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鹿足り得るか

 二十一歳の誕生日、僕は首を吊って死んだ。有名すぎて安アパート並の家賃で貸し出されている高層マンションの最上階の一室で、特に遺書も無く死んだ。理由もなく死んだというより、生きている理由がないから死んでしまった。いや、それは正確ではない。  僕は、『生きている理由をこれっぽっちも持てない人間である』と周囲にバレるのが嫌で、嫌で嫌で仕方が無くて、バレるより先に死んでしまおうと考えた。  だから『死ぬ理由』を作るために事故物件を借りた。『これまで何人も死んでいる事故物件に住んだ結果』ならば、僕という人間が死ぬ理由には充分だと思ったので。  そういう訳で僕は一人の部屋で椅子を蹴った。万事が上手くいった筈だったが、何故か僕の視界には呆れた顔をした男が一人、立っていた。 「お前、サイアクなことしてくれたな」  僕と同じく半分ほど透けた男は、モミジと名乗った。モミジは自分が地縛霊であることを告げると、目を白黒させる僕に「此処は元々俺の家だった、そんで今も俺の家だ」と宣言し、ふわふわと浮かぶ僕を追い出そうと四苦八苦し、一時間かけても少しも家から出られない僕に、心の底から嫌そうに目を細めた。 「百歩譲って死ぬのはいい。人んちで勝手に地縛霊になるなアホ」 「……別になりたくてなった訳じゃありません」 「でも死にたくて死んだんだろ? 原因はお前にあるんだから、生じた結果の責任もお前が取れ」  モミジは心底げんなりした顔で僕に雑用を言いつけた。成仏するまで居候なんだから、家賃代わりに働け、とのことだった。断っても良かったのだが、死んで尚理由もなくその辺を漂っているのは我慢ならなかったので、此処をふわふわ浮いている理由をつける為だけに了承した。  これじゃあ生きている頃となんら変わりないじゃないか。溜息を吐く僕に、モミジはぶっきら棒に「茶」と告げた。    このマンションの一室に居座る地縛霊であり、此処が事故物件たる原因であるモミジは、どうやらとんでもない類いの悪霊のようだった。  僕が死んでから何度か祈祷師だの霊媒師だのが来たのだが、モミジは毎度げらげら笑いながら、ごく簡単そうに彼らを追い返していた。何故かやってくる霊能者の髪の毛を執拗に毟るので、僕は三回目辺りでモミジの暴挙を止めるようになった。だってあまりにも酷すぎる。 「ふさふさの人に何か恨みでもあるんですか」 「あーいう輩は根性だけはあるから並の事じゃ怯まない。でも髪の毛抜かれた奴は大抵二度と来ないから、髪の毛抜くことにした。それだけ」  どうやらこの部屋の住人は僕が最後だったらしい、とモミジと共に暮らし始めて十年が経った頃に気づいた。あれから、この部屋に入居者が来たことはない。 「そういやお前いつまで居んだよ、さっさと成仏しろ」 「やろうとして出来るもんじゃないでしょうよ」 「何か余程の未練でもあんのか?」  十年経ってようやくその話になるのか、と若干面食らってしまったが、そのまま流してざっと事情を話せる程度には付き合いも長くなっていた。  生きている理由が持てなくて、とざっくり説明した僕に、モミジはパンケーキを囓りながら少しも興味が無い顔で「へー」と相槌を打った。  幽霊の生活、というのは実際さほど人間と変わりはない。朝起きて、ご飯を食べて、僕らは部屋から出られないので部屋の中で出来ることをして、お昼ご飯を食べて、たまに霊媒師を追い返して、夜ご飯を食べて寝る。死んでいる、という事実を除けば殆ど生きているようなものだった。 「モミジはどうなんですか」 「何が?」 「成仏です。しないんですか?」 「やだよ、楽しいもん。お前もまあまあ役に立つしな」  モミジは、どこから取り出したのかメープルシロップをボトルの半分も消費してかけまくっている。幽霊は健康について考えなくていいから楽でいいな、と思った。  残ったシロップを直飲みし始めた馬鹿を眺めながら溜息を吐く。モミジが生きていたら食生活の改善が大変だったに違いない。 「にしてもお前、随分つまんねー理由で死んだんだな」 「そりゃ、モミジに比べたら大抵の人はつまんない理由でしょう」  十七年前、モミジはこの部屋で交際関係にあった男女五人に滅多刺しにされて死んでいる。部屋の真ん中で、彼の頭だけが不気味なほど綺麗な状態で置いてあったらしい、というのは有名な話だ。  呆れる僕に、モミジはどこかぼんやりした顔つきで「そうじゃなくて、」と口を開く。 「生きてる理由も持てないようなやつが、理由もなく死んでられるとは思わねえんだけどな」  心底不思議そうに呟いたモミジは、それでも僕の事情なんかどうでもいいのか、瞬きの間に話題を明日のおやつに変えた。  一体どうしてこの男が五人の男女に四十六箇所も刺される程に想われていたのか、僕にはさっぱり理解が出来ない。  十年間の付き合いを経た上で、ごくごく冷静な判断と客観的視点でもって下した結論を言えば、モミジは非常にろくでもない男だった。気まぐれで我が儘、やってくる霊媒師の髪の毛を毟り、『俺の家だ』と主張する自室のみならず隣接する部屋に入居してきた人間にも過度な嫌がらせを行い、管理団体がげっそりとした顔でとぼとぼ帰って行くのをげらげら笑いながら見送る男だ。加えて言えば極度の偏食で、粉物と糖分しか摂取しようとしない。此処は紛うことなく『モミジの家』であるので、霊体として触れられる冷蔵庫には彼が望む品物しか現れなかった。  幽霊には食事は必要ない。生命活動の全てが不要だったが、モミジは積極的に食事を摂りたがった。 「意味のあることばっかしたがるから、生きてる理由なんか考え出すんだ」 「……意味は重要ですよ」  意味というのは、それそのものが価値になる。『無意味さ』は苦痛を生み、下手をすれば罰にすらなるのだ。目的と意味を奪われた労働は懲罰に変わるそうだが、人生から意味と目的を奪われた人間にとっては生きることそのものが罰になるのでないだろうか。  いや、奪われてすらいないのだから、そもそも産まれたこと自体が罰なのかもしれない。僕には何もなかった。厄介なことに、『自分の人生に何も見出せない、無意味で無価値な人間だと知られるのは嫌だ』というけったいな自尊心だけは持ち合わせていた。いっそのこと、自分の無意味さと無価値さに気づけないほど鈍感な人間であればよかったのに。 「馬鹿が考えすぎると大抵碌なことがないな」 「僕もそう思います。本当に」 「生きてる理由なんか、生きたいだけで充分だろうが」  真ん丸の揚げドーナツをはちみつにくぐらせたモミジは、一口大のそれをぱくりと口に含むと、しばらくの間もふもふ何事か呟いて、最後の一つを呑み込んだ後に言った。 「よし。しょうがないから馬鹿なお前に、お兄さんが楽しいことを教えてやろう」  唇の端に垂れるはちみつを、赤い舌先が拭った。  結論から言おう。幽霊はセックスが出来る。幽霊のくせに。何の意味も無いくせに。無意味で無価値でどうしようもない行為のくせに、モミジとのセックスはこれまでの性体験全てを忘却するほどに気持ちが良かった。  モミジを抱いている間、僕はモミジのことだけを考えていた。他のことを考える暇など無い。一分の隙もなく、思考が塗り替えられるほどの衝撃だった。 「なんだよ、お前結構可愛いとこあんな」  全てが終わって放心する僕の上で、ふわふわと浮かんでいるモミジが楽しそうに笑う。表情筋死んでんのかと思ってた、と言われたので、表情筋に限らず死んでますよ、と返しておいた。  モミジが同時に五人もの男女と交際していた理由が分かってしまった。セックスの技巧の話ではなく、もっと深い、精神の話だ。モミジはセックスの間、僕に止めどない愛を与えてくれた。念のため言っておくが、セックスの間だけだ。身体を重ねている間だけ、モミジは全霊でもって僕を愛した。行為が終わった瞬間に失せたその熱は、まるで紛い物とは思えないほどに価値のある代物だった。自分が何か、特別な価値のある存在になったかのような錯覚を与えてくれる人間――モミジはそういう男だった。 「どうだった?」  モミジが鼻歌を響かせながら聞いてくる。僕は上手く言葉に出来なかったので軽く頷くに留めたが、充分に伝わったようだった。  火を付けた煙草を咥えながら、モミジは笑う。笑いながら、聞かせる気もない声で「癖なんだ」と零した。  セックスをする時、無条件で相手を愛してしまうのだという。そういう癖がついてしまったのだとモミジは言った。相手がどんな人間だろうと、身体を重ねている間はこの世で一番愛おしく思えてしまう。何をされたって愛おしく感じるし、可愛いと思うし、大事にしたくなる。そういう反射が染みついてしまったものだから、モミジはある種の人間と非常に相性が良かった。より正確に言うのなら『悪かった』というべきだが、モミジが「良かった」と口にしたので、僕もそう思うことにした。  ある種の人間。要するに僕のような人間だ。自分の無価値さに耐えきれない人間。モミジはそういう人間にひとときの価値を与えてくれる。自分がこの世で最も素晴らしく、尊い人間になったかのような錯覚を与えてくれる。天使か何かのようだった。最高にろくでもない天使。思わず呟いていた僕に、モミジは肩を揺らして笑った。 「それ言われるの、お前で二回目」  半分ほど焼け落ちた煙草を揺らして、モミジは更に笑う。喉の奥で響いていた嘲笑が、徐々に大きくなる。 「最初の奴は小汚いデブのおっさんだったな。知ってるか?」  モミジは笑い混じりの声でひとりの男の名を告げた。モミジと僕の間に接点などないので知りようがない、と答えかけたが、何故か聞き覚えのある名前だった。どこで聞いたのだったか、思い出せずに天井を眺める僕の隣で、モミジは鼻歌交じりに告げる。  一九××年に起こった連続児童誘拐事件の別称だった。  幼い少女や少年を攫い、監禁した犯人が三件目の犯行のあと出頭した事件だ。犯人は警察署で祈りを捧げ、泣きながら言った。『天使が僕を導いてくれました』『天使が言ったので来ました』『正しいことをした僕を、天使はきっと許してくれます』『天使が待っている家に帰りたい』  モミジは優しく微笑んで僕を見下ろしている。まるで天使のようだった。否。彼は天使なのだ。この男は本当に、『天使』になったことがある。天使になることで、二人を殺害した猟奇殺人犯から逃げおおせた。 「生きてる理由なんて生きたいだけで充分なんだよ。ついでに楽しいことがあればそれでいい」  言い聞かせるような口調だった。 「……そうかもしれませんね」  同意しながら、僕は僕の『生きている理由』について考えて、『死んだ理由』についても考えて、隣で鼻歌を響かせる男を見上げる。今日はドーナツを作った。明日は何を作ろう。悩んで、結局出てこなかったので尋ねた僕に、モミジはみたらし団子が食べたい、と笑った。

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