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三空間目⑥

「ッ、か…はっ!?」 背中から叩き付けるように押し倒されたものだから、一瞬だけ息が止まった。 息苦しさから目元に貯まる涙。ゲホゲホと咳を繰り返しながら俺の肩を押さえている神田さんの顔を見て……。 ………違う意味で俺の息は止まった。 「……」 何て顔をしているんだこの人は。俺を目で殺す気か。俺を失禁させる気か。 人を殺しそうな…いや、人一人は殺したような目をしているしているぞ。 目が血走っているというべきか、異様に熱のこもった目をしている。 背中から叩き付けられた文句の一つや二つくらい言いたかったのだが、こんな顔をしている人にそんなことを言えるわけがない。火に油を注ぐ結果となることは目に見えて分かるからな。 「神田さん、…い、痛いです…」 とりあえず俺の上から退いて欲しい。切実に。 このままでは本当に失禁仕兼ねない。というか肩が握り潰されそう。 「あ、あの…?」 「………」 何でもいいからとりあえず喋ってよ。無言で見下ろされると恐いんだよまじで。 いつもの暴言でも構わないし、なんなら生意気な口を叩いた俺に暴力を振るってもいい。このままよりは全然マシだ。 それほど神田さんからの無言の圧力は辛いのだ。 「っ、ど、退けよ」 今度は少し強めに言ってみる。情けないことに語尾の方は小さく掠れた声になってしまったが致し方がないだろう。顔が整っていて、体格も良くて、金も権力も持ち合わせた相手に俺のような一般人以下の家畜がここまでの態度を取れたこと自体がすごいと思う。それに加えて、この凶悪者のような表情だ。 きっと一部では勇者と呼ばれてもおかしくないだろう。…決して讃えられることはない勇者だけど。 でも、だけど。神田さんは俺のこの発言に存分に腹を立てればいいよ。そして思うままに殴ってくればいい。だから何かしらの行動を取ってくれ。いや、取ってください。お願いします。 そして俺の作戦通りに神田さんは行動を起こした。 どんどん近付いてくる神田さんの整った顔。頭突きか?そんな打撃なぞ慣れている。 ふふっ、計画通り。と内心嘲笑っていたら、俺は次の瞬間、神田さんの有り得ない行動に悲鳴を上げて白目を向くことになった。 「ひ、ぎゃっ…!?」 その理由。 首を噛まれた。文字通りガブリと。おもいっきり。 「い、だ…っ、ッぁ!?」 痛い…っ、すごく痛い! 一般体型の人より遥かに無駄に柔らかく無駄に有り余っているだろう俺の首周りの脂肪。そこに無残にも思い切り歯が立てられている。首を動かしたり、上半身を動かせば逃げられるのかもしれないが、少しでも動けば、このまま皮膚諸共肉すら噛み千切られそうで動こうにも動けない。 「ぁ、ひ、ぐ…ッ、ぅ」 何これ、何これ、何これ…っ! 何でこんな目に遭っているんだ俺は。人に食われる程の生意気な口を叩いてしまっただろうか。否、そんなことは絶対に無いはずだ。 この人が、…神田さんがおかしいんだ。こんなの絶対普通じゃないよっ。 「止め…て、…っ、かんだ、さん…っ」 恐怖で震える手で、上に跨っている神田さんの胸元を軽く叩いて止めるように説得してみるものの。全く聞く耳を持ってくれない。 というより、俺の声は神田さんの耳に届いているのだろうか。 「も…、やだ…ぁ」 この人を止める術が分からない。 監視カメラの向こう側の人達に恥を忍んで頼みます。お願いします、助けてください…っ。だがそんな心の中の懇願が叶うわけもなく、神田さんの行動は更に度が増してきた。 ガブガブと散々噛まれ続けた俺の皮膚はとうとう限界を迎えたようで、嫌な音を立てて神田さんの歯によって破かれた。痛みももちろんだが、耳元で聞こえてきた皮膚を貫かれたその音が余計に怖く感じた。 「…はっ、」 そして更に神田さんの低くて熱い吐息のような唸り声。 結論から言うに。俺はあまりの恐怖から涙腺が崩壊したのだった。 「う、え…ひ、ぃっ、ぐ、」 この恐怖体験に泣かずに耐えられる者が居るのならば見てみたいものだ。そいつこそが真の勇者だろう。 ああ、遂には溢れ出した血を啜られる音が聞こえてきた。気のせいだったら嬉しいのだが、非情にもこれは気のせいでも夢でもないらしい。…怖いよぉ、ちょっと漏らしてしまったような気がするのだが、これは気のせいだと思いたい。 いくら俺が太っていようと人間だ。豚様や牛様には味は完全に劣っているだろう。それに俺のは脂身ばかりだから絶対美味しくないよ。絶対身体に悪いよ。だから止めてください。そう神田さんに伝えられればいいけれど、口を開ければ、嗚咽と悲鳴が邪魔して声にならない。 頭はこんなにもグルグルと回転しているというのに。 「、っ…ん、ッ、ひぇっ」 そして神田さんは一頻り満足したのか、最後に溢れ出た血を啜り、チュッとやっていることとは真逆の可愛らしい音を立てて俺の首元から口を離した。 …お、終わった? もう開放される? 「、ひぁ、っ!?」 だがそれは甘い考えだった。 最後に血の出た箇所を大きな舌でべロリと舐めたかと思うと、今度は俺の着ている服を捲し上げて、脇腹に甘噛みを繰り返してきたのだ。 …嗚呼。 今度はバラ肉が食われるようです。 今先程噛まれた首元と同じように、脇腹も歯を立てられて血が出るまで噛まれるのだろう。痛みはもちろんのこと、皮膚が裂けるあの感覚が嫌だ。…いや、そんなことが好きな人なんて特殊な性癖の持ち主である極僅かな人だけだろうけれど、俺はそんなアブノーマルな性癖を持ち合わせていないから、あの感覚を思い出すだけで物凄く怖い。 「ッ、!?ん、は…ふ、」 だがその時はいくら身構えても訪れなかった。 その代わりに訪れたのは…。 擽ったさと。 ……そして、ほんの少しの気持ち良さ。 「ん、ぅ…!?」 …って、いやいやいや。気持ち良さって何だよ。そんなこと天地がひっくり返っても思っちゃいけないだろ。だ、だって俺は噛まれてるんだよ。そんなことを少しでも思ってしまったら俺も一部の特殊な性癖な持ち主の人達の仲間入りになってしまうだろうが。 ……でも、だけど。 ヘソの辺りを尖らせた舌で舐められると思わず腰が跳ねてしまう。 「ひゃ、…は、ぁはは、ふふっ」 手の平の甲で口元を押さえながら与えられる刺激に耐えるものの、だけど手で口を押さえたからと言って、声は漏れてしまう。 だって仕様がないだろ。ヘソの周りを舐められながら脇腹を撫でられたら。擽ったさと、何とも例えようのない淡い気持ちよさに思わず笑みが溢れてしまうものだ。 「ん、ふ…は、ふ」 すると気色悪い声を上げながら笑う俺に嫌気が差したのか呆れたのか。神田さんは、俺の腹に埋めていた顔を上げて睨み付けてきた。 「……てめえな。色気がねえんだよ」 「だってそんなもの俺には必要ありませんから」 「チッ」 もしかしなくても、神田さんは人の泣き顔が好きなのだろう。泣き止むどころか、逆に笑い出した俺に嫌がらせをする気力すら失せたようだ。それは俺にとっては有難い限りである。 「だいたい、何でこんなことするんですか?」 先程までの神田さんの不可思議な行動に眉を顰めながら訊ねれば、神田さんは楽しそうにニヤリと笑った。 「なぜだと思う?」 質問を質問で返さないでください、と言ってやりたい。だがそれを言ってしまえばまた血が出るまで噛まれそうだから俺は押し黙る。 「…ただの嫌がらせ?」 自分から質問をしておきながら今更だが。これ以外の答えはあるのだろうか。 もっと酷いことを言われたらどうしようと思いながら、神田さんを見上げる。 「さあな」 だが返って来たのはたった三文字の言葉だった。 あ、はい。左様で御座いますか。答える気がないだけなのか、そもそも初めから答えがないのかは知らないけれど、教えてくれないなら勿体振るなよな。 俺は乱れた服装を直しながら立ち上がろうと、床に手を付いて力を入れる。 だがそれを許さんとばかりに、またもや神田さんは俺の肩を押さえ付けてきた。 「…この行動の意味は?」 口先を尖らせて、ジロリと睨み上げながら訊ねれば、再び「さあな」とだけ返って来て、俺は大袈裟な程の深い溜息を吐きながら、何もかも諦めるように目を閉じた。 ……いっそ、このまま静かな眠りに就きたい。

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