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第6話

 金曜日、午前十時前――。  待ち合わせの時間より二十分も早く着いてしまった俺は、落ち着かない気分で喫茶店のガラスに映った自分を見つめた。  何度もすっぽかそうと思って、結局来てしまった。彰久を無視して後で酷い目に遭うのが嫌なのと、「記念日にできるものならしてみやがれ」という挑戦的な気持ちがあったからだ。  目の前の交差点では、平日の昼間を楽しむ人達が引っ切り無しに歩いては何処かへ消えて行く。また新たに駅の改札から大勢の人々が吐き出され、そしてまた交差点を渡って消えて行く。この人の群れの中に彰久がいるかと思うと、緊張から汗が噴き出してきた。 「伊吹!」  呼ばれて心臓が飛び上がる。慌てて周りを見回すが、彰久の姿はどこにもない。 「こっちだ、こっち」  声と同時に、今度はクラクションが二度続けて短く鳴り響いた。目の前に停まった大きな車の窓が開いて、彰久が顔を覗かせる。  まさか車で来るとは思わなかった。これでは、何かあっても簡単には逃げられない。  重い足取りで助手席の方へ周り、重厚なドアを開ける。変に車高が高いせいで乗るのに苦労していると、 「大丈夫か。気を付けろ」  彰久が腕を掴んで、俺を引っ張り上げた。 「……でかい車」 「ずっと前、整備士やってた時に一目惚れしてな。先輩に連れて行ってもらった中古車オークションで買ったんだ。完全に衝動買いだったけど」 「衝動で車買うなんて、やっぱ金持ちじゃないか」 「安かったんだよ、本当に。ていうか、お前だって良いパンツ穿いてるじゃん。結構お高いブランドだろ、それ」  曖昧に首を振ると、彰久が笑った。  彰久の車は揺れが酷く、低いエンジン音に体の中から揺さぶられている気分になる。元は舗装されていないオフロードを走る車なのだとかで、日本の道路には不向きらしい。 「凄い揺れ。アトラクション乗ってるみたいだな……」  彰久がまた笑って、真新しい烏龍茶のボトルを俺に差し出した。 「見たい店があるんだ。勝手に決めて悪いけど、今日はそこ行っていいか」 「どこだっていいよ別に。……見たい店って、何の店?」 「ん。秘密」 「何か怪しい……」 「お前が想像してる場所には行かねえよ、残念だったな」  こちらに下心があるような言い方をされて、咄嗟に赤面した顔を窓の方へと向ける。車内ではもう何を言われても無視することに決めた。  車で走ること数十分、やがて大きな建物が見えてきた。有名な大型ショッピングモールだ。俺は行ったことがないけれど、デートスポットとしてはかなり人気の場所でもある。  こんな場所に連れてきて、彰久は何を考えているのだろう――俺の疑問は、建物に入ってすぐにどこかへ吹き飛んで行った。  一階ペットショップの巨大なウィンドウ越しに、仔犬や仔猫の姿が見えたからだ。 「わ、……」  愛らしい肉球柄の壁紙を背景にじゃれあう仔犬達、キャットタワーの上で寝ている仔猫。俺はその前に立ち尽くし、目を輝かせながら中にいる彼らを見つめた。 「し、柴犬ヤバい。それと、あっちのピンシャーも可愛い。どうしよう、マジで可愛い」 「落ち着けよ。でもまぁ、やっぱり大型店は違うな。いい生体が揃ってる」  短い足を懸命に動かしながら走り回る、産まれて間もない仔犬達。走って遊んでじゃれ合って、疲れたらパタッとその場で寝てしまう。自分の欲求に素直で、好奇心を満たすため何にでも挑戦する。今の彼らの世界には、悩みや不安なんて何もないのだ。 「うちの店は一頭一頭がケージで離されてるからな。仔犬同士で遊ばせるのって店側は大変だろうけど、やっぱ客としては見ていて楽しいよな」  こちらに寄ってきた柴犬が、俺を見上げて首を傾げる。俺は思わずその場にしゃがみ、ガラスを指で触れてみた。目の前にある指を捕まえられないのが不思議らしく、柴犬の仔犬はガラス越しに俺の指を引っ掻こうと懸命になっている。  何度顔を引き締めても、仔犬が何かする度に口元が綻んでしまう。  ふと隣が静かになったと思ったら、彰久は俺の目の前の柴犬ではなく、ウィンドウの奥の方を見ていた。何かと思って彰久と同じ方向へ視線を向けた俺の目に、ふわふわな銀色の毛皮をまとった仔犬が飛び込んでくる。 「ハスキーだ……」  バナナを模った玩具を咥えて、4本の太い足をばたつかせながら嬉しそうにあちこち歩き回っている。その姿はまるで動くぬいぐるみだった。  犬の可愛さに大型も小型もない。だけど、やはりハスキーは別格だ。  俺は立ち上がり、ハスキーの仔犬が走ったり寝転んだりする様を頬を弛めて見つめ続けた。一瞬、彰久の存在すら忘れていたかもしれない。 「立派だなぁ、あれはでかくなる」  感嘆の溜息を漏らして、彰久が大きく頷いた。俺もそれに同意して、こくりと頷く。今この瞬間ハスキーの仔犬を見ることができただけでも、ここに来た価値は充分にあると思った。 「いいな、ハスキー。言ったら抱かせてくれるかな……」 「抱いたら情が移るし、ずっと見ててもキリがねえ。ほら行くぞ、伊吹」 「え、もうちょっと……」  ウィンドウに背を向けた彰久がそのまま歩き出し、名残惜しかったが仕方なく俺もそれについて行った。 「今日は人にやるプレゼントを見に来たんだ。それをお前に見立ててもらおうと思ってな」 「意味分かんない、何で俺が」 「いいだろ別に。お前のセンスを信じてるってことで」  彰久が選んだ店は、四階にある男向けのアクセサリーショップだった。俺一人では滅多に入らないような店だ。雰囲気も独特で、隣に彰久がいてもそわそわしてしまう。 「シルバーアクセなんて流行らねえかな? ネックレスのヘッドが欲しいんだけど」 「分かんない。俺、こういうの詳しくないし」  ガラスケースの中に飾られたネックレスはどれもデザインがいかつくて、シルバー特有の鈍い光を放っている。俺のセンスでは、とても良い物なんて選べそうにない。 「そもそも、誰にあげるんだよ。それによってまた変わってくると思うんだけど」  顎に手をあてた彰久が、目を細めて俺を見下ろす。 「それ言ったらお前、そいつに嫉妬するだろ」 「するかっ!」  ニタニタと笑いながら、彰久がガラスケースの前で身を屈めた。 「悩むな。伊吹、どれがいいと思う」 「……こういうのって好き好きがあるから、一般受けしそうなのがいいんじゃないの」  確かにね、と彰久が呟いて、縦横に並んだ物の中から一つを指して俺に言った。 「あれは?」  彰久が指したのはプレート型のネックレスヘッドだった。楕円形で平べったく、表面には何の飾りも無いシンプルなデザインだ。その横には「刻印可能」の小さなポップが付いている。 「いいんじゃん。他のと比べてごちゃごちゃしてないし、ドッグタグなんて彰久らしいし」  彰久が店員を呼んで、選んだ商品をケースから出してもらっている。俺はその傍らで別の商品に視線を滑らせながら、一体誰にあげる物なんだろうかと何となく考えた。  派手な恰好の割に愛想の良い店員が、彰久をレジカウンターへと案内する。 「刻印はどうしますか? 記念物だと、名前と日付をセットで入れる方が多いですけど」  取り敢えずすることのなくなった俺は店の外に出て、遠くから彰久と店員のやり取りを眺めた。店員が差し出した紙に、彰久が刻印する文字をメモしている。何て書いているのだろう。誰の名前を書いているのだろう。  ……どうでもいい。俺には関係のないことだ。 「お待たせ。一時間くらいで出来るってさ……って、何だよ、むくれてんのか? 今度伊吹くんのも買ってやるから、機嫌直せ」  軽い調子で肩を抱かれ、俺は無言でそれを振り払った。  むくれてなんかいない。ましてや嫉妬なんか微塵もしていない。どちらかと言えば自分にそう言い聞かせながら、歩き出した彰久の後を付いて行く。 「伊吹、どっか見たい店ないのか」 「ない」 「だから機嫌直せって。悪かったよ、他の奴にあげるモン買うのに付き合わせて」  俺は小さく口を尖らせ、彰久を見上げて言った。 「そんなんじゃねえ、……馬鹿」 「可愛い顔して怒るなよ、昼飯奢ってやるから。何食いたい?」  別に、と言いかけたのをやめて、俺は顎をしゃくって言った。 「高い肉食いたい」 「肉ね。任せろ」  パーカのポケットに両手を突っ込んで、彰久の隣を俯きがちに歩き続ける。ワガママを言って嫌われるなら、それはそれで構わなかった。見切りを付けられるなら早い方がいい。その方がお互いに、時間を無駄にしないで済むのだから。  エレベーターで八階に移動し、彰久が通路沿いにあるステーキとハンバーグ専門のレストランを指差した。 「あれが俺のオススメ」  一見すると普通のレストランだが、ウィンドウ越しに見えるメニューに付けられた値段に思わず息を飲む。とても気軽に入れる店じゃない。だけど今更断る訳にもいかず、俺は落ち着かない気分で通された席に腰を下ろした。 「最高級和牛ステーキでもいいぜ、食えるだけ食えよ。何百グラムにする?」 「……ハンバーグでいい。俺、ハンバーグ食いたい」  変なところで小心者の俺は、結局メニューの中でも比較的安い和風ハンバーグを注文した。 * 「伊吹、今の仕事いつからやってんの?」  唐突に訊かれて、俺は反射的に「高校卒業してから」と答えた。 「そっか、やっぱり犬が好きだからか?」 「まあな。本当なら俺も生体売場で働きたかったけど、今はそっちの面接受けなくて心から良かったと思ってる」  皮肉たっぷりに言う俺を見て、彰久がテーブルに頬杖をつきながら意味ありげに笑う。 「来なくて正解。多分だけど、お前じゃとても生体の仕事は務まらねえよ」 「ムカつく言い方。暇な仕事してて悪かったな」  傍から見たら、俺達はどんな関係だと思われているだろう。俺がわざと無愛想にしているのは分かっているはずなのに、彰久はどうして怒らないのだろう。 「腹減ったな、早く来ねえかな」  彰久は楽しそうだ。まるで普段からの友人と遊びにでも来たかのように、仏頂面な俺を前にして自然に笑っている。このペースに巻き込まれてたまるかと気を張ってしまう俺は、とんでもないへそ曲がりなのだろうか――そんな気分になってくる。 「……なあ。あんたって、実際どういう奴なの?」 「どうって?」 「だって初めて会った時は、そんなに喋るような奴じゃなかったじゃん。もっとこう……大人の雰囲気だったし、がつがつしてる感じじゃなかったし……」 「俺、がっついてるか?」 「かなりね」  彰久は自分でも気付いていない様子で、「そうか?」と訝しげな顔をしている。 「まあ、誰にでも二面性はあるってことだろ。そういう伊吹だって、俺とか他の奴らには見せてない裏の顔があるんじゃねえの」  言われて、少なからずドキッとした。  誰にも見せていない顔。彰久はおろか燈司や和真、家族ですら知らない俺だけの隠し事。  もしもここで彰久に吹雪のことを言ったら、どうなるだろう。事情が事情だから仕方がないと言うだろうか。それとも、理由はどうあれそれは窃盗だと言われるだろうか。  お前のしたことはただの偽善的な自己満足だと、軽蔑されるだろうか。 「……あんたも、動物が好きだからこの仕事始めたの?」 「ああ、動物は昔から好きだぜ。犬猫もそうだけど、特にスタイリッシュな野生動物が好きなんだ。ヒョウとか、サメとかシャチなんかがさ。爬虫類や昆虫も好きだぞ」 「動物好きって公言すると、偽善的だって言われたりしたことないか」 「どうして」 「牛とか豚、魚も食うだろ。それに、昆虫は好きでも害虫は殺すだろうし」  ああ、と彰久が笑いながら溜息をついた。 「そういうこと考えるとキリがねえから、考えないようにしてるよ。善とか偽善じゃなくて、ただ好きなものは好きってだけ」  大半の人間は、そうなんだろう。せめて感謝して食べるとか、無駄な殺生はしないようにしているとか、大抵はその程度だ。 「……だよな。俺だって犬が好きだけど、保健所の犬を救うとか、愛護ボランティアとか、そういうことまでは頭が回らないし。ていうか、普段はそんなこと気にも留めてないし……」  その癖に、テレビのドキュメンタリーで涙ぐんだりするのだ。勝手な奴だと言われても文句は言えないと自分でも思う。 「なるほど、伊吹はそういうことで悩んでるのか」 「悩んでるってほどじゃないけど、時々ふっと思うだけ」 「それ、解決してやろうか」 「え?」  驚いて顔を上げると、彰久が目を細めて俺を見つめながら穏やかな口調で言った。 「自分がしたいと思って、自分にできることすりゃいいんだ。俺だって動物愛護とか立派なことはしてねえけど、この仕事もある意味では動物の役に立つと思ったから始めた訳で」 「でも、ペットショップに否定的な考えの人も世の中にはいるだろ。例えば俺は犬に服着せるの嫌だけど、仕事だから売らない訳にはいかないし。そういうの、凄く偽善的ていうか……」 「業務のことじゃなくて、犬猫のことをよく知れるって意味でさ。俺は周りでペット飼った奴に環境改善とか病気のアドバイスもしてやれるし。伊吹は飼い主が間違った服の選び方しねえように、色々教えてあげられるじゃん。それって、飼い主だけでなく動物の役にも立ってるって言えるだろ」 「そうだけど……」 「難しいことは考えねえで、できる範囲のことを頑張ればいい。立派な志が無いなら動物好きを名乗るな、なんてルールはねえんだ。例えば『困ってる人を放っておけない』って性格の奴が、もれなく全員ボランティア活動してるかって言ったら違うだろうし」 「………」 「善も偽善もねえよ、自分がするべきだと思ったことなら何でもすればいい。愛護の運動をする奴はそれをする。ショップで生き物のために働く奴は、それをする。役割分担てのがあって、動物好きが全員同じことをしなきゃならないなんてことはねえ」  俺は視線をテーブルの一点に落とし、唇を噛んで彰久の言葉を聞いていた。耳と目頭が赤くなりそうだった。 「そういった意味では、伊吹くんは何がしたいのかな」  俺がしたいこと。それはもう、五年前に……。 「あのさ。俺……その、例えばだけど」 「うん?」 「例えば近所で飼われてる犬が酷い虐待を受けてたら、家の住人に黙って、自分の家に連れて行ってもいいと思う?」 「………」 「それがもし人間の子供だったら、まずは児童相談所に行くとか色々方法があるだろ? でも、動物の場合ってどうなのかなって……。分かんなくて、咄嗟に……っていう判断もあるかなっていうか、本当に、例えばの話だけど」  彰久はじっと俺を見つめている。その鋭い視線に耐えられなくて、俺は顔を上げることができなかった。  呆れられただろうか。犬泥棒を働いただなんて、幻滅されただろうか。 「例えばの話ってことにしとくけど、……俺的には正解だと思うぜ、それ」 「え……?」  思わず向けた視線の先では、彰久が柔らかな笑みを口元に浮かべていた。 「お前は気に病んでるかもしれねえけど、その犬にとったらお前は楽園の救い主だ。お前がどう思うとかでなく、その犬がどう思うかじゃねえの。誰だってそんな環境にいたら救われたいと思うだろ。それは犬も例外じゃねえ」 「………」 「動物を虐待するような奴と、まともに話したって通じるとは思えねえしな」  テーブルの下で握った手が震えているのは、告白の緊張と彰久の言葉に対する安堵の想いからだ。  彰久の言葉に、こんなにも心が軽くなるなんて――。 「そういえば話変わるけど、伊吹。こないだ言ってた男とはどうなったんだ?」  火照った体を冷ますため、曖昧に首を振りながらグラスの水に口を付ける。すると、彰久が露骨に肩を竦めて更に言った。 「俺の経験上、そういう男に限ってすぐ復縁迫ってきたりするからよ。そろそろ伊吹に連絡してんじゃないかって思ってたんだけど。何か言われても、絶対会うなよ」 「………」  俺は和真から来たメールの内容を思い出し、小さく頷いた。 「もし何かあったら俺に言え。それこそ、できる範囲で何とかしてやる」  どこまで本気で言っているのか分からない彰久の台詞に、少しだけ頬が赤くなる。例え本気でなくても、誰かからこんな風に言ってもらえるなんて初めてのことだった。  吹雪のことも、和真のことも――ずっと、一人で抱え込んできた。誰にも相談できない悩みは、自分だけで抱え込むしかないと思っていた。 「彰久」 「うん?」 「………」 「何だよ、珍しく名前で呼んでくれたと思ったら」  そっぽを向いた俺を見て、彰久が困ったように笑う。  結局、プライドが邪魔をして彰久に礼を言えなかった。言えなかったけれど……言おうと思っただけでも、俺にとっては大きな進歩かもしれない。 「お待たせ致しました」  もしも彰久の言うことが本当なら。本当だったとしたら。 「お、伊吹のハンバーグ美味そう。一口交換しようぜ」  俺の小さなプライドを、少しずつでも融かしてもらえるとしたら――

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