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第23話 そこにある感情は真実だ

 小さな怪獣のごとく泣き叫ぶ悠人はいくらなだめてもあやしても泣き止まない。けれど顔を真っ赤にしながら泣いている息子には目もくれず、瑠衣は手早く荷物をまとめて大きな鞄を肩にかける。そして一生懸命に甥っ子をあやす光喜の腕を掴んだ。 「光喜、帰るよ」 「え?」 「ここにいたらあんたは正しい選択ができなくなる」 「だけど」 「いいから、おいで」  娘の剣幕にオロオロしている眞子には視線も向けず、瑠衣は光喜の腕を掴んだまま歩き出す。せめてなにか母に言葉をと思うが、そんな隙も与えないほどの力でリビングから引きずり出される。こうなった時の姉はひどく頑固だ。仕方なしに光喜は黙って瑠衣の背中に付き従った。  家を出てしばらくすると、ベビーカーの悠人はぐずぐずとするもののぴたりと泣き止んだ。そして泣きつかれたのか親指をしゃぶりながらウトウトと眠り始めた。自分の母親の大きな声に驚いたと言うことも考えられるが、赤ん坊は人の感情に敏感だと誰かに聞いたことがある。  こんな小さな身体にギスギスとした空気を感じさせてしまったのかと思うと、申し訳なさで光喜はひどく落ち込んでいく。 「光喜、こっち」 「姉さんどこに行くの?」 「すぐそこよ」  眠っている悠人に気遣いゆっくりと歩いていた光喜は、道の先で立ち止まる瑠衣の指先へ視線を向ける。近づいてみるとその先に木製の看板が見えた。彫り込まれた丸い文字を読むと「ちこももカフェ」とある。店は看板だけでなく外観もウッド調で、まだ真新しさを感じた。 「ここ、子供連れ大丈夫な店だから」  目を瞬かせながら店を見つめる光喜に瑠衣は目配せして扉を開く。カランコロンとベルが鳴ると店の中から来客を迎える声が聞こえた。 「あ、瑠衣ちゃん! いらっしゃい」 「千湖、奥の席いい?」 「うん、いいよ」  親しげに瑠衣と言葉を交わしているのはショートカットの小柄な女性。垂れ目でほんわりとした雰囲気のその人に光喜は見覚えがあった。じっと見つめているとふいに視線が持ち上がり、彼女は目をパチパチと瞬かせる。そして小さく声を上げて指さされた。 「あれぇ、もしかして光喜くん? わぁ、しばらく見ないうちにまた格好良くなったねぇ」 「なに光喜、千湖のこと覚えてないの? うちによく来てたでしょ。加納千湖、あんたちーちゃんって呼んでたじゃない」 「あ、ああ、姉さんの同級生だった、加納さん」 「やだ、千湖でいいよ。あ、席のほうにどうぞ」  店内は木目のカウンターと真っ白なテーブルが手前のホールに三つ。そして衝立の奥にもう一つ。こぢんまりしているけれど狭苦しさはなく、照明の傘や窓枠までこだわり抜いた可愛さがある。ちょうどお客が引いたあとだったようで店は静かだった。 「悠人くんはおねんね中なのね。ママの隣を空けてあげるねぇ」  四人掛けのテーブル席。瑠衣の隣の椅子を避けると、千湖はベビーカーをそのスペースに寄せた。そして天使の寝顔に相好を崩しながら至極幸せそうな表情を浮かべる。 「千湖、わたしはカフェオレに苺のシフォン」 「姉さん、まだ苺食べるの?」 「まだ全然食べ足りないっつーの!」 「んふふ、ほんと瑠衣ちゃんって苺が好きだよねぇ。光喜くんはどうする? ほかにも色々あるけど」 「あ、俺もそのシフォンケーキでブレンドコーヒーください」 「はーい、少々お待ちください」  にっこりと笑顔を見せると千湖は小さな足音を立てながらカウンターのほうへ駆け寄った。その内側にはロングヘアーの、女性にしては背が高い印象がある女性がいる。少し涼やかな目元だが、千湖の顔を見ると彼女は綻ぶような笑みを浮かべた。 「あの人は桃香さん。千湖と一緒にこのカフェを作った人よ」 「ふぅん」 「あの二人はパートナーなの」 「パートナー? ああ、仕事の?」 「それもあるけど、人生の、パートナーね」 「え?」  さらりと紡がれた言葉に光喜は思わず瑠衣の顔を見つめた。そしてもう一度、顔を見合わせて笑い合う二人に視線を移す。そこにいるのはごく普通のカフェ店員。仲が良さげで楽しそうに仕事をしている姿は好感が持てる。  言われなければきっと誰もそのことには気づかないだろう。けれど見慣れるくらい見てきた勝利と鶴橋も、きっと言われなければその関係は誰にもわからない。 「別に、物珍しいものじゃないのよ。そういう人たちは心の中で気持ちを共有してる。だから目立たないだけ」 「うん」 「いままで女の子しか目に入らなかったあんたが、って思うとちょっと驚くけど。誰かを好きって思う感情は、いつどんな風に生まれるかなんてわからないもんよ。いま好きな子も女の子じゃないんでしょう?」 「……うん」  いままで聞いたこともない優しい声で問いかけられて、光喜は視線を落としながら頷いた。そんな弟に、姉は恋に間違いなんてないのよと笑った。

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