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先き立つ者 5
「あんた、よくこんな状態で俺を誘ったな。ある意味尊敬するよ」
「男のひとり暮らしなんてこんなもんだろう。てきとうに座って寛いでくれ」
「てきとうに、って言われてもな……」
柳の小言を流しながら、俊幸はキッチンスペースへ足を進める。シンクに溜まった洗いものからマグカップをふたつ発掘し、それらを丁寧に洗う。それから水分を布巾で拭い、インスタントの粉を入れた。ポットなどの上等な家電製品は無いから、小さな鍋で湯を沸かす。
沸騰するまでの間、居間の様子をうかがうと、柳は興味深そうに辺りを探っていた。
こんなゴミ屋敷を訪れる経験など、一生に一度あるかないかだろう。もちろん柳のような酔狂な客も、この先現れることはないだろうが。
沸騰した湯をカップに注ぎ、手近にあった箸でかき混ぜる。客に出すには貧相な品だが、これが俊幸にできる最大限のもてなしだった。
「待たせたね、インスタントだけど……。悪い、うちにはこれしかないんだ」
「あのさあ、俊幸さん」
俊幸がカップを持って居間に戻ると、柳は何かを手に持ち、壁際でたたずんでいた。
「どうかしたのか?」
訝しげに尋ねると、柳は自嘲的な笑みをこぼし、手に持っていたものを俊幸の目前に掲げた。
「あんたがまだこういうの持ってるの、正直意外だったよ」
それは息子が小学校に入学したときの記念に撮った家族写真だった。妻と離婚した後も、俊幸はこの写真は捨てることができないでいた。息子と一緒に撮った唯一の写真。可愛い息子の親権は妻が勝ち取り、離婚してから一度も、その成長した姿を見ることは叶わなかった。
「まさか……」
その事実に思い至った瞬間、俊幸の脳裏にあの日の記憶が残酷に蘇る。柳、と名乗ったこの男の正体は――。
蒼褪めた俊幸の表情を見て気を良くしたのか、柳と名乗る男は口元を吊り上げて言った。
「俺は雪耶(ゆきや)」
「……ゆきや」
「旧姓は藤原。六年前、あんたが捨てた息子だよ」
本当に、この男は雪耶なのか。いまの彼から当時の面影は感じられないが、言われてみれば荒んだ雰囲気さえ取り払えば、顔立ちはそうなのかもしれない。
柳、という名を聞いたときに、どうして気づけなかったのだろう。珍しい苗字であると共に、それは別れた妻の苗字でもあった。なぜ、息子が俺の居場所を知っているのか。矢継ぎ早に疑問が湧いてくる。
聞きたいことは山ほどあるが、目の前に立つ息子、雪耶が俊幸に無言の圧力をかけてくる。何よりも雪耶の目的がわからない。俊幸は混乱する脳内をなだめながら、まずひとつ、疑問を口にした。
「どうしてここが……?」
「母さんに頭下げて聞き出した。本当は知られたくなかったようだけど、俺は父さんに会いたかったから」
離婚の原因は俊幸にあった。話を切り出したのは妻のほうだ。あっという間に手続きが済み、息子の親権を奪われたが、俊幸はどうしても雪耶に会いたかった。
無駄だとわかっていても、いま住んでいるアパートの住所を添えた手紙を何通も送った。当然返事はない。年が経つごとに枚数は減ったとはいえ、この不毛なラブレターを俊幸は毎年送り続けていた。
てっきり読まずに捨てられていると思っていたのだが、住所くらいは控えてくれていたらしい。おかげでこうして息子と再会できた。喜ばしい場面とはいえないが。
「忘れたなんて下手なこと言うなよ? 俺にあんなことしといて、そのまま出て行っちゃうなんてさ。わけわかんねぇよ」
「……すまない」
「すまないじゃねえ! なあ、どうして俺を捨てたんだ?」
突然雪耶が怒号を上げ、俊幸の腕を掴み上げた。見た目以上の強い力に怯え、思わず手を引こうとするが、雪耶はさらに力をこめ、俊幸の身体を押し倒した。
「いっ……!」
「弱いな、父さん」
雪耶はそのまま俊幸の上に覆いかぶさり、抵抗しようともがく両手首を片手で掴んで、そのまま頭上で拘束した。
「大人しくしろ」
低く唸るその声に、俊幸はまた既視感を覚える。その正体が何なのか、答えは見上げた先にあった。
「俊幸……」
「……あ……っ、あ、あ……」
その目を、その声を、その呼び方を忘れたはずだったのに、いまになって思い出してしまった。心の奥底に封印していた、実の父親に犯されたという記憶。雪耶の顔は皮肉にも、俊幸の父親にそっくりだったのだ。
「そんなに怖い? 俺がじぃさんに似てるから?」
「頼む、雪耶……やめ……」
「実は俺じぃさんから聞いてたんだ。父さんをハメたってこと。酒に酔ってベラベラ喋ってくれたよ」
「……嘘だ……っ」
「とんだ腐った家族だよな。俺らって。本当ヘドが出る」
雪耶は苦しそうに顔を歪めたが、錯乱状態に陥りかけている俊幸に気づく余裕はない。
「でも一番腐ってんのは他でもない、あんただよな?」
「ちが――」
咄嗟に否定しようと言葉を発したが、その瞬間、左頬に鋭い衝撃が走る。パンッと乾いた高い音の後に、じんわりと鈍い痛みがやってくる。
人から暴力を振るわれた経験のない俊幸にとって、雪耶が放った平手は屈辱にも似た悔しさを伴わせた。だが、それと同じくらい恐怖で身体が竦んでしまう。
大人しくなった俊幸を皮肉気な眼差しで見下ろす雪耶は、父親の頬にそっと手を当てて、わずかに熱を帯びたその体温を楽しんだ。
「これはお仕置きだ。悪いことをした子にはお仕置きが必要だ。これも全部、お前を愛しているからだ……だったか?」
雪耶の手は頬から顎へと滑り、恐怖のあまり顔を背けようとした俊幸の抵抗を奪った。
「悪かった……っ、俺が、悪かった……だからっ」
「そう、悪いのは父さんだ」
ゆっくりと雪耶の顔が近づいてきて、親子の距離はいっそう短くなる。唇の端をねっとりと舐められ、その熱と刺激に、忘れたはずの熱が徐々に高ぶってくる。
「あんたは実の息子を犯した。自分がされたことを、息子にも強要した。愛なんて言葉が免罪符になると思うなよ。あんたのせいで、俺は一生を狂わされた!」
「痛……っ」
怒りの感情に任せて、雪耶は俊幸の下唇に歯を立てた。ぷっくりと腫れたそこから血が滲み出る。雪耶の舌はその血を舐め取り、そのまま俊幸の口腔内を嬲った。決して交わってはいけない互いの唾液が混ざり合い、否が応でも飲まされる。
「なあ、どうして俺にあんなことしたんだ? 答えろよ、父さん」
最後に口の端に溢れた唾液を舐め取った雪耶は俊幸に尋ねた。
呼吸を整えている間、俊幸は過去へと想いを馳せた。
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