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第1話

部屋番号710。エレベーターで7階まで上がり、通路を曲がった行き止まり。 閉ざされたドアの前に立ち、俺は左手で前髪を掻き上げた。 それから右手の紙袋を確かめる。 そこには未開封のローション1本と、洗いたてのバスタオルが2枚入っている。 何も問題ない。 俺はゆっくりと、そして控えめに、ドアを叩いた。 「先輩、俺です」 中まで声が届いたのかは分からない。壁は厚いし、簡単には届かないはずだ。 けれども数秒待ったところで、内側から無造作にドアが開かれた。 「サンキュー、早かったな」 濡れ髪の先輩が俺を一瞥し、口元から八重歯を覗かせる。 スリッパにバスローブ1枚の格好だ。 立て続けの“仕事”で、だいぶ疲れているんだろう。乱れたバスローブの裾に、気だるげな気配が漂っている。 それでもこの人はきれいだった。 すぐに紙袋を渡し立ち去ればいいものを、俺はそれができずに、ただ先輩を見つめる。 「そんな目で見るなよ」 先輩が笑って、俺の手首を引き寄せた。 そのまま部屋の中へ引き込まれ、壁に背中がぶつかる。 俺の顔の両脇に、先輩がひじを突いた。 (あっ) 間髪入れずに唇を奪われる。 冷たい舌が侵入してきて、口の中の温度と唾液を奪った。 「せん、ぱい……客は……」 「今、シャワー浴びてる」 一旦離れた唇が、角度を変えてまた交わる。 客がいるのに、こんな場所でキスするなんて大胆だ。 俺は冷や汗を掻きながら、耳だけでシャワールームの気配を探った。 俺の憧れているこの人は、店でナンバーワンの男娼だ。 その美貌を武器に、恐ろしい値段で体を売って荒稼ぎしている。 俺なんかが手を触れられる相手じゃない。 それと同時に、俺なんかが拒否できる相手でもなかった。 それで俺は、されるがままにキスを受ける。 先輩の片手が胸元から下へ滑っていき、ジャケットのすそを捲ってベルトの前に引っかかった。 「お前、今日予約は?」 「このあと2件」 「じゃあ3件目は俺だな」 「……っ……」 「ご予約ありがとうございます、とか言わないのか」 耳元でからかうように囁かれる。 「ありがとう……ございます……」 「うん、いい返事」 今日はローションが足りなくなるほど客を取って、その上俺を買おうだなんて、この人は正気なんだろうか。 一刻も早く帰って寝た方がいいに違いない。 頭ではそう思うものの、もちろん俺に拒否権はなく……。 そのうえ俺自身の体も、もっとこの人に触れられたがっていた。 やたらキスが上手いし、ベルトに引っかかった片手も思わせぶりで、本当に困る。 「そんな顔するなよ」 「えっ……?」 俺はどんな顔をしていたんだろう。もの欲しそうな顔をしていたに違いない。 微かに聞こえていたシャワーの音が止み、先輩は紙袋だけ取って俺を部屋の外へと押し出した。 「お前は別腹、デザートみたいなもんだから」 ドアの閉まる直前に、そんなことを言って微笑まれる。 その笑顔はとろけるように甘くて……。 俺はしばらく、710と記されたそのドアの前から動けなかった――。

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