96 / 112

第13話 結んだ赤い糸

 昔の出来事を思い出す。初めて小津が俊樹に出会った時も振られた瞬間だった。それは中学を卒業する少し前のことだ。男二人の修羅場を見た彼はひどく驚いた顔をしたけれど、文句を連ねていた相手にいくらなんでもそれは酷いだろと笑った。  そしてそのあと偶然にも同じ高校に入った小津を見て、今度はいい恋してるか、とまた笑った。 「縁なんてまたいつか繋がる、そのうちまた好きだって思える人に会えるだろう。いままで僕はそのくらいの暢気な気持ちでいたんだ。でも光喜くんに出会って一目惚れをして、すごく惹かれて、でも君は僕とは違う普通の人だった。だから足踏みをしたまま動けなくなって、手を伸ばす前に結ぶはずの縁を見失ったんだ」 「小津さん」 「ううん、あれは光喜くんが悪いんじゃなくて、あの子を振り払って君を追いかけるという選択ができなかった僕が悪いと思う。僕の意気地がなかったから君の気持ちを無視する結果になった」  ぎゅっと縋るように触れてくる手。これで終わりにしようと思ったあの日、この震える手を持ち上げた光喜の顔を小津はわざとまっすぐに見なかった。そして自分から結びかけた糸を断ち切って背中を向けた。顔を見てしまったら自分勝手に責めて立ててしまいそうで、逃げたのだ。 「失敗したことを、繰り返したくないなら報連相をしっかりすることだな。長く一緒にいたって相手の気持ちがなんでもわかるわけじゃない。伝えなきゃなんにもわかんないんだよ」 「先輩が言うとなんだか説得力があるね」 「だろう? 夫婦円満の秘訣はそれとコミュニケーションだ。お互い愛情をかけることを忘れちゃ駄目だ。まあ、俺の持論だが」  ニヤリと口の端を持ち上げた俊樹は顔を見合わせる二人を見て、黙ってグラスのビールを飲み干す。そしてさりげなくその場から離れて土産物の柿を物色するとそれを器用に剥き始めた。 「光喜くん、僕は君の手を一度離してしまったことをすごく後悔してるんだ。きっと君をひどく傷つけたと思う」 「それは、もういいよって言ったじゃん」 「でも光喜くんの傷は深かったよね。きっとこの先も不安になるくらい」  気遣うように笑みを浮かべた光喜の頬を撫でると、瞳が見る間に涙の膜を張る。とっさにそれを誤魔化そうと視線が泳いで、また感情をこらえようと口を引き結ぶ。その顔を見ているうちに小津は彼の心の内側にあるものに気づいた。  光喜がなにも言わないのは優しくて大らかだからだけではない。結んだ赤い糸が解けないようにするためだ。 「僕は、もう離してあげられないよって言ったよね? 我慢、しなくていいよ」 「俺、誰かに嫌われるのが怖いなんて、思ったの初めてなんだ。ほんとに、俺のこと嫌いにならない?」 「ならないよ。なるわけがない」 「鬱陶しくない? 面倒にならない?」 「そんなこと絶対にあり得ない」  まっすぐ向けられる瞳からまた涙が伝う。今日だけで何度彼を泣かせただろう、そう思うだけでひどく胸が苦しくなる。けれど自分のために涙をこぼす光喜を見ていると、それと同じくらい気分が良くなった。  ひたむきに想いを伝えようとするその心が小津の胸を甘くする。こんなに一生懸命に自分を求めてくれたのは彼だけだ。それに気づいてしまうと、唇が無意識に笑みをかたどる。切なさと嬉しさがない交ぜになって、どんな顔をしたらいいのかわからなくなった。  それでも煌めく宝石みたいな瞳に見つめられて、やんわりと細められると心は愛おしさに満たされる。 「君が傍にいてくれるだけで僕は毎日が楽しくて、幸せだ。光喜くんの声が聞きたくて仕事はすごく捗るし、君の笑顔を見るだけで一日の疲れが吹っ飛ぶくらい」 「小津さんは相変わらず大げさ」 「え? 本当だよ」 「うん、嬉しい」  目尻にたまった涙を拭うと柔らかな笑みが浮かぶ。それはごく自然な笑顔。初めて会った時の彼はいま思い返すと表情を貼り付けたような笑い方で、その奥にある感情があまり読み取れなかった。  それは隙がないほどの完璧な仮面。それがほころび始めたのは、幼馴染みと恋人の距離がどんどんと近づいていった頃だった。繊細な心が軋んでひび割れて、限界なのだというのが感じられた。  だからこそ、小津はその隙間に手を伸ばした。弱さにつけ込んだとも言える。 「光喜くん」 「ん? なに?」 「僕はね、君が思うよりずっと狡い大人なんだ」 「え?」 「君は蜘蛛の巣に引っかかった蝶なのかもしれない」  目を瞬かせて首を傾げる恋人の頬をもう一度優しく撫でて、ゆるりと髪を梳くと自嘲気味な笑みが浮かぶ。けれどそんな小津に光喜はなにかを思いついたのか明るい表情を見せた。 「小津さんといると、蜂蜜の中にいるみたいだよ。トロトロの甘い蜂蜜に沈み込んでしまいたいって思う。そこにいると痛かった胸が和らぐ感じ。小津さんはクマさんで、俺は抱えた蜂蜜に誘われた、蜂? あれ? 蜂は花に寄るんだっけ?」 「随分可愛い蜂だね」  真剣な顔をして悩み始めた光喜に思わず小津は声を上げて笑ってしまう。するとその声に誘われるように彼も笑い声を上げた。そんな二人をなにがそんなに面白いのか、と言ったように俊樹が呆れた顔をする。  けれどそんな視線など気にも留めずに顔を見合わせて囁き合う二人は、次第に増え始めた人の気配など微塵も感じていなかった。空になりかけたグラスに、ご注文は? と聞かれてようやく顔を持ち上げる。 「あ、おすすめをお願いします!」 「んー、それじゃあ」  プレゼントをねだるような子供みたいな瞳で見つめ返されてしばらく唸っていたが、なにかピンとくるものがあったのか俊樹は小さく頷いた。手に取ったのはブランデーとホワイト・キュラソー、レモンジュース。  板に付いたシェイカーを振るう姿を見ていると、冷えたカクテルグラスにそれは注がれる。 「サイドカー、いつも二人で」  すっとテーブルの上を滑らし差し出された二つの琥珀色のカクテル。ぴったりだろう? そう笑った俊樹に光喜は頬を染めてはにかんだ。

ともだちにシェアしよう!