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第3話 小さな日常

 いつも二人だけの夜はベッドにもつれ込んで睦み合うのが常だが、その日ばかりは大人しく布団に潜り込み、翌日の楽しみを語りながら眠りに落ちた。小津が隣にいると光喜はぐっすりと眠れるのだが、今日は特によく眠れた気がする。  目が覚めた時には頭がすっきりとして、大きく伸びをすれば身体が軽くなった。しばらく隣で眠っている恋人の寝顔を眺めて、幸せに浸っているうちに目覚まし時計が鳴る。 「……あ、おはよう。起きてたの?」 「うん、ちょっと前に。おはよー」  少しばかり重たげなまぶたを持ち上げた小津は、瞬きをしてから気配に気づいたのか視線を動かす。その眼差しに口の端を上げて、光喜はゆっくりと近づいてついばむようにキスをした。すると一気に目が覚めたのか彼は目をまん丸くして見開く。  そしてそんな表情に光喜が吹き出すように笑えば、頬を染めて照れくさそうな笑みを浮かべた。 「見て! 天気がいいよ! 絶好のデート日和だね!」  ベッドから抜け出した光喜が遮光カーテンを開くと柔らかな陽射しが射し込んでくる。窓の外を見上げれば澄んだ青空。昨日見た天気予報でも一日暖かく晴れ間が広がると言っていた。  ご機嫌な様子で恋人を振り向けば、小津はやんわりと笑ってベッドを下りると傍までやってくる。そして後ろから光喜を抱きしめて小さな頭に頬を寄せてきた。 「くすぐったいよ。疲れは残ってない?」 「うん、大丈夫だよ。光喜くんと一緒に寝たから元気になった」 「えー、俺にそんな効能はないよ」 「あるよ。僕の元気の素は光喜くんだからね」 「そうなの? 俺の癒やしの素はね、小津さんだよ」 「それは素敵な相乗効果だね」  顔を見合わせて二人で笑い合って自然と距離が近づく。その気配に瞳を閉じれば優しく口づけが落とされる。それはどこか甘くて心が満たされるぬくもりだ。やんわりと唇を食んで離れていった温かさに口元が緩む。  そんな光喜の表情をのぞき見る小津はそっとアッシュブラウンの髪を撫でてくれる。撫で梳くその感触に目を細めれば、小さなリップ音を立てて額に口づけられた。 「さあ、ご飯を食べて出掛ける準備をしよう」 「うん!」  自然と伸ばされた手が繋ぎ合わされて、並んでのんびりと階段を下りていく。そして香ばしいコーヒーの匂いが漂ったダイニングで、いつものように向かい合ってご飯を食べた。  何気ないこの瞬間が幸せだと感じるのは光喜だけではないようで、目の前にある笑顔もひどく柔らかくて優しい。美味しいね――そんなことを言いながら笑い合うとこの上なく胸が温かくなる。 「わりと新しいところなんだね。俺、まだここ行ったことない」 「そうなの? それならちょうど良かった。結構アトラクションは充実しているみたいだよ」 「コースターが二つあるね。小津さんこういうの平気な人?」 「うん、どっちかって言うと好きだよ」 「良かった」  取引先の営業が置いていったというパンフレットを眺めながら出発前になにを目指すかを考える。コースター好きの光喜としてはそれは絶対に外せない。乗り物系はそれ以外にもいくつか、お化け屋敷や体験型アトラクションもある。  それほど大きくないと小津は言っていたが、半日は余裕で潰せそうだ。 「よーし! 目いっぱい遊ぶぞ!」 「楽しみだね」 「うん! じゃあ、そろそろ着替えていこう!」  食器を手早く片付けると二人でそそくさと出掛ける準備をする。目的地までは電車で一時間半ほど。いまから出れば昼前には着くことができるだろう。  準備ができると光喜は飛び出すようにアパートを出た。けれど子供みたいにはしゃいでいると、後ろからぎゅっと手を握られる。それに振り向けば、恋人は少し困った顔で笑みを浮かべた。 「今日は僕、光喜くんとはぐれないようにするのが使命かも」 「あっ、ごめん! つい勝利の時みたいな調子で」 「勝利くんと違って僕、おじさんだから、少しだけペースを落としてもらえたら助かるかなぁ」 「ごめんごめん! 二人でゆっくりしよう! ちょっと浮かれちゃった。小津さんと一日デートなんて最近なかなかできてなかったし」 「うん」  隣に並び立つと小津はやんわりと笑う。その笑みに頬を緩めて光喜はぎゅっと腕に抱きついた。人通りの増える道まで少しのあいだ、いつもこうしてべったりとくっつくのが癖だ。  しかし元より好きな相手に甘えるのが大好きな光喜だからこそだが、人の目を忘れてはならないので時と場所はわきまえている。小津に嫌な思いをさせたくない、それが一番の理由でもある。 「そういえば昨日ね、今年の花見はどうする? って勝利が言ってたよ」 「花見か、もうそんな時期なんだね」 「一年ってあっという間だね」 「ほんとだね。光喜くんに出会ってもう一年が過ぎただなんて、時間が早すぎてびっくりするな」 「でも俺はね、あと一年も早く過ぎないかなって思ってるんだよね」 「そうなの?」 「だって早く小津さんと一緒に暮らしたいし。……小津さんは?」  首を傾げる恋人をちらりと見上げれば、頬が染まってじわじわと赤みが耳にまで広がっていく。そして慌てふためくようにそわそわと首に手をやったり下ろしたり。そんな反応に小さく笑うとますます顔は赤く染まっていった。 「う、うん。僕も早く光喜くんと、暮らしたい、です」 「なんでそこ敬語になっちゃうの? んふ、おかしいっ」 「ご、ごめん。なんかすごく大事なことのような気がして」  肩を震わせて笑う光喜に小津は落ち着かない様子で目を泳がせた。それでもじっと見つめ続けていれば視線はまっすぐと見つめ返してくる。  それは曇りも淀みもない正直者の瞳。初めて会った時から変わらない優しい色をしている。好き――その気持ちを隠すことなく伝えてくれる目が、光喜は愛おしくてたまらない。 「そっか、ありがと。小津さんはほんと優しくていい男だね」 「えっ? そうかな? 光喜くんのほうがよほど優しいと思うよ。懐が深いって言うか、心がまっすぐですごく綺麗だ」 「もう、なに? 急にそんなこと言われると照れちゃうよ」 「本当に、優柔不断ではっきりしない僕なんかを」 「こら、自分のことをなんかとか言わない! 小津さんはいつだって温かくて優しくて素敵な人だよ。だって俺が初めてほんとに好きになった人だからね」 「……あ、うん」  驚いて見開かれた目、それにじわりと水の膜が張ってわずかに潤むのが見えた。慌てたように目をそらす小津の手を強く握って、光喜はそっと肩に頬を寄せる。 「もっと自信持っていいよ。小津さんは世界で一番いい男だからね」 「僕には、君が世界で一番いい男に見えるよ」 「そっか、じゃあ、俺たちは相思相愛だね」 「うん、そうだね。……君に出会えて、本当に良かった」  優しく触れる手が髪を梳く。愛おしい愛おしい、そんな想いがこもっていそうな優しい手。いつだって彼の手は温かくて胸が安らぐ。  その想いの深さを感じるたびに、この人を幸せにするのは自分でありたいと思う。彼の手を離した過去の彼らが羨むほど二人で幸せになるのだと、光喜の野望は大きく膨らんでいく。だからこそこの人をたくさん笑顔にしてあげようとも思う。 「ほらほら、そんなしんみりしないでよ。これから大騒ぎしに行くんだから」 「わっ、光喜くんっ!」  繋いだ手を思いきりよく引っ張って駆け出すと、足をもつれさせながらも追いかけてくる。そして最初は驚いた表情を浮かべていた顔は次第に笑みに変わり、笑い声が小さく響いた。 「いまからそんなにエンジン全開だと、僕は途中でバテちゃうよ」 「とりあえず駅までダーッシュ! 急いで急いで! 駅に着いたらジュース買ったげる」 「え? なに、その子供のお駄賃みたいな」 「りんごとみかん、どっちがいい? 俺はねぇ」 「僕はみかん」 「じゃあ、俺はりんごにする」  どうでもいいようなくだらないこと。それなのに二人だとなんでも楽しく思えてくる。それがどれほど幸せなことなのか、傍にいるのが心地良いと思うほどにひどく実感した。  笑い声が重なるたびに二人の時間が永遠であればいいと思ってしまう。贅沢な願いだろうか――そう思って振り向けば、愛おしい人はいつでも光喜に笑顔をくれた。

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