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第11話
「赤パンダか」
出勤して早々、燈司に言われた台詞はそれだった。何のことか分からずぼんやりしている俺に、燈司が壁の鏡を指差す。見ると確かに俺の目は真っ赤になっていた。
「泣いたのか、伊吹。昨日は休憩行ったまま帰って来ないしよう、何かあったのか?」
出勤前、燈司に昨日のことで謝罪のメールをしたのだが、それは『ネットカフェで寝過ごした』という言い訳にもならない言い訳だった。休憩中にネットカフェに行くことも、寝過ごして結局仕事に戻らないなどということも、普段の俺からは考えられない行動だ。それだけに燈司は察してくれて、『混まなかったし、大丈夫』と返してくれたのだが……。
「何か悩んでるんなら、相談乗るぞ」
「……平気。寝すぎて、目が腫れてるだけだと思う」
「一人で溜め込むなよ。俺こんなんだけど、一応はお前の先輩なんだからさ」
「ありがとう、燈司。でも本当に平気だから……」
これ以上燈司に心配かけまいと、俺は強張った顔で無理に笑ってみせた。
「無理だけはすんなよ。伊吹が倒れでもしたら、ここのスタッフ俺一人になっちまう」
多少俺の目が腫れているだけで、いつもと何も変わらない日常風景だ。燈司はだるそうな表情と裏腹に動作はてきぱきしているし、あと十五分もすれば開店時間になる。生体売場からは今日も元気な仔犬達の鳴き声が聞こえてくるし、店内では彰久がスタッフに指示出ししているのも見える。……変わらないんだ、俺の日常は何一つ。
「やっぱし二人だと捗るわ、休憩中の店番も向こうに頼まねえで済むし。早くバイト募集かけてくれりゃいいのに」
「暇な時間が多いから、人件費の問題とか色々あるんじゃないの」
こうやって何気ない会話ができるのは有難い。まだ俺は一人じゃないんだという気になってくる。燈司がこういう性格で本当に良かった。
「伊吹、オモチャの値段が取れかかってる。ラベラー、取って」
……だけど俺には、その燈司にすら相談できない悩みがある。打ち明けても燈司なら笑わないだろうし、むしろ親身になって一緒に悩んでくれるはずなのに。
燈司の性格を理解しているからこそ言えない。いい奴だと分かっているからこそ、言うのが怖い。俺が同性愛者だと告白して、もしも燈司の顔に一瞬でも嫌悪感が表れたら……もう二度と今のような関係には戻れないだろうと思う。
「……伊吹?」
俺は誰とも深く付き合わない。悩みや心の苦しみも、誰にも言わない。
だけど、一人になるのが怖い――。
「伊吹」
「っ……」
咄嗟に俺は燈司に背を向け、レジカウンターの奥にあるラベラーを手に取った。だけど既に遅かったらしく、背後から燈司がこちらに近付いてくる。
「おい、どうした。顔真っ赤だぞ」
燈司に見られたことに対して気が弛んだのか、目尻に滲んだ涙が頬を滑り落ちた。こうなったらもう自分の意思では止めることができず、俺は片手で顔を覆って歯を食いしばった。
背後で燈司の溜息が聞こえる。それからすぐに背中を押され、売場から離れたひと気のない非常階段の踊り場まで連れて行かれた。
「何があったんな。突然泣かれると焦るんだけど」
「ご、ごめん。少し落ち着けば平気だから。別に、何もないから……」
「何もなくて泣くんか。俺にも言えんことなんか」
普段はあまり使わない地元の言葉で、燈司が俺に詰め寄ってくる。それほど真剣に俺のことを考えてくれている証拠だ。喉の奥に異物が詰まったかのように、胸が苦しくなる。
「………」
無言で俺を見つめる燈司に、俺は考えあぐねた末に言った。
「今度、時間ある時に話す。今は無理。時間的にも、気持ち的にも」
「そうか。……じゃ、少しここで気持ちを落ち着かせてから戻って来い」
そう言って燈司が売場に戻ろうとしたその時、「何やってんの?」とフロアから彰久が顔を覗かせた。
「開店準備もしねえで、呑気にサボッてんなよ」
咄嗟に、燈司が俺の泣き顔を自分の背中で隠す。彰久が目を細めて俺を見ているのが分かり、俺は無言で視線を逸らした。
「……そういうことか。テイ、お前先に戻ってていいぞ。伊吹のことは俺に任せろ」
「いや。悪いけど彰久さん、俺の方が伊吹との付き合い長いから分かる部分もあるんです。取り敢えず、今はそっとしといてやってくれませんか」
毅然とした態度で彰久を見据える燈司に、俺は益々俯いた。
「付き合いの長さなら、俺も負けてねえよ」
彰久が燈司の肩を静かに押し退け、俺の腕を掴む。
「それに、こいつを救えるのは今のところ俺だけだ」
「どういう意味ですか」
「言葉通りだ。とにかく、テイは仕事に戻れ」
「でも、……」
燈司が何かを言いかけ、だけど渋々踵を返して売場へと戻って行く。誰もいない非常階段の踊り場で、俺は彰久の顔を見ることができずにただ下を向いて立ち尽くした。
「昨日、何があった」
唐突に切り出された彰久の言葉。そのたった一言で、また泣きそうになる。
俯く俺を見下ろしながら、彰久が呆れたように重い溜息を吐き出し、言った。
「じゃ、質問を変えるぞ。俺にどうして欲しい」
意想外なその言葉に、俺は顔を上げて彰久を見た。だけど何と返したら良いのか分からなくて、すぐに視線を床に戻す。
「辛いんだろ。俺に言えよ」
「別に、俺は辛くなんか――」
言い終わらないうちに、彰久が俺の手首を掴んだ。「痛っ……」そのまま壁に背中を押し付けられ、彰久の顔がぐっと間近に寄せられる。
「手間取らせんなよ。こっちもまだ開店準備の途中なんだぞ」
「……じゃあ、仕事戻れよ。俺のことなんか、構うなっ……」
瞬間、彰久の手のひらが俺の背後にある壁を叩き付けた。その大きな音と間近に迫った彰久の鋭い視線に、思わず体が竦みあがる。
「あ、彰久……」
「耐えることが美学だと思ってんじゃねえぞ、伊吹」
俺は下唇を噛みしめ、彰久の顔を潤んだ目で見つめた。壁に手のひらを付いたまま、彰久が腕を曲げて更に距離を狭めてくる。その肩に両手を置いて押し退けようとしても、力が全く入らなかった。
彰久の低い声が、俺の耳に注がれる。
「泣きたいなら泣けばいいし、肚に溜まってるモンがあるなら吐き出せばいい。俺の前では、意地を張るな」
手を握られ、袖を捲られる。手首に残っていた拘束の痕に、彰久が舌打ちをして顔を顰めた。
「さっき痛がったのはこのせいか。ここまでされて、お前まだ我慢するってのかよ」
彰久の厳しい視線と声に、俺はただ首を振ることしかできない。何か言葉を発したらもう、一切の感情が止まらなくなってしまいそうで怖かった。
胸に抱えた不安を、彰久に話したい。その大きな体に縋り付きたい。だけど、もしもそれで彰久に迷惑をかけることになってしまったらどうなるのか。和真がもし、彰久にまで何らかの危害を加えてきたら。彰久と俺とのことが職場でバレて、前の店長のように彰久がどこかへ飛ばされてしまったら……俺はもう、生きて行けない。
「伊吹」
ゆっくりと、彰久が距離を詰めてくる。
「俺はいつでも手を貸してやる。与えられた機会を無駄にするな。お前が望まなきゃ、こっちは何もできねえんだからな」
「……どうして、彰久は……俺なんかのために、……」
「今更聞くか、それ」
頭に乗せられた大きな手。頬に触れた温かい手。
ずっとずっと求めていた、彰久の手――。
「お前が例の男に何されようと、何を言われて何を勝手に思おうと、関係ねえよ。俺がお前を守ってやる。無条件で愛してやる代わりに、無条件で俺を信じろよ。伊吹」
信じたい。彼を信じて全てを委ねることができたなら、どんなにいいか。その大きな手に守られて眠ることができたなら、どんなに幸せか。
だけど、俺は。
「……そう言ってくれるのは、嬉しいけど。これは俺の気持ちの問題だし、彰久を巻き込む訳にはいかない」
「まだそんなこと言ってんのか。誰の問題だとか、巻き込むとか……そういう次元じゃねえってのが分からねえのかよ」
「分かる訳ない」
低く呟いた言葉に、彰久の顔が一瞬強張ったように見えた。
「だって俺は彰久とは違うんだ。馬鹿だけど人一倍傷付くのが怖くて、誰かを信じるとか好きになるとか、裏切られた時のことを思うと、……もう怖くて仕方ないんだ。俺は、彰久みたいに一直線に走ってられないんだよ」
「………」
「頼むから、今は放っておいてくれ。ここにいてもらったって、彰久の仕事を邪魔するだけだ」
少しの沈黙の後、彰久が苛立ったように髪を掻き毟って俺から離れた。
「マジで分かってねえんだな、お前は。俺が言った『無条件』の意味なんか、ちっとも分かってねえ。本当は自分が一番良く知ってるはずなのに、周りが見えなくて気付いてねえんだ」
そう言ってまた一歩、彰久が俺から離れる。背中が向けられ、また一歩――更にまた、一歩。
少しずつ、彰久が俺から離れて行ってしまう。
「俺が何のためにここに来たかなんて、そのままじゃ一生気付かねえんだろうな」
彰久がいなくなった後、俺は壁に背を預けたままずるずるとその場にしゃがみ込んだ。自分の弱さに押し潰されてしまいそうだった。
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