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三章 呼ぶ声と -陸拾肆夜 あさぼらけ-
「おかえり、将宗」
「…………」
「こんにちは」
「プールだあ……」
電車を乗り継ぎ訪れた小野邸で僕たち三人を待っていたのは、手入れの行き届いた小さな庭で家庭用プールにホースで水を入れている壮年の男性だった。動かなくなった小野の半歩後ろから挨拶をすると、男性は水を止めてから入り口まで迎えに来てくれる。
「なにしてんの、父さん」
「棒を探してたら出てきた。スイカを冷やすのに使えると思ってな。氷も用意してある」
ようやく口を開いた小野が見上げて問うと、小野の父は真顔で答えた。小野が見上げる程の長身にはなかなか会えるものではなく、つい珍しげに眺めてしまった。
ふと目が合うと、そこは澄んだ青だった。まっすぐな髪は少々白髪が見え始めているが綺麗な黒で、青い目は異彩を放っている。しかしそれが全体のバランスを欠くことはなく、凪いだ海のように深く落ち着いて見えた。
「いらっしゃい。将宗の父です。愚息がお世話になっているようで……どうぞくつろいでいってください」
「あ、いえ、こちらこそ。急におしかけてしまってすみません、草町といいます。弟共々お世話になります。実、ご挨拶」
頭上のやりとりを僕の後ろで口を半開きにして見ていた実が、名前を呼ばれてビクッと我に返る。両手で持ったコンビニの袋を掲げて胸いっぱいに息を吸う。
「はじめまして!草町みのるです!今日はおまねきありがとうございます!これ、つまらないものですが!」
移動中に練習した文言を緊張した声ながら噛まずに言い終えた実を見届けて視線をおじさんへ移すと、驚きに少し見開かれた目が昨日の小野と良く似ていた。年齢とは関係なく落ち着いた印象で、ぱっと見の物腰は小野とは少し違って見えたがやはり親子だ。
おじさんはすっと膝を折って視線を合わせ、実から菓子の入った袋を受け取るとごくごく真面目に声をかけた。
「ご丁寧にありがとうございます。将宗が小さい頃着ていた浴衣があるのですが、着替えて花火もいかがですか?」
「はなび!」
「母さーん!父さんが暴走してんだけど何コレどしたの!?」
おじさんの発言に小野が慌てて玄関へ走り、中へ向かって叫んだ。奥から細く応えがある。
花火の一言で実の心を掴んだおじさんは真面目な顔のまま実との会話を楽しんでいる、と思う。表情からはほとんど感情が窺えず、声は抑揚に乏しい。が、堅苦しさや冷たい感じのしない、不思議な人だ。
「あら、かわいい子がいるわ」
女性の声に顔を上げると、玄関先、小野の隣で木刀を持った女性が僕を見ていた。ダークブラウンの髪は肩に付かない長さで緩くカーブしていて、小柄な体躯にシンプルなクリーム色のエプロンが似合っていた。髪と同じ色の目が小野とそっくりに微笑む。家庭的な母親然としたその人に年季の入った木刀はとても不釣り合いだ。
「こんにちは。おじゃまして、ま」
「髪も目もまっ黒ね。短いけどふわっふわだわ。羨ましいわ」
「え、あの」
「あなたが草町くん?会えて嬉しいわ。ね?ちょっとだけ、触ってみてもいいかしら」
「母さんストップストップ!木刀持って迫るとか通報もんだから!あとおさわり禁止です!」
木刀を抱きしめたままキラキラと目を輝かせながら近寄ってきたおばさんに、頭一つ分下から見上げられて面食らった。語調は落ち着いているが、僕の髪に興味津々なようでうずうずと手を伸ばしては小野に阻止される。
「!……実?」
目の前の攻防に気を取られていると、実が僕の後ろから腰に抱きついておばさんと木刀を見比べている。うん、気になるよな。
「あらあら、かわいい子がもう一人」
すとんとしゃがんで軽く見上げられ、実がぎゅっと僕の服を握り込む。おばさんは一際優しく微笑んだ。木刀を持ったまま。
「いらっしゃいませ、かわいいお客様」
「あ、う……おじゃま、します」
「弟くんもまっ黒なのね。素敵ね、黒髪兄弟……」
笑顔に安心したのか、ぎこちなくも実は挨拶を返すが、うっとりとした呟きに再び体を固くする。悪寒が走ったのはきっと気のせいだ。
「ごめん……母さん、黒髪大好きなんだ」
「やあね、将宗だって好きでしょう?それに、かわいいものはみんな好きよ。あ、コレでスイカ割りしましょうね。お義父様が昔江ノ島で買ったんですって。許可はもらってあるから。ふふふ。お義父様ったらそれは悔しがっておられたのよ。思いっきり楽しみましょうね」
おばさんはおじいさんの私物らしい年代物の木刀を小野へ渡すと、代わりに両手でスイカを攫っていった。
「さ、プールで冷やしてる間にお昼にしましょう。二人とも、オムライスは好き?」
想定外のキャラクターの持ち主だった小野の両親との、驚きと発見のあった初対面の後にいただいたオムライスはとても美味しかった。実がおかわりしようとしたのを、スイカもあるからと小野と二人掛かりで止めたのを、小野夫婦は微笑ましそうに眺めていた。
少々の食休みの後、メインイベントであるスイカ割りをした。実は二度空振り、三度目に命中させたが割るには至らなかった。そもそも木刀が重くて振りかぶるのでやっとだったから仕方ない。
結局、おじさんの一撃でスイカは砕け、実が喝采し小野は軽く呆れたように笑った。小さな欠片を皿に集め、大きな塊はおばさんが食べ易い大きさに切ってくれた。三人分くらいの塊があったので、我が家へお土産として実が持って帰ることになった。
スイカを食べ終えると、冷やすために用意されたプールは折角だからと本来の用途で使われることとなった。着替えがないので足を付ける程度だったが、実も小野も楽しそうだった。
日本マニアだというおじいさんの、今では珍しい昔ながらの玩具や、小野の小さい頃の写真(本人は大変な抵抗をしたが、おじさんに取り押さえられていた)を見せてもらっている間に日は暮れ始め、夕飯までごちそうになった。
ホットプレートいっぱいに並んだ手作り餃子には兄弟そろってぽかんと口を開けた。我が家で全員がそろっていたとしても、あの量の餃子が並ぶことはまずない。実はこれでもかと頬張り、僕より余程多く食べた。
僕は最初の一口で舌を火傷し、冷ましながら小皿に取り分けられた分を懸命に消化した。食べても食べてもおばさんがひょいひょいと追加してくるので、椀子そばならぬ椀子餃子をしている気分だった。
食後、重い腹を抱えてぐったりした僕をおいて花火が始まった。小野夫婦は子ども三人に浴衣を着せたがったが、着たが最後そのまま持って帰ることになりそうだったので丁重に辞退した。
音の出ない手持ち花火ばかりだが、実は楽しそうに目を輝かせ、騒ぎ過ぎないように時折自分で口を押さえている。
「疲れた?」
小さな縁側を独り占めしていた僕の傍へ、小野が線香花火と蝋燭を持って来た。礼を言って受け取り、一本に火をつける。小さな火の玉がパチパチとはじける様を眺めながら、ぽつぽつと話す。
「スイカ割りもプールも椀子餃子も手持ち花火も、うちではやらないから貴重な体験だった。実も楽しんでるし、招いてもらえて良かった。ありがとう」
「あのくらいの子って接点ないから、ウチの親もすげー楽しんでるよ。あんなに子ども好きで、ここぞとばかりにはしゃぎ倒すとは思わなかったけど……こっちこそ、来てくれてありがと」
線香花火に照らされていた笑顔が「あ、落ちた」という声と共に暗くなる。明るい方へ視線を投げれば、実の傍で小野夫婦が微笑んでいる。
「似てないでしょ。オレ見た目も中身もじーちゃん似らしいから。母さんなんかオレが身長抜かした時『将宗は私にちっとも似ないまま育ち過ぎだわ。親子ですって言っても誰も信じてくれないの』ってうるさいくらいだった」
僕の視線の先を見て何を思ったのか、小野が眉尻を下げて笑う。口調を真似て冗談めかしているけれど、似ていないと言われ続けたことを少なからず寂しく思ってきたのかもしれない。
「……ぱっと見は、似てないなって思ったけど」
「けど?」
言葉尻を不思議に思ったのか、続きを催促される。口に出していなくても、気になると伝わってくる目力は母譲りだろう。外見的な共通点は少ないが、言動や仕草は似ている所をいくつも見つけた。
「おじさんの驚いた顔は小野っぽいなって思ったし、小野の笑い方はおばさんそっくりだよ。この人たちが小野を育てたんだなって何度も思った。おじさんはもの静かだけど、とても明るくて睦まじい家族だ」
素直な感想を並べてみたが、反応はなかった。不思議に思って小野を見れば、抱えた膝に顔を埋めている。背後にあるカーテンから漏れる部屋の灯りと実たちの花火、蝋燭の炎だけでは光源が足りず確信は持てないが、ちらりと見える耳と首が赤いような気がする。
「小野?」
「……ありがとう」
心配になって名前を呼べば、小さく、小さく礼を言われた。見せられない程に赤くなるくらい、喜んでくれることを言えたのだろうか。そう思ったら、少し嬉しかった。
「うん」
表面上は素知らぬふりで、新しい線香花火に火を点けた。
弾けては消える、けれど心に焼き付くような橙の火花は綺麗で暖かくて、僕の中の小さな喜びに似ている。
今、小野の顔を上げられなくしている感情も、似た色をしている気がした。
「おかえり」
「……帰ってなかったのか」
「草町だって、実家泊まっても良かったのに戻ってきてるじゃん。今日の分まだ渡してないし、受け取りに来てくれたんじゃないの?」
実を実家に送った帰り道。最寄り駅を出ると歩道の柵に小野が腰掛けていた。駅での出待ちは珍しい。お互い様だろ、と笑う小野と連れ立って歩く。
「アパートで待ってるかと思った」
「それでもよかったんだけどね」
東京の黒い空を見上げる小野の顔は、僕からは窺えない。待っていてもその続きが紡がれることはなく、静かな住宅街に虫の音が響いた。
正面から車のヘッドライトが近付いてくる。眩しさに目を眇めてすれ違った時、親指に小野の小指と薬指が緩く絡んだ。
「疲れたろ?家着くまででいいから、もうちょっと付き合って」
ほんの数秒だった。車の排気音が聞こえなくなる頃には解かれたその場所を勢い良く血が巡るのを知覚しても、視認できない。視界に入れてしまったら思いも寄らない醜態を曝しそうな気がして、うかつに視線を動かせなくなった。
側溝の蓋を睨むように歩いていたら危うく電柱にぶつかりそうになった。俯いたまま歩くのは危険だが、顔を上げているとどうしても小野が視界に入る。足下ならまだしも、今顔や手を見たくない。
どうしたものかと困っていたら、隣からくすくすと抑えたような笑い声がする。うっかり顔を上げれば、小野が楽しげに笑っている。しまった、やっぱり見るんじゃなかった。意味も無く恥ずかしいとか、悔しいとか、少しだけ嬉しいとか、候補には上がるけれど正解ではない気がする感情が渦巻いて熱を持とうとするのを必死で抑え込む。
「草町が百面相してる。珍しいもん見た」
誰のせいだ、と思っても声にはならず、口がへの字に曲がった。
「髪短いと顔がよく見えるね」
そう言って笑う顔を、小野は正面から僕に見られても平気でいられるだろうか。長い前髪越し、半歩後ろからでも分かるくらいに緩んでいる。自覚がないのかもしれない。鋏を持っていなくてよかった。持っていたら、バッサリと。
「……無理か」
小野の長い前髪は彼の薄い色の目を守っている。日常生活に極端に障りが出る程でなかったとしても、体調面で影響が皆無とは言えない。
「何が?」
軽く振り返って不思議そうな顔をする小野の髪が夜風に揺れる。栗色のそれを綺麗だと思うから、切ってしまうのは勿体ない。
と、思うまま口に出したらどんな反応が返ってくるだろう。好奇心のまま口を開く直前、イヤな予感がして何でもないと首を振った。下手に想定外の言動をされてこちらが反応に窮すような二次被害はゴメンだ。
「草町の親って、どんな人?」
途切れた会話を小野が前を向いたまま再び繋いだ。そういえば、というような軽いノリで聞かれて、家族四人を並べてそっくりねと言った人が数時間後に似てないわねと訂正したのを思い出す。
「僕の髪をまっすぐ伸ばしたら、十中八九母に間違われると思う。父は実と……有川さんを足して二で割った感じ、かな」
「マジか……まさかの名前出て来てスゲー反応に困る」
ふと思いついただけの無理がある説明だが、思い返せば有川さんと父には共通点がないわけではない。人の無自覚な面まで見通していそうな顔はそっくりだ。
思い出して少し背筋が寒くなった。憎からず思っていても、苦手なものは仕方ない。
「今度、連れて来いって言われてるから……都合がつく時に来てくれると助かる。実も喜ぶ」
「え、行っていいの?実家?」
立ち止まってまで確認してくる小野を追い越してしまう。立ち止まって振り返ると、キョトンとポカンの中間のような、要は間抜けな顔で僕を見ていた。
「友達を家に招くとか、したことがないから変にもてなされるかもしれないけど」
「……いいの?」
小野がまっすぐ僕の目を見て問うた。
両親と小野の邂逅がどういう意味を持つのか、その結果何かが変わってしまう可能性を考えて答えを渋ったのは記憶に新しい。けれど、僕は小野の両親に会えて良かったと思う。実は小野と仲良くなれた。
「僕たちの現状全部は、まだ言えないけど……僕は今日、嬉しかったから。小野も僕の家族に会ってそう思ってくれたらいいと思う」
僕たちは街灯の明かりがギリギリ届かない所で立ち止まっていて、小野の表情は逆光になってほとんど判別できない。けれど、小野が纏う空気は確かに驚きを伝えてきた。息を飲んで、こちらをただじっと見ている。
三十秒経ったか一分経ったか、もしかしたらもっと短かったかもしれない沈黙の後、小野が黙ったまま歩み寄って来る。意図が分からずその行動を眺めていると、両腕を捕らえられた。真正面から顔を覗き込まれ、小野の白い顔が暗がりに浮かぶ。少ない光を集めるヘーゼルの瞳から目が離せなくなる。
「『まだ』?」
特に意識した発言ではなかったから、何を指しているのか分からなかった。自分の発言を思い返す。気付いてしまえば、身体中を血液が走り始めてしまう。無意識とは恐ろしい。
いつの間にか、小野をただの友人ではない存在として両親に紹介する未来をあり得るものとして考えていた。一週間前には思いもしなかった。きっかけも思い当たらない。
ただ、自然とそんないつかを疑問も違和感もなく受け入れていた。
「あのさ……ちょっとは、絆されてくれてる?」
とっさに答えられずに小野をただ見返すと、みるみる驚きに彩られていった。
驚いた顔のまま固まっている小野を見ていたら、僕の中の驚きはしぼんでいって冷静にものを考えられるようになる。お化け屋敷やホラー映画で自身より怖がっている人がいると落ち着いて周りを見られるような心境だ。
考えられるようになっても、それは答えが出ることとイコールではなかった。結局は堂々巡りを繰り返す。小野が好きか嫌いかと問われれば、好きだと答える。それが恋愛感情かと問われたら。
「どうだろう?」
「即答で否定されない上に疑問系か……がんばろ」
なんとも中途半端な答えに気分を害すかとも思ったけれど、小野は新たに小さな覚悟を決めた顔で僕から離した手で拳を握った。拳から視線を上げると、背後からやわく街灯に照らされた小野が笑う。暗い夜道でも、その顔を見ると意識の底に自覚もないほどうっすらと沈殿していた不安が消えていく。
「すきだよ」
ドクンと跳ねた心臓が少しずつ落ち着いていく間に、小野が再び歩き出す。一歩遅れて後に続くと、細長い指と硬い手のひらに右手をさらわれた。
小野と札越しに手をつないでいる。昨日、実と手をつないで歩いた時とは違う、そわそわした変な感じだ。嫌だとは思わないけれど、少し落ち着かない。
僕の手をひく小野はまっすぐ前を向いて歩を進める。ゆっくり、確実に進む。街灯の下、部分的に明るくなった世界で笑っているのが一瞬見えた。
小野に対してかわいい、と思ったのは初めてかもしれない。緩んだ頬、細められた目元、揺れる栗毛、握った熱い手のひら。一つ一つを知っているはずなのに、どこか違うような気もして見いってしまう。
「恋とか愛とかは分からないけど……前よりも、小野をすきだと思う」
形のいい後頭部に、聞こえるギリギリの声量で呟いた。言おうと思って言ったというよりは、零れるような感情だった。
アパートの明かりが見え始めた頃、変わらない歩調と視線で歩いていた小野が繋いでいた手にぎゅうぎゅうと力を込めてきた。薄闇で目を凝らすと、小野の耳も首も普段より気持ち色が濃い。明るいところで正面から見たら、見事に赤くなっているのだろう。
「外で、そーゆー、破壊力ある、こと、言うのは……反則だと思いマス……!」
絞り出すような声は苦しそうだ。両手が空いていたら、顔を隠してしまっていたかもしれない。
アパートに着いて立ち止まる。駐輪場に向かう気配はなく、かといって手が離れることもなかった。不思議に思って顔を上げると、街灯の下で小野がよく見えた。
「りんごみたいだな」
「カンベンして!おやすみ!!」
叫ぶなり駐輪場へ駆け、スクーターに飛び乗って去っていった小野を見送りながら、家に帰る頃には顔色が落ち着くといいなと小声で呟いた。
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