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雨の恋は賑やかに

 純喫茶「はいどれいんじあ」。舌を噛みそうな名前だ、と梅太郎が呟いたのは二週間前のことだ。  土砂降りの夕立に襲われて、止む無く喫茶店に逃げ込んだあの日、梅太郎の人生の色は変わった。 ーーー 「こんちわっす、涙さん」  梅雨独特の肌に貼り付くような湿気と、今滝のような雨が降る中、今日も「はいどれいんじあ」を訪れた梅太郎は、マスターの(るい)の返事を待たずにカウンター席の中央を陣取った。今にも歌い出しそうにニマニマと口元を緩ませ、梅太郎はカウンターの向こうの涙を見つめる。  対する涙はそのもの言いたげな視線に応えることなく、梅太郎の前にメニュー表を放った。梅太郎は勢いが付きすぎてそのまま落下しそうになった黒張のボードを片手で受け止めると、 「ブレンドコーヒーと本日のケーキ、下さい、涙さん!」  最初の挨拶よりもボリュームを上げて告げる。  涙は、金縁フレームの眼鏡越しの灰色の目を細め、 「うるさい」  と冷え冷えとした声音で返答した。  しかし、梅太郎はその白い頬を薔薇色に染めて、ぐっ、と逞しい両手に拳を作った。涙を見つめる青の双眼には、どろり、とシロップ顔負けの甘い感情が膜を張っている。 「涙さん……カッケェ……抱きてぇ……」 「相変わらずだねえ、『梅っ子』君。毎回毎回、感心しちまうよ」  カウンター左奥の席で新聞を広げていた常連客の声に、梅太郎は待ってましたとばかりに彼の方に向き直った。 「いや、だって白石のオッチャン! オッチャン、二十年来の常連さんっしょ?! アラサーの涙さん知ってるくらいの!」 「まあ、同い年だからねぇ」  のんびり頷く白石に、梅太郎はくぅぅ、と歯切りしながら地団駄を踏んだ。再度、涙からの「うるせえ、出禁にするぞ」の一声が飛んでくるが、梅太郎の歯ぎしりは止まらない。 「う、羨ましいぃっ……! 俺もアラサーの涙さん見たかった……っ! アラサー涙さんの罵りを心行くまで味わいたかったっ……!」 「何にせよ、梅っ子はマスターに罵られたいんだねえ」 「あ、でもでもっ、若い涙さんがいいとか、そういうことじゃないんで! 俺の本命はアラウンド還暦の涙さんなんで! 今の涙さんが俺の一番ですからね!」 「熱いねえ。良かったねえ、マスター、熱心な上に若い常連さんが増えて」  白石の呑気な笑い声に、涙は舌打ちを一つ零す。程なくして奥のコンロから薬缶の忙しない音が響いた。 「ねえ、涙さん」  白石が呑気な笑みを浮かべて「はいどれいんじあ」を去ってから五分後。  白石の飲んでいた白薔薇のあしらわれた藍色のティーカップを涙が洗い終えたタイミングで、ちびちびとブレンドコーヒーを啜っていた梅太郎が声を掛けた。  しかし、涙は返事をせず、物言わぬ置物のように押し黙って、カウンターテーブルを拭き始める。 「いつになったら、俺の恋人になってくれるんですかー?」 「寝言は寝て言え」  視線を合わせることなく告げられた、冷たい一声。  しかし、梅太郎はぱっと破顔して、 「寝言でならいくらでも言ってますよ!! 涙さん、愛してます! 一生大事にするんで俺の人生のパートナーになって下さいって!!」 「うるさい。いちいち怒鳴るな鬱陶しい」 「声のボリュームは生まれつきなんで、さーせん」 「本気で出禁にしてやろうか、お前」  手にしていた白い布巾をきつく握りしめ、涙が梅太郎を睨みつける。  だが、その決して客向けではない睨みも梅太郎には効果がなく、むしろ、ほぅ、と艶めいたため息を吐かせるだけだった。 「涙さん、そんなに熱心に見つめられたら、さすがの俺も照れますよ。もー」 「お前の思考回路は一生理解できん」 「何言われても喜ぶくらいのポジティブシンキングなことは認めますよ。いやー、恋って偉大っすよねー。うんうん」 「知るか」 「え、もしかして、涙さんも初恋ですか? マジ? アラ還にして初恋? 可愛すぎません?」  赤らんだ両頬に手を添えて悶える梅太郎に、涙は深々とため息を吐いて、再びカウンターに向き直った。 「じゃあ、せめて友達からでもいいんで」 「いらん」 「じゃ、じゃーあー、ここのアルバイトしますよ!俺、ちょうどバイト増やそっかなって思ってたところだったん」 「いらん」 「俺、力仕事むっちゃ得意だから、看板の修繕とか買い物とかで戦力になると思うんですけどねー?ほら、二の腕いい感じでしょ?触ります?」 「いらん。元々客の寄り付かん店だ。俺一人で事足りる」 「そんなのもったいないっすよ! ここ、チェーン店のカフェより居心地いいし、値段も良心的だし、メニューも分かりやすいし! 白石のオッチャンみたいに穏やかで気さくな常連さんしかいないし! 何より、涙さんのエプロン姿がめちゃくちゃエロいのが最高なんですから! もっとここの良さを広めましょうよ! 俺、頑張りますから!」  直後、梅太郎の目の前で派手な水音と共に布巾が叩きつけられた。さすがの梅太郎もひっ、と僅かな悲鳴を上げ、固まる。  数秒後、涙が叩きつけた布巾で何事もなかったかのように梅太郎の目の前のテーブルを拭きはじめた。 「あの、涙さん」 「これ以上、喧しい常連はいらん。余計なことをするな」 「けど、お客さんがいないんじゃ、この喫茶店の経営が成り立たないんじゃ」 「ガキが心配することじゃない」  布巾を引っ込めると、カウンター内へと向かう涙。その華奢な左手首を、梅太郎は衝動的に掴んでいた。 「ッ、俺、ガキじゃねーです!」 「ああ?」 「涙さん、俺は本気でアンタのことが好きなんです!今まで言ったことも全部、本気です! 確かに、六十手前の涙さんから見て、まだ二十歳ですらない俺はガキどころか孫レベルかもしんない。 けど! 俺が恋愛対象として見られるのはアンタだけなんだ!」  振り解かれる覚悟だった。  しかし、涙は梅太郎を振り返り、静かに凝視している。掴まれたままの左手首はされるがままで、少しも反応を示さない。 「今すぐ恋人に、なんてワガママは言わない。だけど、今よりももう少し、涙さんに近づきたい。ガキじゃなくて、俺のこと、少しでもいいから、認めて欲しい」  涙の左手首を更に力を込めて握りながら、梅太郎は瞬きを堪えて、彼の答えを待った。 「……ガキだよ、お前は」 「えっ」 「コーヒーの一杯にしかめっ面浮かべてるようじゃ、常連とは呼べん。自惚れるな」 「ええっ?! だ、だって、俺、ここに来るまでまともにコーヒーなんて飲まなかったし、そ、それに、ここに通うようになって、これでも飲めるようになった方なんだけど!」 「そういう所がガキだっつてんだ。いちいちうるさいんだよ」  吐き捨てるように告げると同時に、涙が梅太郎の手を振り払った。  すっかり油断していた梅太郎は再度掴もうとして、しかし、涙から今しがた告げられた台詞をリフレインしてしまい、それ以上腕を伸ばすことができなかった。 「る、涙さぁん……」 「格好をつけるな、ガキ。承認欲求の強いガキをいちいち気にするほど、俺は暇じゃない」  背中を向けた涙は、戸棚に食器を収納し始める。  自分よりも何倍も歳を重ねた涙の背中はまっすぐに伸びて、少しも高齢による弱さは見当たらない。 「それでも……それでも俺は好きです、涙さん」 「……」 「コーヒー、難なく飲めるようになったら、俺のこと、ここの常連って認めてくれますか?」  青い紫陽花の描かれたカップとソーサーを収納すると、涙はゆっくりと振り返った。  ぴん、と背筋を伸ばし、瞬きすらせず待つ梅太郎の耳を、雨音が静かに刺激する。 「俺は、うるせぇのが嫌いだ。特に、こんな心地いい雨の日に、雑音を流されるなんぞ、以ての外だ」 「う」 「俺の言う常連は、そういう雑音を撒き散らさねえ奴だ」  ふい、と再び背中を向けた涙に、梅太郎はそっと背後を振り返る。  開け放たれた窓から聞こえる雨音と、肌に吸い付く湿気。梅雨独特のそれに梅太郎はほぅ、とため息を吐いた。 「雨音なんて気にしたことなかったし、むしろ雨は好きじゃないから早く梅雨終わって欲しいなって思うんですけど」 「そうだろうな」 「けど、涙さんが好きだって言うなら、好きになりたいです。雨の似合う男目指して頑張ります!」  再び涙の方を振り返った梅太郎はやる気に満ちた笑顔を浮かべていた。それに対し、涙は振り返ることなく、ため息を一つこぼす。 「飲み終わったんなら、さっさと行け」 「まだ雨、止まなそうなんで、もう一杯飲んでいきます。ブレンドで!」 「……チッ」  舌打ちと共に、真鍮のやかんに水を入れ始めた涙を見つめながら、梅太郎はにやにやと口元をだらしなく弛緩させた。

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