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第56話 よこしまな気持ち

 やはり旅の雰囲気に流されたのだ。  今更どんなに後悔しようと、後の祭りなのだけど。 「店長、もうそろそろお店戻らないと」  八代くんに言われ、僕は腕時計を見る。  もうそんな時間か。  僕らは立ち上がり、休憩室を出て歩いている最中にふと喫煙室を覗くと……今一番会いたくない人が煙草を吸っているのが見えたので、すぐさま通り過ぎようと思ったのだが。 「あ、森下さーん」  八代くんが窓からわざわざ手を振ってしまった。  せっかく気付いていなかったのに!  森下くんは花が咲いたような笑顔を見せて、中から出てきてしまった。 「お疲れ様ー! 久しぶりだね、店長も八代くんも!」  八代くんは久しぶりなのかもしれないが、僕はつい三日前に別れたばっかりだろ。  会ったら明るく挨拶くらいはしようと思っていたのに、いざ本人を目の前にすると口をぱくぱくさせることしかできない。  顔も徐々に熱を帯びてきてしまう。 「久しぶりっすねー。店長との旅行、楽しかったですか?」  何にも知らない八代くんは嬉々として森下くんに尋ねている。  森下くんがこっちを見ている気がするけど、僕は気まずくて明後日の方を向いていた。  変なこと、言わないよな……。 「……うん。すっごく楽しかった! いい思い出が沢山できたよね!」  そう言って顔を覗き込まれる。  思い出って……あぁ、僕に振ってこないで!   「え、えぇ、まぁ……そうかも、しれないし、そうじゃないかも、しれませんね」  適当なことを言って、僕は急ぎ足でその場を去った。  角を曲がったところではぁっと息を吐き、顔を覆って熱を覚ます。  格好いい。眩しくて見れない。  好きだ。やっぱり好きだ。嫌いになれる理由が一つも見つからない。  またしたい。あんな風に。  いや、もっともっとしたい。  彼とあれ以上のことを。  僕がこんな淫らな妄想を抱いているだなんて、彼はつゆほどにも思っていないだろう。 「あ、店長。森下さんが近々飲みに行こうよって言ってましたよ。今日LINEするって」  僕に追いついた八代くんが、態度のおかしい僕を不思議に思いながらもそんなことを言ってくる。  飲みに? それって行っていいのかな……いいんだよな、だって誘われてるんだから。  ──飲んだ後って、どうするの?  やっぱりそのことで頭がいっぱいになる僕は、欲求不満なのかな。    店についてからも、森下くんとのあの甘い朝が頭から離れなかった。  顔をペシペシと叩く。  しっかりしなくては。また何かミスをして、トラブルを起こすのはごめんだ。  その日の夜、僕は森下くんからのLINEを打ち返しながら考えていた。  (文字でのやり取りは心拍数は上がらないけど、本人を目の前にするとダメなんだよなぁ……)  場所はどこでも、と送ると、森下くんからは『じゃあ、前行けなかったお店に行かない?』との返事が来た。  前行けなかった店というのは、僕らが仲良くなるきっかけとなった店長会の日、混雑で入れなかった焼き鳥屋のことだ。  僕は早速ネットでその店を予約し、その旨を伝えた。 『もう予約してくれたの? サンキュー!』  すぐにスタンプがついて、その後のやり取りはなくなった。  てっきり、『その後は家に泊まりなよ』と誘ってもらえるものだと思ったんだけど……  また行きすぎた妄想に恥ずかしくなって、自室のベッドをゴロゴロと転がった。

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