鬼畜じゃない」
若狐の視線は、部屋の床の間に飾られた紫陽花へと向けられていた。梅雨が過ぎれは散りゆく花。その花をむやみに散らすほど、自分は無粋な狐ではない。
そっと紫陽花の花人を見つめる。潤んだ紫の眼は雨に濡れる紫陽花。髪の青は、雨の降る空の色。男とも女とも分からない中世的な見目は、見るものをどことなく幽玄な心持ちへと誘ってくれる。
「愛でるからこそ花人は美しいなんて奴もいる。俺もその類みたいだ。
そっと彼の頬に手をさしのべると、冷たい肌の感触が掌に広がる。うっとりと若狐は眼を細め、眼前の美しい花を愛でた。こんなに美しいものを散らしてしまうなんて、黒子たちはどうかしているとしか思えない。
「ようやく、お会いすることができました」
そっと頬に添えられた若狐の手を両手で握りしめ、紫陽花の花人は口を開く。彼はうっとりと眼を細め、夢見るような眼差しを若狐に向けていた。
「どうぞ、私を手折ってください……。あなたになら、この身を捧げてもいい……」
紫陽花は自分の胸元へと、若狐の両手を持っていく。紫陽花の胸は平たい。それでも乳首の周囲にはやんわりと肉が乗り、小さな女の乳房のようになっていた。
体温は、梅雨の雨のように冷たくて心地がいい。
「何を言う? みすみす俺に抱かれて死ぬ気なのか?」
「花人の命はほんのひととき、咲く時期が過ぎればこの身は自然と朽ち果てます。その前に、添い遂げたいお人を見つけるのが私たち花人の定めにございます。私は今日、こうやって若旦那様とお会いすることができました。これも何かの縁。この命尽きる前に、どうか……」
紫陽花の眼が、真摯な光にゆらめく。そのゆらめきから若狐は眼を逸らすことができなかった。すっと眼を鋭く細め、若狐は問う。
「俺で後悔しないか?」
「滅相もございません」
紫陽花の顔に、文字通り花のような笑みが浮かぶ。しょうがないなと若狐は自嘲して、そっと彼の唇を吸っていた。
※
何度も、何度も、唇を吸ってお互いの体温を確かめ合う。紫陽花の美しい眼を見つめながら、若狐はほうっと息を吐いて彼の眼球をちろりと舐めていた。何をするのですかという紫陽花の戸惑いに、若狐はあんまりにも綺麗なものだったからさと、笑いながら答えてみせる。彼が頬を赤く染めるのを見はからって、若狐はまた深く紫陽花に口づけを落としていた。
深く深く、二人は繋がる。唇だけではなく、体を通じて身も心も。
ひんやりとつめたい紫陽花の体温に心地よさを覚えながら、若狐の心持ちはまどろみの中にあった。
ずっとずっと、こうしていたい。心も通じ合わぬ雌狐ではなく、紫陽花と結ばれたい。体だけではなく、夫婦として。
「お前が伴侶だったらいいのになぁ……」
褥の上でそうぽつりとつぶやく。
「それは無理なお話ですよ」
可憐な笑みを紫陽花は咲かせる。そんな彼が余計に可愛く思えて、若狐は彼の唇をまた吸っていた。
深く、深く彼と繋がる。身も心も。
今宵を最後に彼は散る。自分が彼を散らす。
そうして、生まれゆく命は誰に託されるのだろう。ふと、若狐は疑問に思う。
「生まれた子はどうなるんだ」
その問いに、
「生まれた子もまた、同じ定めを辿ります」
紫陽花は、悲しげに笑って答えた。
※
蒼い空を雨が彩る。狐の嫁入りだ。けれど、若狐には添い遂げた相手が泣いているように思えた。
あの日の夜、二人で廓を抜け出した。私のことはどうなってもいい、どうか子を頼むと紫陽花に託されたから。
嫁も両親も捨てて、若狐は紫陽花を選んだ。彼と添い遂げたいと思った。
翌日、紫陽花は玉のような赤子を生んで散ってしまった。
その子の手を引いて、若狐は森をさまよう。山紫陽花の咲く森を。
「ととさま、どこに行くの?」
大きくなった我が子が問いかける。紫の色をした眼が、不思議そうに自分を見つめていた。
「お前が添い遂げる相手を見つけるまでさ」
願いを込めて、そう答える。それは、紫陽花の願いでもあるから。この子が自分と同じように、添い遂げられる相手を見つけられるよう若狐は旅をする。
その相手がどこにいるかは分からない。子はまだ小さい。伴侶よりも世話をする人の方が必要だ。
だからと、若狐は思う。今だけは、この子の手をしっかりと繋いでおこう。
この子を想う人が現れるまで。
了
ともだちにシェアしよう!