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刻まれた芳香
いくつもの赤色灯が鮮明な視界を奪う。
自分より小柄な警察官からのいくつもの問いに、俺はただ頷く事しか出来なかった。
五分前に見た光景が頭から離れない。
部屋中に振りまかれたコロンのむせ返るような香りが鼻をついて、脳が匂いを記憶した。
到着してすぐ、それは扉の外にまで漂っていた。
何なら一生離れてなんかくれない、見たものすべて、匂いさえもが脳裏にインプットされている。
惨劇を目の当たりにしても尚、信じたくない、忘れたくない、と未だ心が叫んでいて泣けなかった。
自分には何が足りなかったのか。
何もかもを与えてやりたくても、受け取らなかったのはお前の方だろ。 …なぁ、光。
「では、この方と面識はあっても親しくはなかったと?」
「………そうっすね」
「分かりました。 また事情を聞く事があるかもしれませんので、お名前と連絡先の確認を……」
腕ききそうな警察官が取り出したメモ帳に、俺の名前と住所を書いた。 書き慣れたそれさえ思い出すのにやや時間が掛かった。
帰宅を許されても、なかなかそこから動く事が出来ない。
月夜の下、マンションを見上げる。
光の部屋は他と同じ様子で、なんら変わらない。
今にもカーテンの隙間から顔を覗かせて、俺にあの寂しげな瞳を向けてきそうだった。
───帰れってのか。
ここに光を置いて、何もない日々と暗黒の未来に帰れってのか。
お前はどこに行ったんだ。
俺を置いて、どこに行ってしまったんだ。
何も受け取らなかったくせに、何も返してはくれなかったくせに、お前が最期に呼んだのは、面と向かっては一度も呼ばなかった俺の名前だったんだろう?
『あなたはいつも素敵な香りですね』
『光に会う時はこれを身につけて来ると決めているんだ』
『ふふ、あなたは僕の大切なお客様です。 いつもありがとうございます』
『…新品持ってるから、光にやるよ。 それつけて俺の事思い出して。 会えない日も俺は光の傍に居る』
既成概念にとらわれず自由に生きる。
その香水のコンセプトだ。
受け取ったからには、お願いだから、俺の真意を感じ取ってくれ。
約二年に及んだ客としての俺は、何度もお前に愛を伝えたはず。
慈しむように抱き締めたのも一度や二度じゃない。
───だが、諦めてしまったか弱い光は、自身の名のようには生きられなかった。
なぜ男相手に体を売る羽目になっているのか、何に悩んで苦しい微笑を浮かべているのか、何一つ教えてくれないまま俺の匂いに包まれて宙に浮いていた。
真っ白だった顔や手足は青白く変色し、亡き者となってぷらんと浮いていた。
美しい寝顔に見惚れても、触れる事はおろか近付く事すら許されない。
声を聞きたいと願っても、もう二度と叶わない。
俺のではなくなった香りに包まれて、光の残像を追う盲目の一生が始まった。
嫌味なほどの晴天の下、強烈な香りを嗅ぐ度に思い出す。
───そうか。
光は俺に、忘れてほしくなかったのか。
生きていた事を、確かにこの地に存在していた事を、覚えていてほしかったのか。
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