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「海問題 下鴨康介の提案という名の宣告」
下鴨康介視点。
久道兄の何が気に入らないって「いいことしてます」っていう顔。
誰にとっての何っていうのがすっぽり抜け落ちてる善人面は嫌いな人は絶対に嫌い。
弘子や久道さんの拒絶反応というか、苛立ちとかよくわかる。
オレ自身の気持ちや立場や目的が分かれば人がどう考えているのかだって見えてくる。
弘文がオレに言う周囲を見ろっていうのは自分自身を見ろってことと同じだ。
周囲に合わせろっていうのは言葉通りに自分を殺せってことじゃなくて自分の立ち振る舞いで周囲に合わさせろってこと。
人とぶつかることを前提にして動くのは確かに賢くない。
弘子のやり方は俺の昔の模倣みたいなもので、だからこそ、あのままでいったら、いつか傷つくことに直面するとも思ってしまう。
「オレは亭主元気で留守がいいとかいう謎の風習に興味はない」
「ヒロは気を使ってるよ? 家を空けないようにスケジュールを調整して仕事をこなしてる」
「自分はそんな頑張り屋な弘文を助けてますって話はいい。いらない。オレの方が絶対にうまくできるから」
「そうだね、コー君ってしっかりしてるよね」
微笑みながらあふれ出る小賢しさを隠せていない。
たぶん、オレは久道兄タイプの人間を結構見てきたのだと思う。
弘文をリーダー、トップ、総長なんて言いながら群れをなす人種の中に一定の人数がいたし、子供たちの保護者の中やそこら辺にだっている。
自分の利益のために平気で嘘を吐く人。
自分のプライドを守るために弱者を気取る人。
自分の立場を維持するために他人を蹴落とす人。
そういった人間的でありながら一般的によくないものとされる精神をブレンドして煮詰めたような人格。
人混みという砂場に放り込めば磁石に吸いつく砂鉄みたいに同じ人種を釣り上げられて便利ではある。
ただ、磁石程度が人間に迷惑をかけるなって話だ。勘違いしてもらっちゃ困る。オレは他人からの攻撃を何とも思っていないが、他人から攻撃を受けたいマゾ野郎じゃない。
久道兄は相手に殴らせることで逆に自分を優位に持っていこうとする精神攻撃を得意にしているらしいが、オレは殴られる気はない。そもそも弘文が守ってくれるから殴られたことはない。
オレの精神的な打撃はいつだって弘文から来たものであって、久道兄は関係ない。
不味い食べ物も廃墟での待ち時間も弘文が帰ってくるまでの数時間の淋しさだ。
だから、中高と外で淋しかったことはない。
高校で、学園の中、生徒会室で弘文がオレのことを嫌いで迷惑してるのにつきまとい続けてたんだと思うと泣けてきた。
それはオレの中にあった「弘文にとってオレが一番だ」という確信が揺らいだからだ。
弘文が転校生ばかり構っていると思って感じた淋しさは転校生自体はどうでも良かった。
オレがオレの中にある真実を手放そうとしたから泣かずにはいられなかった。
弘子が朝帰りがどうとか言っていた時もそうだ。
オレは弘文が遅くなったとしても絶対に帰ってくると思っていた。
なぜなら「弘文にとってオレが一番だ」と感じていたから。
その確信が揺らぐとどうしようもなく悲しくなるのだ。
子供を産んだら用済みだと弘文は死んでも言わないだろうけれど、仮にそういった感覚があるのならオレはそれだけで生きていくことを諦めたくなる。家族を作り上げるためのパーツでしかないのならオレはオレでなくても構わない。
オレは存在しなくてもいい。でも、弘文はそうは言わないし思わない。だって弘文だから。長男と次男を産んだからもういいだろと言い出す俺を叱りつけるのが弘文だ。
弘文がオレのじゃないならオレの人生は意味がない。
これまでも、この先も。
そういったオレの切実な気持ちを「よくわからない」で聞き流す弘文だがらこそ、オレは訴え続けるべきだろう。
弘文はオレのものだって言っていい。
「あれですよね」
思い出したように敬語を使うべきかとオレは考えつつ適当に濁す。
「どうでもいい存在として扱われるよりも憎まれたりして記憶に残りたいって人? 居ますよね、そういう人。記憶に残してないので詳しく覚えてませんけど。……久道さんから嫌われて悲しいって思いながら、気にされてるってことが嬉しくて調子乗りました?」
「そんな風に見えた?」
「えぇ、弘文が作った枠組みの中で行動してるのは弘文が自分を恨んだりしないって知ってるからの甘えだっていうのも分かります」
「意外だね。コー君ってそういう人の気持ちに興味ないって思ってた」
逃げたがっているのが見てとれる相手と話を続けるのは以前だったら不毛だと思っていた。
本人が負けを認めているなら解放すれば二度と顔を合わさない。
恥をかかされた相手ともう一度会いたいと思う人間はそんなにいない。
目の前の相手に関してはそうも言えないだろう。
弘子から「もっともっと、もっと言って!!」という圧力が凄い。無言なのに「今ここでちゃんと言って」と伝わってくる。娘がここまでストレスを溜めていたとは知らなかった。あるいはオレ自身がストレスを溜めていたんだろうか。
「弘文が心底、人を憎いと思うことなんてない」
「ヒロは優しいから」
「違う。他人だからだ。弘文にとって怒ったり憎んだりするほどの相手じゃないから。……オレは違いますけどね。弘文に殺されかかったことあります」
殺意のこもった視線をオレは長い間勘違いしていた。
弘文から嫌われたからだって思っていた。
でも、オレだけ特別なんだ。特別だからあんな目で見る。
そう思うと嬉しくて笑いが止まらなくなる。
「殺されかかったって、物騒だね?」
「だから、選択肢をお渡ししようと思います」
「選択肢?」
「弘文に一生、恨まれることをするのと弘文の記憶から消えるのと弘文の役に立つのと何がいいですか」
久道兄が弘文の時間を食いつぶすのなら無能社員としてクビにするべきだが、たぶん、話はそう簡単なことじゃない。
あえて無能に、愚鈍にしているだけで、全部が使えないわけじゃない嘘つき。
本当に使い潰されるぐらいに弘文のために会社を支えているだろう社員たちがかわいそうになる。
チームの人間たちなんてブラックでも、そこに弘文がいるならホワイトに感じるはずだ。
「何を言ってるのかな? 社長になって僕をクビにしないのに、なんでそんなことを」
「すべてにおいてオレのほうが能力が上ですから別に会社に残っていても同じ仕事はまわしませんよ?」
「僕が年上だってわかってる? 僕が何を任されてるかって」
「わかりません。あなたの年齢も仕事内容も知りませんが、問題ありません」
オレの言葉が荒唐無稽なら弘文がさっさとツッコミを入れるはずだ。
ちょっと見ると弘文は寝ている深弘の頭を撫でていた。こちらの話を聞いていないということもありえるが、社長が誰であろうと久道兄の役職や部署がどうなっても小さいことなんだろう。弘文にとっては娘の寝顔を見る方が重要だ。
オレもその感覚はよくわかるので弘子のように「コテンパンにして立ち上がらなくさせるか絶対服従を取り付けるべき」という過激派にはならない。
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