1 / 1

刻まれた芳香

 いくつもの赤色灯が鮮明な視界を奪う。  自分より小柄な警察官からのいくつもの問いに、俺はただ頷く事しか出来なかった。  五分前に見た光景が頭から離れない。  部屋中に振りまかれたコロンのむせ返るような香りが鼻をついて、脳が匂いを記憶した。  到着してすぐ、それは扉の外にまで漂っていた。  何なら一生離れてなんかくれない、見たものすべて、匂いさえもが脳裏にインプットされている。  惨劇を目の当たりにしても尚、信じたくない、忘れたくない、と未だ心が叫んでいて泣けなかった。  自分には何が足りなかったのか。  何もかもを与えてやりたくても、受け取らなかったのはお前の方だろ。 …なぁ、光。 「では、この方と面識はあっても親しくはなかったと?」 「………そうっすね」 「分かりました。 また事情を聞く事があるかもしれませんので、お名前と連絡先の確認を……」  腕ききそうな警察官が取り出したメモ帳に、俺の名前と住所を書いた。 書き慣れたそれさえ思い出すのにやや時間が掛かった。  帰宅を許されても、なかなかそこから動く事が出来ない。  月夜の下、マンションを見上げる。  光の部屋は他と同じ様子で、なんら変わらない。  今にもカーテンの隙間から顔を覗かせて、俺にあの寂しげな瞳を向けてきそうだった。  ───帰れってのか。  ここに光を置いて、何もない日々と暗黒の未来に帰れってのか。  お前はどこに行ったんだ。  俺を置いて、どこに行ってしまったんだ。  何も受け取らなかったくせに、何も返してはくれなかったくせに、お前が最期に呼んだのは、面と向かっては一度も呼ばなかった俺の名前だったんだろう? 『あなたはいつも素敵な香りですね』 『光に会う時はこれを身につけて来ると決めているんだ』 『ふふ、あなたは僕の大切なお客様です。 いつもありがとうございます』 『…新品持ってるから、光にやるよ。 それつけて俺の事思い出して。 会えない日も俺は光の傍に居る』  既成概念にとらわれず自由に生きる。  その香水のコンセプトだ。  受け取ったからには、お願いだから、俺の真意を感じ取ってくれ。  約二年に及んだ客としての俺は、何度もお前に愛を伝えたはず。  慈しむように抱き締めたのも一度や二度じゃない。  ───だが、諦めてしまったか弱い光は、自身の名のようには生きられなかった。  なぜ男相手に体を売る羽目になっているのか、何に悩んで苦しい微笑を浮かべているのか、何一つ教えてくれないまま俺の匂いに包まれて宙に浮いていた。  真っ白だった顔や手足は青白く変色し、亡き者となってぷらんと浮いていた。  美しい寝顔に見惚れても、触れる事はおろか近付く事すら許されない。  声を聞きたいと願っても、もう二度と叶わない。  俺のではなくなった香りに包まれて、光の残像を追う盲目の一生が始まった。  嫌味なほどの晴天の下、強烈な香りを嗅ぐ度に思い出す。  ───そうか。  光は俺に、忘れてほしくなかったのか。  生きていた事を、確かにこの地に存在していた事を、覚えていてほしかったのか。

ともだちにシェアしよう!