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三章 呼ぶ声と -伍拾参夜 なげきつつ-

 呼び鈴が鳴る。  ほぼ手放していた意識が戻ってくる。程なく状況を理解して起き上がると、背中と首から右肩にかけていやな痛みが走った。  ベッドではどうしても寝付けなかった。ここ数日寝続けていたが、起き続けることは出来ずに苦肉の策で床にそのまま寝そべった。病み上がりのダルさを手放せないばかりか、生活リズムが狂っている。最後の記憶では中天を過ぎた太陽が照らしていたはずの部屋が真っ暗だ。  机の上でメールの着信を告げる振動に一瞥をくれて、内容はもう何度か見たものだろうと勝手に判断して玄関へ向かう。  内からか外からか判別できない不快な熱。ベタつく肌と、固まって悲鳴を上げる筋肉。加えて寝起き。 「……――!?」  僕はそうとう酷い顔をしていたのだろう。小野は言葉も無く両手を宙に彷徨わせながら、あたふたと顔を青くしてかすかに震え出した。  反応が気に入らなくて視線が下がり、見上げていた顔も首が辛くない所まで下がる。胸元まで降りた視界に、昨日僕の頬に触れた小野の右手が所在なく揺れて、顔を背けた。フラッシュバックしそうになる薄闇を必死で追い払う。 「えと、寝て、た……?だいじょうぶ?」  沈黙に耐えかねるように小野が僕の顔を覗き込んで言った。先ほどまでの困惑が既に心配に取って代わろうとしている。どこまでお人好しなんだ。  深く寝付けなかったからか比較的早く脳が覚醒していくが、何を言えばいいのか考えてもまとまらない。 「…………こんばんは」 「こ、こんばんは。えと……おこって、る?」  無難に挨拶をしたら、若干頬を引きつらせて問われた。そんならしくない顔をさせる程、僕は変な顔をしているのだろうか。元を正せば小野が悪いと思うのは責任転嫁か。  ついこの間まで、あんなに癇に障る笑い方していたのに。何処か諦めたような、余命を生きるような顔をしていたのに。近付くときは、僕が許容できる境界線を間違っても超えないように警戒しているように見えたのに。  急に、友人のスキンシップの域を超えた、僕が小野にとって特別なんだとわかるような触れ方をするから。  小野を拒絶することは無いと思っていたのに、いざ踏み込まれれば驚いてしまって体は固まるし、心は逃げを打つ。昨日まで小野が来ればすぐに中へ招いていたのに、それすら出来ずに玄関先から動けない。 「おこってない」  知りたくなかった現実を受け入れられず、口を出たのは拗ねた子どものような声だった。小野は何も言わなかったが、おこってんじゃんと聞こえてきそうな小さなため息をついた。  怒っているわけじゃない。困っているのだ。一日考えたってどんな顔で出迎えればいいのかわからず、結局取り繕えもしないまま酷い顔でドアを開けた。小野を前にしても、どんな態度でいればいいのか、何を話したらいいのかわからない。  小野のスニーカーの爪先を睨んでいた視界に、ふと何かが過る。目で追った先で、小野の指が僕の長い前髪を耳にかけた。僕の体温よりも高い熱を帯びたそれは、そのままそこに居座って離れる気配がない。  僕は顔を背けていて小野の顔は見えないのに、小野がこちらを見ているのが分かる。動けなくなって、息がし難い。乾いていない寝汗にイヤな汗が混じった。 「昨日の、ヤだった?」  ふいに、傍にあるだけだった手の平が顔を包んで上向かされた。目を見て問われて、視線が外せない。  嫌、だったのだろうか。  こわい、と思ったことは覚えている。あの一瞬、存在を食われるような錯覚に襲われて、頭の中が不安で満たされた。  思い出して余計に固くなった体で見上げた先の小野の目が、驚いたように見開かれた。どうして、と思うより先に、僕の腕は小野の体を押して遠ざけた。僕が僕でなくなるような、染め上げられるような感覚に体が逃げろと警告している。  その、天鵞絨の目で僕を見るな。  たたらを踏んだ小野の足下を再び睨みつけた。不安そうな空気を纏っていた小野が、沈黙の後に札を差し出してくる。  それは、変わらずに僕に向けられる心。僕に見せていなかっただけで、あの天鵞絨色の気持ちは小野の中にずっとあったのだろう。一瞬だけの高揚ではないのだと、手の平の熱が否応なく突きつけて来る。それに応え得る何かを、僕は一つとして持っていない。 「――ぇれ」 「え?」 「帰れ!」  差出された札を腕ごと払った。デリカシーのない男を詰るうたが、僕を小馬鹿にするように舞う。  違う。そんなのじゃない。そんな風に思ってない。  呆けていた小野の目に、普段ならまずしない言動をとった僕に対する困惑と疑問が滲んでいた。見ていられないくて床を睨みつけ、ぐいぐいと外へ追いやる。 「ちょっと待って、そんなイヤだった!?」 「っ!」  腕力には純然たる差があった。追い出そうと伸ばした腕は簡単に掴まれて、両腕が拘束される。  悔しいのか、悲しいのか、それすらも判然としない。ままならない感情に、抵抗すらまともにできない体にもどかしさと苛立ちを抑えられない。  逃れたい一心で、僕は記憶にある限り生涯で初めて、頭突きという暴力を振るった。

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