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終電男子
夏休みの夕暮れ。今年はいい8月だと思ったばかりだった。
昨日は花火だって空に上がった。家の網戸越しに眺めた花火は、毎年鮮やかになっている気がした。今日は眩しい雲が空と街の境界線をすれすれに浮かんでいて、手を伸ばせば届きそうだと、一人で外出を楽しんでいた矢先。親友のミナトが男とキスをしているのを目撃してしまった。
中学生時代からいつも一緒にいて、当然のように高校生活のほとんどもミナトと過ごしていた。だから彼について知らない事があるだなんて自分でも想像していなかったし、知らない男と唇を離した彼が、俺と目が合った時の、ひどく泣きそうな顔も見たことがない。なんだ、知らない事ばかりだったんだなって、いまさら思う。地面に落ちて鳴いている蝉の声がやけにうるさい。
「なぁ……」
「そんなにビビらなくても誰にも言わないよ」
先回りした言葉に、ミナトは押し黙る。彼が何を言おうとしてるか、何となく察することができた。どれだけ付き合いが長いと思っているんだ。近くのファミレスに無理やり連れ込まれ、ドリンクバーで選んだカフェオレに口をつける。クーラーがきいていて、かいた汗も直ぐに乾いてしまいそうだ。
「すみません。こいつ、こういうの気にする奴なんで」
場を静観していた男がクリームソーダのストローから唇を離した。ミナトとキスをしていた男。初めて見る顔だし、安っぽい映画でヒロインにフラれる当て馬のような顔立ちだ。神経質な目つきで俺にさっきから一瞥もくれず、炭酸に溶けるアイスを眺めている。
「当たり前だろ、お前が気にしなさすぎるんだよ。ああもう、マジ最悪……ほんとごめんな。変なもん見せて」
ミナトは髪の毛を掻きむしって気まずげにため息を吐いた。短い頭髪からはじけ飛ぶ汗がテーブルに水滴を作り出す。よく見るとTシャツの襟元が黒く滲んでいる。
知ってるよ、それぐらい。時々傍若無人なふるまいをしてみんなを困らせる癖に、結構世間体を気にするタイプだなんて事は。目つきが怖いと子どもに怯えられる癖に、笑うとえくぼがあどけないとか、好物はコンビニのカフェオレだとか。もっとたくさんミナトのことを知っている。多分、いや絶対。付き合いたてのお前より俺の方が彼を知っているんだ。こいつの牽制するような言葉尻を捕まえて負け惜しみにしかならない。ミナトがこいつを選んだ時点で、親友の俺よりも位の高い地位を得ているのだから、俺は大人しく氷を鳴らした。
暫くたわいのない話をして席を立った俺は、二人で言い争い(主にミナトが相手に向かって怒ってる)しながら去っていくのを見送った。再び一人になった俺は口直しに、近くのラーメン屋でチャーハンセットを頼んで、映画を見て、ゲーセンに寄った。怠惰に時間を殺している間に、街はすっかりネオンが映える姿を変えていた。
時計を見ると、夜の10時。そろそろ帰らないといけない。明日の予定は特にないが、親だって心配している。心配性でこんなろくでもない息子をちゃんと愛してくれている両親の顔が、一瞬でミナトとあの男にすり替わる。ICカードを強くポケットに突っ込んで、俺は駅に背を向けた。補導されたってもうかまわないとすら思った。
気ままに宵の口に浸る街を散策する。ぎらぎらと客を狙っている看板を通り過ぎ、生ごみのにおいが鼻につく路地裏をすり抜けると、目の前にはいつもと様子が違う公園が広がっていた。男たちがふらふらと怪しげな足取りでトイレ前に集まっているのを見て、慌ててその場を離れる。
視界が閉ざされた分、やけに聴覚が鋭くなった気分だ。遠くで騒ぐ酔っ払いの雄たけび。ごみをかき分けて走る小動物の足音。鳥の羽ばたき。自分の喉が上下する音。静かに荒くなっていく呼吸音。本当の孤独になれたような心地で、人気のない橋の袂を右に曲がる。水が流れていく音色以外、何も存在しなくなった。自動販売機でカフェオレを買った。
11時を回るとさすがに肌寒い。Tシャツ一枚でうろつく俺に声をかけてくる人はいなかった。
「高校生より大人っぽく見えるんだよな、お前」
最近ミナトに言われた言葉を突然思い出す。ミナトが餓鬼っぽいんだろ、なんて俺の憎まれ口に対する仕返しに、俺が持っていたアイスに思いっきりかぶりつく。大きな歯型を残されたアイスにげんなりした顔をすると、心底嬉しそうに笑った。あれはちょうど、去年の今頃だった。
キスぐらいであんなに顔を真っ赤にするようじゃ、あの男にはそんなことできないんだろう。親友と恋人じゃ、カテゴライズが違う。当たり前な筈なのに、歩く足並みがどんどん早くなっていく。知らないうちに俺は駆け出していた。目的地なんてないのに、ただ息が苦しいだけなのは理解していたが、走らずにはいられなかった。それはまるで何かから逃げるように、気づかないふりをするように逃げ出す餓鬼の我儘だ。こみ上げてくる吐き気に似たドロドロを飲み込むこともできず、誰もいない街を走る。
悔しい。親友より、恋人を選んだ薄情ものめ。初対面の人間にも愛想よくできないあんな無愛想が好きなのか。趣味が悪いな。俺ならミナトの嫌がることなんてしない。キスだって乱暴なものじゃない。優しく、愛おしく俺ならできる。気まずい思いだってさせない。ミナトの心が決まるまで、俺ならちゃんと隠し通す。後ろ手に絡ませる指の熱にだって知らないふりをできる。お前をアクセサリーみたいに見せびらかしたりなんてしない。ただ隣でアイス食ったり、涼しい図書館で課題をしたり。そんなものでいいんだ。手持ち花火を振り回すお前を馬鹿だなって笑っていたいだけなんだよ。手つなぎも、キスも、セックスも全部我慢する。宿題をいくらでも写させてやるし、カラオケだって曲を連続に入れてもいい。恥ずかしいけど、ケーキバイキングにも付き合ってやる。プールの掃除当番も一緒にやろう。すぐにふざけてスケートフィギュアみたいに滑り出すお前が転ぶのをちゃんと見守っててやるから。海にだって行こうよ。俺が泳げないのをいいことに、可愛い浮き輪をもってきてからかったのも今なら許してやれる気がするよ。後は……。あとは……
「同じ男なら、俺じゃダメだったのかな」
飲み終えたペットボトルを適当に投げる。宙を舞って、夜の色を映し出す。空虚にまみれた自分の瞳の薄暗さにどうしようもなく気落ちする。乾いた音をたてて転がったペットボトルを蹴り飛ばしたい衝動を堪え、ごみを拾った。ばかばかしい。すべて夢物語だ。どこかで笑い合っている一組のカップルが脳裏を離れない。伏せた瞼の裏で花火が散った。透明で潤っている花火だ。来年の花火は、あいつと一緒に見るんだろうか。大切なことを言葉にしなかった俺にできる、精一杯の反抗心だ。友達を泣かす奴なんて、最低なやつだ。
時刻は0時を迎える。最悪な一日が終わる。そして陰鬱な一日が始まった。
「今日、俺の誕生日なんだけど……」
彼はきっとそんなことも忘れているし、いつか俺自身の事も忘れていく。そう考えると、なんだかちょっぴり悔しくなった。だからこの涙は、悔し涙でしかありえない。失恋の涙だなんて言わせない。勝手に好きになって、勝手にふられただけだから。
もう戻れない夏、俺は初めて終電を逃した。
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