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act.01 ”Similar things”
辰巳の目の前を浅黒い肌の男がひとり、通り過ぎた。
何やらブツブツと呟いていたが、日本語ではないその言葉を辰巳は理解が出来ない。ただ、妙に目の据わったその男が気になって思わず立ち止まる。
気付いたフレデリックが辰巳を振り返った。
「辰巳?」
「今の、何か妙じゃなかったか?」
訝し気に呟く辰巳の視線を、フレデリックのそれが追う。そこには、背を丸めるようにして歩く男の姿があった。
確かに言われてみれば、どことなくフラフラとした足取りが妙ではある。
「あの男の事かい?」
「ああ。何かブツクサ言ってやがったが、妙に目が据わっててよ」
ふぅん…と小さく唸り、束の間考えるような素振りを見せたフレデリックがにこりと笑う。
「ねえ辰巳、この先には何があると思う?」
唐突にフレデリックがクイズのように問いかけた。
だが、そんな事を聞かれても辰巳には分かるはずもない。「知る訳ねぇだろう」と素っ気なく答える辰巳にフレデリックは楽しそうに笑ったのである。
「教会」
「あぁん? そんなもんまであんのかよ」
「教会って言っても、別に懺悔をするための場所じゃなくて、結婚式に使うんだけどね」
そう言ってフレデリックは胸元から携帯電話を取り出すと、どこかに電話をかけ始めてしまう。
相手は日本人ではないらしく、フレデリックの口から流れ出る英語を辰巳がぼんやり聞いているうちに男の背中は緩く描くカーブの先に消えてしまった。
やがて通話を終えたフレデリックは、無言のまま辰巳を上から下まで眺め回した。「まあいいか…」と、そう呟いて辰巳の腕を引く。
そのまま男の向かった方向へと歩き出されて、辰巳の口から慌てたような声が零れ落ちた。
「おい…っ」
「行ってみようか」
そう言ったフレデリックの口調は楽し気で、その時点で辰巳は状況を把握してしまった。…気がする。
フレデリックがこう、妙に浮かれたような、楽しそうにいう時は、だいたいがトラブルだと相場が決まっているからだ。とは言えど、先ほどの男は辰巳も気になる。
さっきの男と教会がどう繋がるのか辰巳には分からないが、フレデリックの中では何かが繋がったのだろう。フレデリックは、自分などより頭の回転が速いと辰巳は思っている。
腕を取られたまま連行されて辰巳の眉間に皴が寄った。
「わかったから腕放せフレッド。歩きにくくて仕方がねぇよ」
辰巳が言えば、フレデリックは素直に腕を放した。
少しだけ縒れた袖を直しながら辰巳が問いかける。
「つぅか、どこに電話してたんだ?」
「式の予定を聞いてたんだよ」
何の式かなどという愚問は、もちろん辰巳がするはずもない。
「それで?」
「今、ちょうど挙式が行われてる」
「はぁん? この先ってのは、教会しかねぇのかよ?」
「うん。一応通路はあるけれど、挙式中は関係者以外は抜けられないようにしていてね。というか、挙式中の教会には、行くにも出るにもここを通るしかないという訳」
この船の中の事について、フレデリックの言っていることが間違っている筈はない。つまりあの男の目的地は教会という事だ。
友人や知人の結婚を祝うような雰囲気では、もちろんなかった。とすれば、あの男には他に目的があるという事になる。
フレデリックが辰巳を眺めまわしたのは、大方服装でもチェックしていたのだろう。辰巳は、一応スーツを纏っているもののネクタイは着けていなかった。
妙な事になったものだと、辰巳はガシガシと頭を掻く。
今しがた男の背中が消えた通路を進み、緩やかなカーブを曲がるとガラス張りの吹き抜けの下に本物の教会が建っていた。教会を含め、まるで屋外であるかのように植え込みが配置されたその空間に、辰巳は驚きを隠せない。
小規模だが本物の庭園のような空間。教会の前には、華やかに着飾り談笑する列席者たちの姿がある。
フレデリックはそれを横目に、通路のすぐ横に立つスタッフへと声を掛けた。
「お疲れ様。今しがた、ここに男性が一人入って来なかったかい?」
思わぬ人物の登場に、スタッフが驚きの声を上げる。それに苦笑を漏らして、フレデリックは小さく肩を竦めながら男の行方を問いかけた。
「男性でしたら先ほどあちらの方におひとり…」
スタッフが指した先には東屋のような小さな建物があった。少しだけ奥に配置されたその手前には、植え込みが配置されている。
微笑みながらスタッフへと礼を告げて、フレデリックが辰巳を振り返る。
「行こうか」
辰巳が足を踏み出したちょうどその時、教会の扉が開くのが見えた。
中から新郎新婦が姿を現してわっと歓声が上がる。その時にはもう、辰巳とフレデリックは人垣のすぐ後ろまで移動していた。
新郎新婦を取り囲む列席者の右手、東屋の方向に辰巳は浅黒い肌の男を発見する。男の手に握られている物を見て、辰巳は短くフレデリックを呼んだ。
「僕が行こう。辰巳は、万が一の時のためにここに居て」
そう言って、フレデリックが音もなく走り出す。
辰巳は言われた通り、男と列席者たちの間に立った。といっても、万が一など起きようはずもない事は分かっている。刃物を持っていようが、男はその場でフレデリックの手によって取り押さえられるだろう。そんな確信が辰巳にはあった。
美しい花嫁と幸せそうな新郎に気を取られている列席者たちが、辰巳とフレデリックの動きに気付いた様子はなかった。もちろん、新郎新婦も。
どこか遠くに聞こえる歓声の中、フレデリックが男のもとに到達する。
鮮やかとしか言いようのない動きで男の手を捻り上げると、同時にフレデリックは男の口許を大きな手で塞いだ。
式への配慮と一切無駄のない動きに、様子を見ていた辰巳は思わず小さく口笛を吹いた。
辰巳がフレデリックの元へと合流すると、スタッフが困ったように肩を竦めて近付いてくる。その足取りもごく自然なもので、新郎新婦や列席者の気を引く事はない。
この程度のトラブルは日常茶飯事だとでもいうように、やってきたスタッフはフレデリックに肩を竦めてみせた。
「さすがですね、キャプテン」
「セキュリティーに連絡を。右舷側の通路で引き渡すと伝えてくれ」
「かしこまりました」
フレデリックが短く伝えれば、小型の無線を使って遣り取りをしながらスタッフはさっさとその場から立ち去ってしまった。
辰巳がフレデリックとともに建物の裏手へと回ると、通路にはすでに一目でセキュリティーだと分かるスタッフが数名立っている。交わされる遣り取りは簡潔で、引き渡しはすぐに済んだ。その対応の早さに辰巳は舌を巻く。
挙式中は閉鎖しているというだけあって、ひと気がなく静かな通路をふたりはそのまま進んだ。
フレデリックが、ありがとうと微笑む。
「別に俺は何もしちゃいねぇよ」
「あの男に辰巳が気付いてくれなかったら、今頃誰かが刺されていたかもしれない。そうならなかったのは、キミのおかげだよ」
「俺は妙だって言っただけだぜ。あとはお前が全部やった事だろ」
相変わらず勘が鋭いというか、先を読むことに長けた男だと辰巳は感心する。
確かに、通路の先に何があるかなど辰巳には分からない事だったが、例えそれを知っていたとしてもフレデリックのように即座に予定を調べるなどという行動には及ばないだろう。
辰巳の場合は、妙だと思えばただ追いかけるだけだ。要は単純なのである。
ましてフレデリックは、男の後ろ姿を見ただけだった。それだけで何かが起きるかもしれないと、どうして予測できるのか。それを言えば、フレデリックはクスクスと声をあげて笑った。
「だって、辰巳が妙だなんて言うのに放っておける訳がないじゃないか。キミの勘は鋭いからね」
「そりゃあ信用してくれてありがとうよ」
勘と言われてしまえばそれまでだが、確かに辰巳は妙に胸騒ぎだったり確信だったり、そういう第六感みたいなものを感じる事はある。もちろん根拠はない。
それを自分で上手く活かせるのなら大したものだが、実際は何の役にも立っていないから困るのである。今回のようにフレデリックがいれば、話は別だが。
「しかしまぁ、船ん中にあんなもんまであるとは思わなかったぜ」
「教会の事かい?」
「ああ」
辰巳は教会の内部を再現したような場所があるものだとばかり思っていたのだ。そう大きくはなかったが、まさか建物がまるまる船の中にあるとは思ってもいなかったのである。
大型客船『Queen of the Seas』。豪華客船などとは無縁の生活を送ってきた辰巳にとってこの船は、本当に驚かされる事ばかりだ。
「ねえ辰巳」
フレデリックが、辰巳の袖を引く。
「あそこで、ふたりだけの結婚式をしようか」
「あぁん? またとんでもねぇ事を言いだすんじゃねぇよお前は…」
勘弁してくれと、辰巳は額に手を遣った。経験上、言い出したら実行してしまう節があるのがフレデリックの厄介なところだ。
いくら付き合っているとはいえ、男ふたりで挙式など辰巳には想像もできない。
「ふたりきりで挙式なんて、ロマンチックだと思わないかい?」
「思わねぇよ」
即座に辰巳が否定すれば、フレデリックは拗ねた素振りを見せながらも耳元に囁いた。
「照れなくてもいいんだよ? 僕の可愛い子猫ちゃん♪」
相変わらず揶揄うようなその言葉に、辰巳は立ち止まってフレデリックを見る。
「一度、本気でぶん殴ってやろうか?」
「辰巳…目が本気になってるよ…」
「おう。お前には本音しか言わねぇって約束したからな」
にやりと、辰巳が口許を歪めて嗤えば、今度はフレデリックが頭を抱える番だった。
いつもなら子猫ちゃんなどと言われれば顔を顰めて「うるせぇよ」などと返す辰巳だったが、たまにはやり返すのも悪くない。妙な唸り声をあげるフレデリックを満足げに見遣って、辰巳は喉の奥で小さく嗤うと追い打ちをかける。
「本当にお前は可愛いなぁ、フレッド」
「ッ……!」
普段自分が言う台詞を真似する辰巳の腕を、フレデリックは引っ掴んだ。
「ったく、急に引っ張ったら危ねぇだろうが…」
引きずられそうな勢いに、辰巳は苦笑を漏らす。相当お怒りなのか、それとも喜んでいるのかは分からないが、黙ったまま大股で歩くフレデリックに腕を引かれては、力で敵わない辰巳はついていくしかない。
あっという間に部屋まで連行された辰巳は、その勢いのまま寝台に転がされた。
大した体格差もないというのに、フレデリックのどこにそれだけの力があるのかいつも不思議に思う。そのまま整えられた寝台の上に縫い付けられ、見下ろされて辰巳は困ったように呟いた。
「そんなに怒るなよフレッド。色気が倍増してんぞ」
「煽ったのは、辰巳だよ」
「そんじゃ、責任取って付き合うしかねぇなあ」
辰巳が首に腕を回して引き寄せるまでもなく、フレデリックが覆いかぶさってくる。
衣服を身に着けたまま躰をまさぐられるその行為は、辰巳にとっては初めての事だった。いつもであれば、服など即座に脱ぎ捨てている。
「んっ…待、服…っ」
「安心して辰巳。僕が、ちゃんと脱がせてあげるよ」
上体を起こしたフレデリックに腕を引かれ、辰巳もまた同じように起き上がる。向かい合い首筋に噛みつき、時折口付けを交わしながら、フレデリックは宣言通り辰巳の服を一枚一枚剥いでいった。
いつもとは違うその流れに、辰巳は思わず羞恥に駆られる。普段裸体を曝す事など気にした事もなかった筈なのに、こうして他人の手で肌を露わにさせられると、どうしてか気恥ずかしい。
ましてフレデリックは、スーツを纏ったままだ。
「っお前も、脱げよ…フレッド」
辰巳の声が、低く掠れる。
「もちろん」
短く応えて、フレデリックが辰巳の目の前で上着を脱ぎ捨てる。ゆっくりと見せつけるように服を脱いでいく男の色気は壮絶だった。徐々に露わになっていく引き締まった躰がやけに艶めかしい。
思わず視線を彷徨わせる辰巳に、フレデリックがくすりと笑う。
「意識しちゃったかな? 辰巳は本当に…可愛いね」
「お前は…本当に質が悪ぃな」
「可愛いって……言ったくせに」
トンッ…と軽く肩を押され、再び寝台の上に捕らわれる。首筋を彷徨っていたフレデリックの唇が胸元に下がり、辰巳は目を見開いた。小さな突起を口に含まれる。
辰巳は、そんな場所を弄られて感じた事はない。普段フレデリックに弄られたこともない。
「女じゃねぇ…んだぞ」
「知ってるよ。…でも、気持ち良いのは……好きだろう? 辰巳?」
「ッ…胸で…気持ち良くなった事は、一度もねぇよ」
「そう……かな?」
辰巳の胸の小さなしこりを食んだまま、見上げるフレデリックの口許が歪む。
べろりと見せつけるように舌で突起を押し潰されて、悪寒にも似た感覚が辰巳の背筋を這い上がった。
フレデリックの舌によってもたらされるその感覚は、辰巳が初めて経験するものだ。
初めはこそばゆいような取るに足りない感覚が徐々に形を持ち始め、気付いた時には下肢に熱が集中していた。
片方を口に含まれ、片方をフレデリックの長い指が摘まむ。いつの間にか性感帯へと作り替えられた胸元を刺激される度に、辰巳の口からは嬌声が漏れた。
「ぅっ…、っく…ぁ」
辰巳の背が撓り、腹筋が艶めかしく隆起する。放置されたままにもかかわらず硬く勃ち上がった屹立から、とろりと雫が腹に滴った。
―――嘘…だろ…?
辰巳とて胸を弄られるのが初めてという訳ではない。女に舐められる事はあっても、気持ちよくなった事など一度もなかった。…それなのに。
どうしてか嬌声を堪えきれない程に気持ちが良い。
「あッ、…フレ…ッド…、それ…ッいい…」
「本当に…キミは素直で可愛いよ、辰巳」
そう言ったフレデリックは、その長い脚で辰巳の下肢を擦り上げた。快感に仰け反る辰巳の首筋に食らいつきながら喉の奥で嗤い、低く囁く。
「欲しくなってくれたかい?」
「…っならねぇ……訳がねぇだろ。…寄越せよ、早く…」
にこりと微笑んでフレデリックは軽々と辰巳の躰を反転させると、その膝を立てさせた。高く上がった辰巳の後孔に舌を這わせる。もう幾度も受け入れる事に慣れた蕾はすぐに綻び、欲しがるように収縮を繰り返す。
フレデリックは満足そうにその様子を見遣ると、自身の熱棒をあてがった。腕の中で、辰巳の腰がピクリと反応する。
まるで期待するようなその動きにクスリと笑い、望み通り辰巳のナカへと推し挿った。
「っぁ、――…ッッ! フ…レッド……っ、気持ち良…ッ」
「僕も…気持ちがいい…よ、辰巳…」
ぐるりと内壁を掻き回し、辰巳の胸へと手を伸ばす。指先に触れた突起を軽く擦り上げ、捏ねるように押し潰せば、辰巳の口からくぐもった嬌声が漏れた。
「ぅっ……ふっ、…ぁ…」
寝台に突っ伏して声を殺す辰巳の姿が、フレデリックの欲情をそそる。自身を抜き差しする度に辰巳の腰が引き締まり、蠢く媚肉がフレデリックの熱棒を締め付けた。
正直なところ、辰巳が胸でここまで感じるのはフレデリックにとっても嬉しい誤算である。それを思えば、嗤わずにはいられなかった。
指先を押し返すように硬く尖りきった粒を摘み上げる。少し引っ張るだけでもゆるりと頭を振る辰巳の姿がとてつもなく愛おしい。どうしてこう、この男はフレデリックを夢中にさせるのが上手いのか。
無理をさせたくないと思いはするものの、反面泣き叫ばせたい欲求が鬩ぎ合う。
辰巳に低く掠れた声でもうやめてくれと懇願されればされるほど、フレデリックはもっと啼かせたくなってしまう。自分を、抑えきれなくなる。
「っは…やく…ッ、動け……フレ…ッド…」
―――ああ…堪らない。これで、止まれる訳が…ない。
フレデリックに欲望の箍を外させるのは、いつだって辰巳の方だ。
自ら胸を押し付けるように背を撓らせる辰巳の躰を、フレデリックは易々と抱え上げた。
自重で奥を抉られ呻きをあげる辰巳の手を壁につかせて、フレデリックはクッと喉の奥で小さく嗤う。
本格的に捕食を開始したフレデリックの突き上げに、塞ぐもののなくなった辰巳の口から悲鳴にも似た嬌声が迸る。
吐き出してもなお萎える気配のない雄芯を引き抜くことなく、フレデリックは思うさま辰巳の躰を貪った。
乱れに乱れきった寝台の上に躰を横たえて、辰巳はぼんやりと天井を見上げた。そういえば前にも一度こんな事があったな…と、そう思い出す。
―――あー…あん時ゃうつ伏せだったっけか…。
今と同じようにフレデリックに抱き潰されて躰を起こす体力もなくシャワーの音を聞いていた記憶がある。そう、遠くない記憶だ。
自分たちはどうしてこう、起き上がる気力もなくなるほど励んでしまうのか…と、そんなくだらない事を考えたところで無駄だった。そんなものは気持ちが良いからに決まっている。
三十八という年齢の割に、辰巳もフレデリックも無駄に体力を持て余している上、性欲も有り余っているから手に負えないのだ。挙句とめる者さえ存在しない。
辰巳は大きく息を吸い込んでから腹筋に力を入れて上体を起こす。寝台の上に胡坐をかけば、どろりとナカから滴る体液に辰巳は思わず顔を顰めた。
「ッ……気持ち悪ぃ…」
顔を顰めて一言そう呟く。辰巳は素足のまま床に降り立った。
ちらりと今まで自分が身を置いていた寝台を見やって溜め息を吐くと、ガシガシと頭を掻きながら辰巳のナカに注ぎ込んだ張本人がいるであろう浴室へと足を向けた。
予想通り中から水音が聞こえて、声を掛けながらドアを開ける。
「入るぞ」
立ったまま髪を洗いながらフレデリックがちらりと振り返った。
「大丈夫かい?」
余分な気遣いを含まないその声までもが再現されて、思わず辰巳は苦笑を漏らす。相変わらず目の前にある躰は美しい筋肉を纏っていて、嫉妬してしまいそうなほど綺麗なものだ。
「大丈夫じゃねぇよ。ちょっとは加減しろ」
「僕を煽るからいけない」
「俺のせいだって言うのかよ?」
「無論だね。辰巳にあんな声で啼かれたら、抑えきれるはずがない」
言いながら髪を流し終えたフレデリックに腕を引かれて、辰巳は反論する間もなく降り注ぐシャワーの下に引きずり込まれた。そのまま後ろから抱き締められる。
この男はあれだけ辰巳を攻め立てておきながら、どうやらまだ足りないらしい。辰巳の右肩に顎を乗せたフレデリックが、首筋に噛みつきながら低く囁く。
「どれだけ辰巳が魅力的か、キミは知らなすぎるよ」
フレデリックの言い方は、まるで他人の事を言っているように辰巳には聞こえた。
左腕で腰をホールドされたまま右手で頤を捉えられる。長い指先が喉元に滑り落ちて、擽るように動いた。そのまま首でも絞められそうな雰囲気だ。
フレデリックを纏わりつかせたまま、辰巳は煽るように上を向いて首元を仰け反らせてやった。熱い飛沫を顔に浴びながら辰巳が喉を震わせる。
どうにも、抗えないから始末に負えない。
「魅力的、ねぇ…。どっちがだよ、ったく」
自分などより良い躰をしておいて何をぬかすかと、辰巳は嗤う。
現に今も、ぴたりと背中についたフレデリックの胸を離すことが出来ないでいる。腰を捉える腕も、指先で喉元をまさぐっている腕も、辰巳の力では振り解くことが出来ないというのに。
「俺は、お前には敵わねぇよ」
人の躰を拘束しておきながら今にも絞め殺しそうな殺気を出しておいて、そのくせ色気があるものだから手に負えない。フレデリックがその気になれば、辰巳など何の抵抗も出来ずに殺されそうだ。
フレデリックが、首筋に長い指を這わせながら辰巳に問う。
「僕が怖いかい? 辰巳」
「ああ、怖ぇな」
「本当にキミは素直だねぇ」
クスクスと笑いながら腕を解かれ、辰巳は小さく息を吐いた。
「お前は本当に心臓に悪ぃ男だよ」
「たまに、不安になるんだ」
「勘弁してくれフレッド。不安になる度に殺気立たれたんじゃ、俺の身がもたねぇよ。色気出すか殺気出すかどっちかにしろよお前は…」
「死ぬかもしれないと思うと興奮するのは、動物の本能だよ」
そう言ってフレデリックは辰巳を浴槽の縁に座らせると、脚の間に膝をついた。衒いもなく辰巳の中心で硬く勃ちあがったものを飲み込んでいく。
「わざわざ死ぬかも知れねぇ思いしなくても、枯れちゃいねぇんだから勘弁しろよ」
「んっふ。…嫌いじゃないくせに……」
「それは、お前が…だろぅ?」
咥えながら見上げるフレデリックの金糸の髪に無骨な指を差し込んで、辰巳は無造作に手を押し下げる。
「ッぐ…、ぁ…ぅっ」
「そんなに欲しけりゃ奥まで飲み込ませてやるよ」
突然に無理矢理喉の奥まで突き入れられて、フレデリックの目に涙が浮かぶ。太腿に添えられた長い指にギリギリと力が入って、辰巳はくつくつと喉を鳴らした。
息が出来ないように、自身の屹立でフレデリックの口腔を塞いでやる。
やがて太腿を掴むフレデリックの指先から力が抜けて抵抗する気力もなくなった頃、ようやく金糸の髪を掴んでいた手を辰巳は引いた。
硬いままの屹立が引き抜かれ、両手をついて喘ぐように空気を貪るフレデリックをじっと見下ろす。
「興奮したかよ?」
「っ…ぅ、…ゲホッ……最高にッ、ね……ぅっ」
「ハハッ、お前には本当に敵わねぇな。欲しけりゃ壁に手をつけよ。くれてやんぜ?」
辰巳が嗤えば浴槽の縁に手をついてフレデリックが立ち上がる。壁に両手をつくフレデリックの背中は、惚れ惚れする程に美しかった。
背を向けたまま、フレデリックが掠れた声で強請る。
「欲しい…。辰巳…」
ゆらりと立ち上がり、解しもせずに辰巳はフレデリックの後孔を貫いた。反射的に逃げを打つフレデリックの腰を掴んで無遠慮に突き上げる。
唐突に入り込んだ異物を排斥しようとするする抵抗は、僅かなものだ。
「んぐッ、―――…ッ!! ァ…はッ、ぅ…っく」
硬い壁に爪を突き立てて、フレデリックの全身が硬直する。脚の間からボタボタと滴る体液に、辰巳は小さく嗤った。
フレデリックが詰めていた息を吐く。筋肉が隆起する度に背骨に沿って深く窪む谷間が辰巳の欲情をそそる。
「アッ…っぅ、ンッ」
ツ…と、背中を辰巳の武骨な指先が滑る。たったそれだけでフレデリックは吐息を漏らした。
辰巳が与えてくれるものならば、苦痛でも快楽でもフレデリックには同じ事だった。そのすべてが気持ち良い。
「んっ……気持ち…良い…よ……辰巳…」
「相変わらず、お前はマゾだな。そんなに痛ぇのが好きなのか?」
「ちょっと…んっ、違うかなぁ……。ッ苦痛は…嫌いじゃないけどっ…ね」
額を擦りつけるように壁に縋り付いて言いながら、フレデリックは自らの腰を揺らめかせる。
「俺にはお前が変態だって事しかわからねぇな」
「そう…だね。キミがくれる苦痛なら、僕は……気持ち良く…なれる。ッ、試して…みるかい…?」
嘲るようなフレデリックの笑い声。狂気をはらんだその笑い声に、辰巳の背筋がぞくりと騒めく。
壁に両手をついたまま、フレデリックが上体を起こした。天井を見上げるように首を仰け反らせて静かに懇願する。
「っぁ、……んッ、首を絞めて…辰巳」
フレデリックの望み通り、辰巳はその指を首筋に巻きつけた。じわりと締め上げながら、ナカを抉る。
気持ち良さそうに襞が収縮して、本当にフレデリックが感じているのだと辰巳は思い知らされた。
「っぅ…ぁ、…っ、ぁっ、…ぁ」
苦しそうな息遣いに快感が混ざり合う声は、艶めかしく辰巳の耳を刺激する。最奥を抉りながら後ろからうなじを舐め上げると、フレデリックは躰をびくりと跳ねさせた。
フレデリックの全身が硬直し、同時にナカの媚肉が蠕動して辰巳の屹立をぎゅうぎゅうと締め付ける。
「お前…っ」
「ッ…は…ぁ、…かは…っ、ぅ、んんッ」
「っ!? ……マジかよ…」
フレデリックの雄芯からボタボタと白濁が滴り落ちて、躰がゆっくりと弛緩していく。
思いもよらぬ達しかたをしたフレデリックに、茫然と硬直していた辰巳が指を解いた。喘ぎともつかない声を漏らして呼吸をする姿が艶めかしい。
腰を引いてずるりと屹立を引き抜けば、フレデリックは放心したようにその場で静かにくずおれた。
◇ ◆ ◇
思うさま淫楽を貪り眠りについた二人が目を覚ましたのは、翌日の昼をとうに過ぎた時間だった。船内でさすがに窓は大きくないが、そこから差し込む日差しは辛うじて昼の色である。
辰巳が目を開けると、すぐ目の前で胸に乗っている金糸の髪がさらりと揺れた。
「んっ……おはよう、辰巳…」
「あー…、おはよ…」
目を覚ましたものの未だ眠そうに目を擦る辰巳の唇に口付けを落として、フレデリックが立ち上がる。そこには昨夜の疲れなど微塵も残ってはいなかった。
カウンターキッチンでコーヒーを淹れるフレデリックを、辰巳はぼんやりと見つめる。
二つのマグカップを手にフレデリックが寝台の端に腰掛けて、ようやく辰巳は躰を起こす。辰巳は、寝起きが悪い。
寝台の上に胡坐をかく辰巳に片方を差し出そうとして、フレデリックはふと手を止めた。
「辰巳、コーヒー……の前に、煙草かな?」
「いや、それでいい」
煙草を取りに再び立ち上がろうとするフレデリックに、辰巳が手を差し出す。フレデリックはにこりと微笑んでマグカップを手渡した。
カップを受け取ってコーヒーを飲むものの、やはりどこか辰巳は手持無沙汰に見える。苦笑を漏らしたフレデリックは再び立ち上がると、煙草と灰皿を手に寝台へと戻った。
クスクスと笑いながら差し出されたそれを受け取って、辰巳がガシガシと頭を掻く。その様はまるでうだつの上がらないおっさんそのものである。
「素直に言えばいいのに」
「はん? 言わなくても持って来いよ」
当然の如く言い放つ辰巳に、フレデリックがごめんごめんと朗らかに笑う。
フレデリックが普段怒るところを、辰巳は見たことがない。嫉妬はあっても、辰巳がどんな暴言を吐こうともフレデリックは怒らないのだ。
辰巳などはむしろ短気ですぐに怒鳴るタイプである。だが、辰巳が怒鳴ったところでフレデリックが怒鳴り返すような事は十一年で一度もなかった。
不意に、疑問が湧く。
「お前よ、なんで理不尽な事言われても怒らねぇんだ?」
「どうしたんだい急に」
辰巳は、上手く話の流れで何かを聞く事などできない。それはもう昔からの事で、気になったものはすぐに聞いてしまう。しかも、ストレートに。
思えばフレデリックと出会った時からそれは変わっていなかった。
「気になったから聞いてるだけだがよ」
「うーん…。そうだなぁ、辰巳に関して言うなら、辰巳がそういう性格だって分かっているから…かな」
「わかってりゃ怒んねぇのか?」
ふぅ…と、辰巳は煙を吐いた。思えばこうしてフレデリックとゆっくり話をした事もないと気付く。いくら十一年付き合っていると言っても、フレデリックと辰巳が会うのは基本的に三ヵ月に一度のペースだ。会えない時ももちろんある。
世界中の海を旅する船乗りであるフレデリックが日本にいる時間は短い。長年付き合っているといっても、この二人の十一年は、思う程長くはなかった。
一度だけ訳あって数ヵ月程フレデリックが日本に滞在した事はあるが、その時はまだ、フレデリックの何かを知ろうという気持ちが辰巳にはなかったのである。
「怒らないというか、怒ってても気付かれないだけだと思うよ」
「はぁん? 怒ってる時もあんのかよ?」
「もちろん。辰巳には…普段はないけどね」
フレデリックがわざわざ”普段は”などと言う理由は、辰巳には分かる。
九年前に一度、辰巳はフレデリックの手で銃口を突き付けられた事があった。本人は嫉妬だと言うが、きっと怒りもあったのだろうと思えば納得もいく。
「あん時以外にはねぇって事かよ?」
「そうだねぇ…。辰巳は、甲斐と初めて出会った時の事を覚えているかい?」
この二人が甲斐という青年…と言っても当時の甲斐は十六歳だったが、彼と出会ったのも九年前だった。甲斐は年の割に尊大な態度と、年に似つかわしくない口調の持ち主で、今は随分と大規模な企業グループのトップに立つ男だ。
「ホテルでの事なら覚えてるぜ」
「あの時は、少し怒ってたかな…どれだけこの子は子供なんだろうって、思ってた」
「あぁん? あん時お前怒ってたのかよ…」
呆れるように辰巳が言うのも尤もで、その時フレデリックは『本当にキミは子供だね』と、そう言っただけである。
小馬鹿にしているような口調と表情ではあったが、どこをどう見ても怒っているような素振りではなかったはずだ。
「あー…駄目だ。俺にはわかんねぇよ。どう考えても怒ってるようには見えねぇ」
「ふふっ、だから言ったじゃないか、気付かれないだけだよ。コーヒーのおかわりは要るかい?」
「ああ、頼む」
差し出した空のカップを持って立ち上がるフレデリックの後ろ姿を見ながら、辰巳はガシガシと頭を掻いた。火を点けた煙草を咥え、自身の膝に肘を置いて顎を乗せる。僅かに斜めになった視界の中で、フレデリックがコーヒーを注いでいた。
フレデリックは、不思議な男だと思う。昔から得体の知れない部分は確かにあったが、素性を知ってしまえば腑に落ちる。だが、それとは別に、普段が穏やか過ぎるのだ。
カップを二つ手にして戻ってきたフレデリックが苦笑を漏らす。
「本当に、今日はどうしたんだい? 急に色々聞き出したりして」
「あぁん? 悪ぃかよ」
「悪くはないけどね。ちょっと…びっくりはしてるかな」
驚いているというよりも困惑しているに違いないその表情に、辰巳も納得する。それだけ、自分はこの男に今まで何かを聞いたこともないという事だ。
聞かずとも分かる部分は確かに多い。というより辰巳も辰巳でフレデリックと同じように、こいつはそういう人間なんだろうと自己完結してしまうのだ。
そんな二人が一緒にいれば、あまり会話がないのも仕方がない事なのかもしれない。今更、見合いのように何が好きで何が嫌いかなど聞き合うには、時間が経ちすぎている。
「そんなに見つめられると、どうしたらいいのか分からなくなるよ辰巳? 穴が開いてしまいそうだ」
「はん? いつも俺の事をじろじろ見てる奴に言われたかねぇな」
「僕がいつも辰巳を見てるのは普通だけど、辰巳はそうじゃないから困るんじゃないか」
至極尤もなフレデリックの台詞に、辰巳が黙り込む。その様子にフレデリックはクスクスと声をあげて笑った。
「まったく、急にどうしたのかと思ったよ。そんなに僕の事を辰巳が知りたがっているなんて、思ってもみなかった」
「悪かったな、いつも急でよ」
「拗ねる事はないだろう? 僕は、嬉しいよ?」
こうして穏やかに微笑むフレデリックには、マフィアとしての裏の顔がある。
辰巳は、フレデリックが人を殺めるところを実際に見た事はない。だが『僕が全部殺した』と、そうフレデリックが言う事に疑問は沸かなかったし、むしろ納得してしまったのである。
こいつなら、遣りかねないと。
九年前に辰巳が見た光景は、まるでホラー映画やゲームの世界が現実に再現されたような、異様としか言いようのないものだった。そんな中で、フレデリックは辰巳に銃口を向けて嗤っていたのだ。クスクスと声をあげて。
それが辰巳にはとても無邪気に聞こえたのである。
今辰巳の目の前で穏やかに笑っている男が持つ、もうひとつの貌。
だからと言って、辰巳はフレデリックとの関係を断ち切るつもりは毛頭ない。むしろ、知りたいと、そう思ってしまったのだ。
「どうしたんだい? 色々聞いてたと思ったら今度は黙り込んで」
「何でもねぇよ」
「そんなに真面目に僕の事を考えてたのかい? 可愛い子猫ちゃん♪」
「あー…はいはい。子猫でも何でも構わねぇよ」
辰巳がそう投遣りに言えば、フレデリックが困ったような顔をする。
「その返しは…好きじゃないなぁ…」
「あん?」
「それなら馬鹿とか阿呆とか言われる方がいい」
「あぁん?」
フレデリックの言う意味が、辰巳には理解できない。返しがどうだというのだ。
「訳がわかんねぇよ。罵られてぇとかお前はマゾか? いや、マゾなのは知ってるがよ…」
「違うよ辰巳。さっき言っただろう? 僕だって怒る時はあるよ。辰巳に適当にあしらわれるのは…好きじゃない」
困ったような顔をして怒っていると言うフレデリックは、確かに怒っていても気付かれないのかも知れなかった。だからこうしてわざわざ怒っていると言っているのだろう。
そんなフレデリックがどうにも可愛くて、思わず辰巳は笑ってしまった。
「くくっ、そうかよ、わかった悪かった…くっ、…だがなぁ、フレッド。そういうのは、怒ってるって言うんじゃなくて、拗ねてるって言うんだよ馬鹿」
押し黙るフレデリックの横で辰巳が腹を抱えて笑っていれば、不意に伸びてきた腕に持っていたマグカップを攫われた。
空のカップを放り投げたフレデリックに、あっという間に腕の中に捕らわれてしまう。易々と辰巳を押し倒したフレデリックが、耳元で愉しそうに囁く。
「笑い過ぎだよ辰巳。いけない子猫にはお仕置きが必要…かな?」
「はぁん。お前は、俺に怒るとこういう事をする訳だな。昨日あんだけヤっといてまだ足りねぇのかよ?」
「まさか。さすがに、そこまで盛りがついてる訳じゃないよ。ただ、こうして辰巳に触れていたいだけ」
思えばフレデリックは、何かしつこく嫌味を言ったりするとこうして辰巳に過剰に接触してくる事がよくあった。きっとそれがフレデリックなりの怒り方…というより、誤魔化し方なのだろうと辰巳は気付く。だが、問題はそこではない。
「盛りがついてねぇのは有り難ぇんだがよ、”触れる”ってのには…些か語弊を感じるんだがなぁ」
うん? と、案の定小首を傾げるフレデリックの表情に、辰巳は苦笑を漏らした。
この男は、本当にわかっていないのだ。今、自分が自覚なく何をしているのか。そう思えばフレデリックが可愛く見えてしまうから重症だ。
「お前は分かってねぇかも知れねぇが、お前が今してんのは拘束っつぅんだよ。悔しいが俺はお前にこうやって抑え込まれたら動けねぇ。相手身動き取れなくさせんのは、触れるとは言わねぇぞフレッド」
「ッ……ごめん」
ゆっくりと、辰巳を捉えていた腕から力が抜けていく。
自由を取り戻した辰巳は、今度はその腕をフレデリックの背中に回した。初めて抱き締める男の躰は予想通り大きくて、思わず小さな笑いが漏れる。
「お前、やっぱでけぇな」
「辰巳…?」
「憎らしい程良い躰しやがって…むかついてくんな」
触り慣れている筈なのにどこか新鮮な感触を楽しみながら、辰巳は腕の力を少しだけ抜いた。僅かに躰を離して、辰巳は目の前にある碧い瞳を覗き込む。
「無自覚に人の事抑え込むなんざ、どんだけ不器用なんだよお前…くくっ。お前見てると可愛くて仕方がねぇよ」
「っ…可愛いって…。……いつも、怖がるくせに…」
「あぁん? そりゃあお前、身動き取れねぇ上に首絞められそうになりゃあ誰だって怖ぇだろぅが」
とは言えど、フレデリックの殺気は、どうしても辰巳には色っぽく感じてしまう。そしてそれを向けられるのが心地いいのだからどうしようもない。
以前フレデリックは『僕にこうして見られて欲情するのは辰巳だけ』と、そう言った事がある。その時のフレデリックの視線は、とてつもなく冷たく、殺気をはらんでいた。
「もしかして、辰巳がいつも抵抗しないのは…僕のせい?」
「あー…なんかそうやって改めて言われると腹立つな、クソッ」
「ごめん…」
「ったく…確かに俺ぁお前に抑え込まれて動けなくなる事はよくあるぜ? だが、逃げてぇと思った事は一度もねぇよ」
そう辰巳が伝えてやればフレデリックが嬉しそうに微笑んだ。
だが、逃げないのと逃げられないのとでは雲泥の差がある。それが、同じ男である辰巳にはどうしようもなく悔しいのだ。目の前にある美しく引き締まったフレデリックの躰に嫉妬する程に。
「抑え込むのは構わねぇがよ、フレッド。たまには俺にもこうやって抱かせろよ」
「辰巳はときどき、そうやって僕を殺しに来るから困る…」
「はぁん? そんなんでくたばるようなタマじゃねぇだろお前」
苦々し気に辰巳が呟く。
「だいたいお前、色気か殺気かどっちかにしとけよ。アテられるこっちは堪ったもんじゃねぇ」
「だから言ってるだろう? 僕に睨まれて欲情するのは辰巳くらいのものだよ。それに…」
言いながら、フレデリックが一瞬にして纏う空気を入れ替える。その瞬間、辰巳の躰は本能的に動かなくなった。
全身に鳥肌が立って汗が噴き出す。手で押さえられている訳でもないのに指先すら自分の自由に動かすことが出来なくなる。呼吸さえも…。
「ッ……」
「辰巳。殺気というのは、こういう事を言うんだよ。色気とは…別物だって分かってくれたかい?」
純粋な殺気。今まで経験していたのは、フレデリックの言葉の通り、殺気などではないと思い知る。
こんなフレデリックを、辰巳は知らない。
「分かったら、呼吸をして頷くんだ」
「っ……っは、…ぁ…」
「いい子だ。本当にキミは可愛いね…僕の子猫ちゃん」
徐々に自由を取り戻す躰が、辰巳にすべてを語っていた。怖いなどという言葉では足りない恐怖。
くつくつと喉の奥で嗤いながらフレデリックが囁く。
「少し、おイタが過ぎたかな? でも、こうして抱き締められるのも…好き、なんだろう?」
「ったく…だからお前は質が悪ぃってんだよ。煽るのは構わねぇが、責任はとれよ?」
「もちろん。辰巳は…いくら抱いても抱き足りない…ね」
フレデリックはいとも簡単に辰巳を抑え込んでその唇を奪う。
結局この日、二人が寝台の上から降りたのは、夜も随分遅くなってからの事だった。
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