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最終話

 静かにゆれる車の中、僕は兄の腕の中でただ泣いていた。  彼の危険を知ったとき、彼の部屋にたどり着いたとき、彼の、ヒートを目の当たりにしたとき。身の内で激しい熱が暴れていた。  それは確かに番を求めるものだったのに、運命を求めるものだったはずなのに。  彼が別のアルファに組み敷かれているのを見た瞬間、僕は激しい怒りに思考回路を焼き切らせた。そして怒りの矛先は番を弄ぶアルファにではなく、あれ程守りたかったはずの運命に対して向いていた。  守ろうと思っていた。守りたいと思っていた。けど、別の誰かに甘んじて身を焦がしてみせる彼を見た途端、オメガが酷く汚い生き物に思えた。  愛しさは簡単に憎しみへと姿を変えたのだ。  僕のモノじゃなかったのか。  僕だけを求めていたんじゃなかったのか。  お前は誰でも良いのか。  その身の内を熱くさせてくれるのなら、例えそれが運命でなくても求めるのか。  こんなものが、“運命”だと言うのか。 「だから言っただろう?」  ボロボロと涙を零す僕の頬を、季兄さんが優しくなで上げる。 「血や、性など関係ない。神の意志など関係ない。運命は自分で作りあげるものだ」 「ッ! けど、父様は惹かれたじゃないか! オメガに! 運命に!!」  だから夜鷹兄さんが生まれたのだ。そうして母様は狂ってしまったじゃないか!  頬を撫でる季兄さんの手を振り払い、屋敷に着いたばかりでまだ止まりきっていない車から飛び出した。 『この世には、逆らえないはずの運命に逆らえる奴がいる。変えられない運命を、変えてしまえる奴もいる。それが、季兄さんと千鶴だ』  そう言った夜鷹兄さんは、一体何を知っていたのだろうか。僕の未来がこうなることを知っていたのだろうか。だったら“運命”とは一体なんなのだろうか。  屋敷の中へ入ると一目散に夜鷹兄さんの部屋へと走った。  兎に角、直ぐにでも夜鷹兄さんに会いたかった。彼の言葉を聞きたかった。思考回路は切迫していて、深く考えることができなかった。その日が木曜ではないことなど頭の中からすっかり抜けていた。  だから、部屋の鍵が開いていたことに疑問を持つ余裕もなかったのだ。 『あっ、あぁ、も…あっ、ぁあっ、やめっ…』  月光だけに照らされた部屋の中、張り替えたばかりの畳の上で細い足が跳ねていた。  耳にこびりつく様な粘着質な音と、破裂音にも似た高い音。その合間に上がる欲望の塊のように淫猥で甘い、しかし哀しげにも聞こえる切ない声は、間違いようもなく夜鷹兄さんのもので。  そうして彼の上で楽しげに踊って見せるのは、 「千鶴…兄さん…」  闇夜の中で見た彼の瞳が、まるで猛禽類のように光り僕を射る。  ハッキリとした拒絶だった。お前はここに居てはいけないのだと、ここは俺の縄張りなのだと、“コレ”は、俺の獲物なのだと。  僕は情けなくもその視線に恐怖を覚え後ずさった。そうして直ぐに、その背を誰かに抱きとめられる。 「ッ、と…とき…」 「お前は知らないことだらけだね、鶫」  後ろから季兄さんが、長い指で僕の顎下を弄ぶ。 「確かに父様はオメガに惑わされたが、母様が狂ったのはそのせいじゃない。もっと、ずっと前からだ」 「え…?」 「父様は母様を愛していたが、母様は父様を愛していなかった。既に、他に愛する人が居たから。だが父様はそれを許さなかった。そうして無理矢理繋がったことで生まれたのが、私だ」  舌を噛んで死のうとする母を、それすら許さず蹂躙し季兄さんが生まれた。  父を一切見ようとせず、心を壊し内に閉じこもる母をそれでも父は愛し続けた。例え目の前に現れたオメガが運命の番であっても、父は母以外にその目を向けることは無かった。 「では、どうして父様はオメガの元へ向かいその身を抱いたのか」  夜鷹兄さんの存在を知る周りの者はみな、父が運命に負けたのだと思っている。けれど事実は全く違うものだった。 「母様が頼んだんだ。一度で良いから彼女を抱いてやってくれ、と」 「え…?」 「そうして父様が運命と繋がれば、漸く自分を手放すだろうと…そう思ったんだろう」 「そんな…」 「だが父様は、オメガに心を移すことも、母様を手放すこともなかった」  そう。運命を抱かせたところで、父の心は一ミリも変わりはしなかったのだ。  そうして気を狂わせて尚拒絶する母を父は蹂躙し続け、母は失意の中で千鶴兄さんと、そして命と引き換えに僕を産み落とした。 「そんな…なんてことっ!」  信じられない自身の出生の秘密を知り、僕の頭の中は真っ白になった。 「父様の運命は母様だ。それは他の誰でもなく、父様自身が決めたこと。私たちはその血を引き継いでいるんだよ、鶫。だから私たちも、私たちの手で運命を選ぶんだ」 「そんな…だけどっ!」  だけど。そうして父が闇に葬ったはずのオメガを今、アルファが、千鶴兄さんが喰らっているじゃないか。それも、兄弟であるはずのオメガを。  そう喚いた僕の頬を大きな手でそっと包むと、視線を僕に合わせ柔らかく微笑んだ。 「しかたの無い子だな、鶫は。まだ気づかないのか? 夜鷹はオメガの性を持ってはいるが、フェロモンを出せない出来損ないだ」 「っ!?」  季兄さんの言った通り、アルファである千鶴兄さんのフェロモンが充満する部屋の中には、それ以外のフェロモンは少しも混じっていなかった。幾ら薬を服用していようとも、これだけ強いアルファのフェロモンを出されて、自身のフェロモンを出さずにいられるオメガは存在しない。 「千鶴は夜鷹がオメガだから選んだんじゃない。アレが“夜鷹”だから、選んだんだ」 「…なに…それ…」  小さく呟いた僕の声をしっかりとその耳に拾った季兄さんはただ、笑った。 「矢張りお前はまだ小鳥だよ、鶫」  そのまま抱きしめられた腕の中で、僕はそっと瞳を閉じた。  僕が見つけた運命は、あっと言う間に別のアルファに攫われた。僕を理解し助けてくれると信じた兄は、僕よりも先に闇に呑み込まれていた。 『悪いことは言わない、諦めたほうが良い』  そう言った夜鷹兄さんにはきっと、あの運命を追いかけた僕の未来が見えていたに違いない。既に運命を手放した彼だからこそ、分かる何かがあったのだろう。だけど、そうして僕があの運命を諦めたところで、その先に光はあったのだろうか? 「季兄さん…僕にはもう、運命が何か分からない」  心もとない声で呟いた僕の髪を、季兄さんが労わるように優しく梳いた。 「もう考えなくて良い、悩まなくても良い」  兄さんの匂いが強くするシャツにぎゅっとしがみつけば、僕を抱く腕の力が更に強まった。 「大丈夫、何も心配いらない」  なぜなら、私こそがお前の運命なのだから。  それから暫くしてのことだ。 「彼、あの男の子供を孕んだそうだよ」  その報告を聞いたのは、一糸まとわぬ姿で兄の腕に抱かれ眠る、ベッドの上だった。 END

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