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悪い男
一、悪業
彼は嗤っていた。
腹を抱えてもまだ足りずに転げ回って床をバンバンと叩く。彼は嗤いで息が苦しくなって耳障りにヒイヒイと喘いだ。其れは明らかに良い笑いではなく淀んだ嗤いだった。
彼には昔から心底嫌いな相手がいた。その相手は彼から何でも奪っていく。地位も名声も財産も権利も、そして愛する人さえも。この世は弱肉強食だなんて陳腐な言葉を言う人もいるが真実は違う。何かを搾取出来る者と搾取される者がいるだけだと彼は思った。そして憎い相手だけではなく、そんな世の中の理全てを彼は呪っていた。
やがてその相手は首を吊った。薄汚い廃ビルの中でひっそりと穢れと未練を垂れ流し、汚物となって生を終える。彼はそんな相手をこの世から完全に抹消するため、遺体を引き取ると早々に火葬し、骨を粉々にして何処かへ捨てた。どんなに周りが進言しても一切葬儀は行わなかった。
彼は遂に相手が持っていたものを全て手にする。奪ったのではない。奪われたものを取り戻しただけだ、彼はそう思っていた。それを故郷から数100キロ離れた都市の豪奢なホテルで確認する。
ニ、悪巧
傍らにはすっかりと素肌をさらした若者、譽(ほまれ)がベッドに寝そべっていた。譽は庸介(ようすけ)と出会った時と変わらず不敵に微笑んでは、庸介の膝に手を置いた。
「次はどうする?もっと遠くに行く?」
庸介の復讐が全て終わっても、譽は離れる気が無いらしい。譽の好奇心旺盛な眼差しはとても蠱惑的で、庸介が身を寄せるとじゃれあいを求めて鼻先に噛みついてくる。庸介は年の離れたこの瑞々しく美しい若者を溺愛していた。白い素肌に少し大きめのダイヤのネックレスがいやらしく光っている。譽は健気に庸介からのプレゼントを身につけていた。いじらしく愛らしい若者に庸介は深く口付けた。
「アンタの兄貴、殺していい?」
譽との出会いの第一声がそれだった。ギラギラと光に研ぎ澄まされた眼差しが未だに記憶から消えない。庸介はその頃、手に入れたはずの物が全て奪い取られていく絶望の真っ只中にいた。
夜の町を飲み歩き、酔って荒れて管を撒く庸介をどの店のママも嫌厭し、そして店を追い出されていた。酔いが回りすぎてフラフラしているところを、譽が立ち塞がる。
一切黒い部分が無く、白く見えるほど脱色した眩しい金髪に黒いマスク。如何にも今時の若者というファッションで、庸介には全く縁の無さそうな相手に急に話しかけられる。異質な相手から向けられた問いを改めて飲み込む前に、酒を飲みすぎたツケが回ってきた。
路上の片隅で情けなく嘔吐する大人に対して、意外にも譽は優しかった。抱き竦めるようにして背中を擦られる。他人にこんな風に優しく扱われるのはいつぶりか、思い返して庸介は号泣した。
誘われるままに連れられ、気が付けば見知らぬアパートの一室で庸介は冷えたミネラルウォーターを口にしていた。
完璧過ぎるほどモノトーンのインテリアで揃えられた室内は嗅ぎなれない香りが漂っている。その香りに紛れて甘ったるい煙が舞い上がっていた。
幼く見えるというのに、譽は慣れた手付きで煙草を吸う。黒い紙の煙草を燻らせる譽のマスクの下の素顔を庸介はマジマジと見つめた。性別を迷うほどあどけなく整った顔立ちを何処かで見たような気がする。グレーのカラーコンタクトもこちらをじっと見つめていた。
「アンタが何されたか、俺は知ってるよ」
唐突に切り出されてジワリと汗が滲む。初見から全てを見透かしているような錯覚を起こす譽の態度や口振りは妖しさに満ちていた。この若者は一体誰なのか、庸介には検討もつかない。
何故今、突然目の前に現れたのか、何を考えているのか全くもって測れない。
「憎いだろ?アンタから女を奪った男が」
ゾクリと悪寒がした。譽は庸介の目の前に写真を置く。黒いマニキュアで染められた爪と爪の間に彼女と、庸介の兄の姿が見える。先月、二人は結婚した。
元々彼女は庸介と婚約をしていた筈だった。そして、結婚式を予定していたその日に彼女は花嫁として嫁いでいった。庸介ではなく兄の元へと…。
なぜ彼女が急に心変わりしたのかは分からない。よりにもよって庸介が忌み嫌っている兄へと靡き、そして当然の様に庸介を踏み躙り結ばれたのだ。
庸介の兄は、庸介の実家の家業全てを任され家族の心も膨大な財産も掌握している。
両親は始めは兄と庸介と仕事も財産も二分する予定だった。庸介自身もそう聞かされていた。然し今、庸介は家を出され何もかもが兄の手へと渡っているのである。
昔からそうだった。学業も手柄も何もかも庸介が築いたものはいつの間にか兄のものへとすり替えられ、兄ばかりが称賛を浴びる。
幼い頃から嗜んできた剣道の大会で優勝した時も、庸介が手にしたはずの賞状やトロフィーが兄の物として家の中に飾られているのだ。まさか大人になった今、学歴や職歴すらも奪われるとは思わなかった。そして、婚約者も…。
庸介に残されたのは厄介者という烙印だった。
無実だった。いくら庸介がそう訴えても誰も聞く耳を持たず、庸介は一夜にして女性に乱暴をはたらく異常者となったのだ。
嵌められたということはすぐ分かった。その犯人が兄しかいないという事も。然し孤立した庸介にはどうする事も出来なかった。
「ご苦労さん」
家を出された日、兄がそう耳打ちした。その声色が未だに耳にこびりついている。
自分にもっと思い切りがあったなら、そう後悔する日々を送りながら酒で貯金を食い潰し、庸介はそろそろ本気で死のうと考えていた。身辺整理をしてあらゆる物を自ら処分してきた。
何も無い。解放されたい。憎しみと屈辱と絶望と、庸介の中に残った無様な感情とも決別して無に還ろう。庸介という人間は存在しなかったのだ。それで何もかも収まる。ただ最期に、誰かに話を聞いてほしかった。そんな望みを抱えて夜の街を彷徨い、叶うことなく追い出され、そして今夜、譽と出会った。
「俺も借りがあるんだよね、あの男に」
クマの形のグミを無造作に口に放りながら譽は別の女性の写真を兄達の写真の上に重ねた。
「俺の母さん。あの男にめちゃくちゃにされて自殺した」
余りにもサラリと重い話を吐露する譽の表情を見る。頭を齧り取ったクマのグミの胴体を指で摘んで遊びながら、譽は鋭い眼差しになる。
その女性は、庸介が暴行したとされている被害者だった。本人に会った事はない。常に第三者の仲介の元、庸介が何か手を下すまでもなく示談で事が過ぎ去っていた。
「アンタがやったんじゃないのは分かってるよ。だからこそアンタを探してた」
呆気にとられたまま譽のペースにさらされている庸介の唇に譽はグミを押し込む。そして同性同士だというのに深いキスをした。
「アンタと俺は同じだよ。アイツを殺す為に此処に居る。今日からアンタと俺は一蓮托生になるんだ。アンタに出来ない事は、俺がやってあげるよ」
そう言いながら譽は座っていたソファの片隅に置かれたタブレットを広げ動画を再生する。
その映像の中に映し出された兄は、庸介の元婚約者だった自らの妻を口汚く罵り暴力で支配していた。
「どうやってこんな映像を…!」
庸介は映像よりも譽を凝視する。
「辛そうだったから奥さんの相談に乗ってあげただけだよ」
譽が笑みを滲ませる。悪戯っ子の笑みを。
三、悪童
「どうする?アイツを訴える?それとも揺すって搾り取る?悪事の証拠ならまだまだ集まるだろうよ。ちょっと調べただけでボロ出まくりだもんな」
暇つぶしのように譽はタブレットのファイルを開いていく。スキャンダルのるつぼと言わんばかりに兄の痴態のオンパレードだった。
「アンタのやりたいように任せるよ。どうやっても協力する。何なら本当に今から殺しに行ってもいい」
タブレットをそのまま庸介に預け、譽はまた煙草を吸い始める。
「君は、一体…どうやってこんな…」
聞こうとして煙草のフィルターで口を塞がれる。
「それ聞く勇気ある?俺はさ、もう怖いもん無いけど、アンタは違うじゃん?綺麗で居たいなら無闇に踏み抜かないほうが良くない?」
大人びたことを言う譽に言葉が続かない。甘ったるい匂いの割に譽の煙草はしっかりとビターだった。
吸いなれない煙を思いっきり吸い込む。ここまで来て何を恐れているのか、まだ後ろ暗い事から逃げて惨めにグズつこうというのか…ズルズル引き摺って何も変わら無いままに全てを手放しているのは自分なのではないか…庸介はひどい嫌気を感じた。
「知りたい。どうやったのか」
改めて譽に問う。暫くじっと二人見つめ合った。譽は庸介の何かを探っているようだった。譽の方から視線を逸らすと吸い損ねた一服を再開する。
「あの男と寝た。あいつ変態だから、男女問わずプレイの相手買ってんだよね」
徐ろにTシャツを捲り、譽は背中に出来た痣の痕跡を庸介に晒す。
「SM趣味ってやつ。しかもかなり悪趣味」
庸介は吐き気を催した。動画の中の兄ならば想像に容易い性癖だ。いざ目の当たりにすると嫌悪しか沸かない。譽がどんな思いでそんな所業に身を晒したのか、それを思うと庸介は奥歯を噛み締めていた。
「なぜ、君のお母さんを追い詰めたのが俺じゃないと気付いた?」
酔いが冷めて冷静になってきた頭の中で物事を整理しながら、庸介は湧いた疑問を譽に向ける。
「母さんの遺書だよ。全部暴露してた。それがこれ」
ジッパーのついた袋に入れられた封筒を譽は見せる。
「それ見て、真犯人探そうって思った。絶対復讐してやるって」
手書きで綴られた懺悔のような遺書には、高額の示談金を前に言い含められ、暴行の犯人が違っていたのに真実を語れなかった事、そしてその後虚偽告訴をネタにひどく脅され続けた事が記されていた。
それからは時の流れが速かった。兄を相手にして訴えを起こし、あらゆる事柄が塗り替えられていった。
面白いくらいに何でもひっくり返っていく。
その最中に庸介の元婚約者だった兄の妻が亡くなった。交通事故、とのことだった。
そして兄と庸介との決着が付く間際に、二人の両親もまた相次いで病に倒れ、その後父が亡くなり母は認知症を発症した。
庸介は全てを取り戻した。兄は全てを覆され崩壊した。財産は全て金に変えさせて庸介が掌握した。兄は茫然自失のまま戻らず、庸介の言いなりに事を済ませた。
手に入れられる物を手にし、庸介はすぐ実家を捨てた。訳の分からなくなった母を一人家に残し、兄もいつの間にか失踪した。兄が発見されたのは庸介が去った一ヶ月後で、人知れぬ廃ビルの閉鎖された上階で首を括っていた。遺書は無かった。
譽と出会った日から庸介は譽のアパートに居候していた。譽の知り合いだという弁護士と共に兄の元へと通う。その間の生活は譽が担っていた。譽は相変わらずミステリアスなままだったが、譽との生活は不思議と気兼ねなく穏やかだった。
ひどく驚いたが、幼く見えた譽はちゃんと成人していて、詳しくは教えてもらえなかったが夜の仕事をしていた。
ようやく全てを終えた日、庸介は譽を連れて豪奢なディナーを楽しんだ。笑いが止まらず楽しくて仕方ない様子の庸介を譽は誘惑した。上等なワインを部屋に持ち込んで遊び飲んだあと、酔って上気した庸介に跨がり、譽から庸介を貪った。庸介はただただ若い体の躍動に心底魅入っていた。
「…ア、ンタも、遊べよ…ほら」
譽は快楽に貪欲で庸介の迷いなどお構い無しに要求してくる。
「早、く…」
スリルのある遊びに誘われているような、そんな気持ちになる。譽は庸介の身体を引き倒して自分に覆い被らせた。
何をしているのか混乱する。何故譽とこんな事をするのか。頭の中がグチャグチャになりながら庸介は抗えずに譽と交わった。下半身が連動すると譽は見たことのない喜悦の表情を浮かべ、恥じらいもなく鳴く。
もっと、もっと、とねだられるまま腰を振り続けて、庸介は果てた。譽はまだ足りずに庸介に手ずから愛撫されて果てた。
「ご苦労さん…」
眠気に勝てない庸介に譽はそう呟いた。
四、悪因悪化
庸介はその後も何処にも留まらず、譽と各地を転々としていた。
庸介が婚約者に渡すはずだったダイヤの指輪は作り直してネックレスに変えた。それを譽が首に下げている。
新婚旅行さながらに目一杯観光を楽しむ。日中派手に遊び歩いて、夜はベッドの上でじゃれ合う。庸介が手にした金は簡単に尽きるような額では無かった。然し庸介は落ち着けないその日暮らしに疲れて来ていた。
「そろそろ、何処かに落ち着こうか」
譽からの今後の行方の問いに対して庸介はそう答えた。
「何処かって?」
ピアスだらけの耳から外れかけたピアスを直しながら譽は問い返した。その語気からは退屈が滲み出ている。
「もう飽きちゃった?」
呆れたように言う譽は染めた髪の毛の根本が黒くなってきていた。
「じゃあ、そろそろお開きかな」
まだ飲みかけだった酒をグラスに注いで譽が軽い乾杯をかわしてくる。一気に飲み下す譽に煽られて庸介もまたグラスを空にした。
「これ、アイツの遺書ね」
見覚えのあるジッパー袋の中に白い封筒が入っている。譽は徐ろに自分のバッグから取り出してきた。庸介には訳が分からなかった。促されるままに封筒の中の便箋を取り出す。見覚えのある字が見える。
兄の綴った遺書によると、まだ未成年の頃に兄のほうが先に庸介の婚約者と出会い関係を持っていた。その際の過ちで彼女が身籠ってしまい、その子供を養子に出すことになった。
この事が原因で二人は引き離されたが、兄への思いを断ち切れなかった彼女が、何も知らない庸介と関係を持ち婚約をしてしまう。
彼女自身から後ろめたい過去を掘り返され、兄は脅され彼女の望むままに結婚せざるを得なくなった。
これまでの家の中の出来事も、兄を溺愛する両親により歪められており、いつの間にか兄に都合の良いように捻じ曲げられてきた事も告白されていた。
兄が家業を担わされて間もなく、養子に出したはずの息子が突然現れ、世間体を盾に過去の様々な失態や所業について細々と脅し始めた。
息子と弟の婚約者、両者の脅しの圧力に負け不義理な結婚をする羽目になったこと、脅しに屈したがために度重なる息子の悪行の尻拭いで自ら破滅していったことが洗いざらい綴られていた。
兄の息子は遊び半分に人を騙し、弱みを握り、揺さぶり、脅して弄ぶ。人を操る術に長けていて、養子に出した先の義理の両親すら支配していた。
庸介を暴行犯として訴えた女性は兄の息子の養母だった。暴行した犯人は自ら育てた息子だったのだ。他人を陥れる悪行に加担してしまうほど、養母は息子に洗脳されていた。
兄の息子は兄の家庭にすっかり入り込み、全員をそれぞれ揺さぶった。そして小さな隙につけ込んでいく。ジワジワと脅されて大きくなった心の歪を利用し、自らの手を汚す事なく邪魔者を排除していった。
兄も父も母も、婚約者だった人もこんな若者の手のひらの上で面白いほどに転がされて互いの足を引っ張り合い、破滅していった。
婚約者だった彼女が兄に強行した事も、彼女が事故で亡くなった事も、両親が心労で患っていった事も、起きたこと全ての背後に兄の息子がいた。
五、悪魔
「譽、お前は…」
「だってさ、俺を捨てたんだよ?」
庸介の言葉を遮って譽が言う。
「勝手に産んで捨てたくせに、俺より美味しい思いしてるとか許せないじゃん」
悪びれる事の無い譽はいつかのタブレットの動画を再生する。妻を暴行する兄の映像の前に、譽からの不貞の密告を受けている兄がいた。言葉巧みな譽にすっかり抱き込まれて兄は妻に激昂した。
その他の動画は全て譽からの指示で、譽がやった事を兄が肩代わりしているものばかりだった。小さな綻びがどんどん大きな弱みに変わっていく様子をまざまざと見せ付けられる。
「アイツが俺を捨てさえしなければ、俺は何でも手に入れられたのに…俺が受けられるはずだった幸せを全部、奪ったんだ。当然の報いだろ」
譽は腹の底から嗤い始める。狂気じみた笑いは止まることはない。
「アンタ、自分の兄貴とそっくりだね。やられるがままでグズグズして、何にも出来ないまま腐って本当クズ。つまんねぇよ、アハハハハハ!」
嗤い転げる譽は腹を抱えて床をバンバン叩く。なんの後悔も、良心の呵責も譽にはない。自分もまた、容易く踊らされていた事に庸介は忘れていた絶望感を蘇らせた。
取り戻したと思ったものは全て単なる空虚であった。譽は操る駒を変えて遊んでいたに過ぎないのだろう。そうで無いなら、庸介自身が今ここには居ないはずだ。出会ったあの日の夜、とっくに不要のものになっていたはずだ。庸介さえ居なければ、譽は大金を独り占めできたのだから。
「次はどうしようか?俺の伯父さん。まだ俺と遊ぶ?」
クマのグミと口付けと、譽はまた庸介に与える。婚約者に渡すはずだったダイヤを譽は指で摘んで満足そうにしている。
「大丈夫、アンタに出来ない事は俺がやってあげる。アイツはもういない。だから今度は俺を恨んでいいよ。アイツよりもっと…ね」
庸介はカッとした勢いのまま、譽に覆い被さり細い首を絞めた。グイグイと力を込めてもまだ、じゃれ合っているように譽の嗤いは止まらない。酷い形相の庸介の頬を撫で回しながら、譽は無抵抗に瞼を閉じた。
六、悪人正機
彼は都会を離れ海辺の町に家を買った。以前からやってみたかった事を消化しようと小さな店を開いた。気ままに海辺に出掛けては、自家開発した自慢のサンドイッチをワゴンで売り歩いている。海が美しく観光スポットとして充実しているお陰で、商売の評判も上々だった。今日も朝から開店して、人気のサンドは品切れになっていた。
「もうツナは売り切れか」
舌打ちが聞こえる。
「とってあるに決まってんじゃん」
ワゴンの中の冷蔵庫から特別に取り置いていたツナサンドを譽は取り出した。甲斐甲斐しくフィルムを開いて庸介に手渡す。
「コショウ多めだろ?それ食ったらツナ買って来てよ」
また俺か、とぼやきながら庸介は店のロゴが入った譽と揃いのエプロンを外した。
譽に対しての憎しみが無かったわけではない。然し、庸介は譽の首に手を掛けながら気が付いた。
実の家族が破滅していったことに対して、庸介自身も何の後悔も良心の呵責も無かったということに。
譽に弄ばれた事への怒りは沸いたが、譽の手によって兄が絶望し、自ら命を絶ったことに対しては何の感情も沸かなかったのだ。庸介自身が自分が置かれてきた環境への業の深さにとても驚いた程だった。
譽は始めから自分と庸介が同じであると、そう言っていた。まさにその通りだった。譽は自らの力でその業を破壊した。そして庸介はちゃっかりとそれに付き従う事を選択した。
真っ黒に染まった髪に、カラーコンタクトはやめた。ピアスも数個だけ残して外した。接客業には第一印象が大切だと譽は明るく笑う。ここに引っ越してきてから譽は禁煙にも成功した。
庸介は譽の指導の元、若作りに励まされている。なんせ譽と庸介はひと回りも年が違うのだ。落ち着いて枯れている暇もなく、譽に引き摺られて怒涛の速さで庸介の時間は移ろいでいく。
譽と庸介の遊びの時間は終わることなく続いているのだ。譽が飽きるまでずっと。
買い出しに行く庸介を見送る譽の胸元にはまだあのダイヤモンドが光っている。
END
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