1 / 1

第1話

「何かもう、あたし疲れちゃったの」  今のところ、最後に聞いた母親の一言をふと思い出して、あぁあの人もあの時、こんな気持ちだったのかな、などと思う。今のところっていうか、事実おれが聞いた最後の言葉なんだけど。  そんなことよりも、だ。  大丈夫。たぶん、大丈夫だ。大丈夫に違いない。  納期は1日遅れてしまったけど、月曜から金曜まできっちり5日も余分に待たせた先月に比べたら、大丈夫。何も問題ない。と思う。  そうだ。だってさっき、いつもはしない電話をわざわざ例の担当者にかけて遅れたことを謝ったら、『想定の範囲内です』と言ってくれたじゃないか。  …………あ。  けど、それって『大丈夫』と判断していい反応なのかな。  あぁ。毎月毎月こんな細かいことでぐちゃぐちゃと頭を悩ませるぐらいなら、納期を守ればいいんじゃないか。守るどころか、いっそ前倒しで納品できるようスケジュールを組んで、それに沿ってコツコツ進めればいいだけのことじゃないか。  そうだろう? おれ。  問われたおれが、半ばふてくされ気味にうつむいて「そうだよ」と小さな声で答えた。  ……と思ったら、そのもう一人のおれがガバッと顔を上げて巻き舌気味に一気にまくしたてた。 「だかるぁ、それができる人間だったら、イイ歳こいてこんなことで頭かきむしるぐらいに悩んだりしねぇんだっつうの。自分で自分を管理するとか、何だ? セルフマネジメント? セルフコーチング? それがきっちりできねェから、こんな誰もいない真昼間の電車で、ウダウダ考えてもしょうがないことで頭がパンパンになって、挙句の果てに死んだ母親のつまらねぇ言葉なんか思い出してんじゃねぇかよ。えぇ?」  誰がどう聞いても、どうひいき目に見ても八つ当たりでしかない心の叫びを頭の中でひと通り叫び終えた後、車両全体に立ち込めるように深い深いため息を落とした。そりゃあもう思いっきり。誰もいないんだから。で、その反動を利用して、今度は首をガッと持ち上げて、天井を向いた。  おれ以外誰も乗っていない、貸し切り状態の車両の端の4人掛けの座席。  頭の上にはつり革。蛍光灯。エアコンの吹き出し口。向かい側の壁には、ここら一帯の路線図。中途半端な地方都市だから、そこそこに駅が点在している。それが今はうるさくて仕方がない。子供の頃は、一日中だって時刻表を眺めているようなガキだったのに、年齢だけ重ねてクソガキのような大人になったおれは、ひとまず手っ取り早く自分と周囲を隔絶するために、目を閉じた。  どうせ誰も乗っていない。次に停まる駅もよく知らない。  いつもだったらこんな時は下を向いて悶々とするんだろうけど、そうすることにも飽きた。  だから、ガバッと顔を上げて目を閉じた。瞼の裏にまぶしく感じた車内灯の存在も徐々に忘れていき、心地よい電車の振動が体になじんで、それとは感じなくなっていく……。  ……そう感じなくなっていった頃、何かがおれの唇に当たっているのに気が付いた。それこそ端から端まで唇の形ぴったりに、柔らかいけど芯のある肌触りを持った何かが乗っかってる……、って恐る恐る瞼を開けて今日二度目の驚き。いつの間に乗ってきたのか、目の前ほぼゼロセンチのところに見知らぬ男の顔があって、そいつの唇がおれの唇に乗っかっている。で、思いっきりおれを見てる。近すぎて、男の姿かたち、その全貌はわからない。あまりに驚きすぎて、かちんと音がするぐらい固まっているおれからゆっくりと顔を離した男は、 「上向いて目を閉じてるから、キスして欲しいのかなと思って」  と、こともなげに言った。 「はぁ?」と心の中では盛大に胸ぐらをつかむ勢いで叫んでいるが、不思議なぐらいおれの声は出ない。これ、夢か? これって、ハプニングとかいう類いのレベルなんだろうか。  おれが怒っていると思ったのか、いや確かにほぼ怒っていると言っても間違いない状況ではあるんだけど、それに勘付いたのか、「ごめんごめん」と言って相変わらずおれの前に立ち続ける男に、ここに座れというつもりで、隣のシートをポンポンと叩いた。 「お、おまえ、そっちのケがあるのかよ」  男のほうを見ないで聞いた。 「別に。わかんない。男とキスしたのは今、アンタが初めて」 「フツー、するか?」 「さぁ? フツーがよくわかんないから。たださぁ、」  そう言って男がこっちを向いたのが視界に入ったから、おれもおずおずと隣にいる男の顔を見た。 「アンタの、目閉じた顔はすごく好みだった」  正面に向き直った男の黒いヘンリーネックの丸首のギリギリのところに、手術痕のようなピンク色をした皮膚の盛り上がりが見える。前髪を少し上げている額の生え際から眉までの幅と、そこから鼻、鼻から顎の幅がなんとなく同じぐらいの幅。要は顔の作りがイイ。おれと同じ一重まぶただっつうのに。……あれ? この顔どこかで見たことがあるような……。 「何?」  じろじろ見るつもりはないけれど、見ていたのかもしれない。それをごまかすように、「次の駅、知ってるか?」とどうでもいいことを聞いたら、ちょうどゴーッという大きな音とともにトンネルに入り、男の唇が動いているのはわかったけれど、何を言っているのかは聞こえない。 「は?」と身体を斜めに寄せて男に近づくと、不意に男の手がおれの反対側の肩をつかんで、自分のほうにぐいっと寄せた。肩を抱き寄せられた格好になったということ。  耳の上部に男の唇があたり、そこからびっくりするようなやさしい声が漏れ落ちた。 「『銀河鉄道の夜』は、好き?」  この男は何を言ってるんだろう? おれは宮沢賢治ならどっちかって言うと『イギリス海岸』が好きなんだけど。 「一緒に行かない? このまま……」  耳たぶに沿ってゆっくりと男の唇が滑り落ちて、耳の下と顎の境で止まる。  あ、やばい。  この男、本気でキスしようとしてる。さっきみたいな唇がぶつかっただけのキスと違って、なんかもうちょっと本格的っぽいヤツ。けれど、男の手が乗っかっている俺の肩はびくともしない。ちょ、ちょっとそれは……と思った瞬間、不快レベルにけたたましい目覚まし時計のアラーム音に、びっくりして体が2センチほど宙に浮いた。正確には浮いた気がしただけなんだけれど。  どうもパソコンの画面を開けたまま、うたた寝してしまったようだった。  画面に映し出された一番新しいメールのタイトルは、 「納品いただき、ありがとうございました」  あぁ。締め切りを1日過ぎた例のヤツを先方に送付したところで力尽きて寝てしまったのか。  ……で、あの夢かよ。  誰だよ、おれにキスしたあいつ。だいたい、母親まだ生きてるし。夢って本当、あることないことがめっちゃくちゃだな。  先方からのメールをクリックし本文を開くと、いつものご丁寧な挨拶と次回は出来ればもう少し早く送れ、を至極丁寧に伝える文言が並ぶ。この春から新しく担当になった男性新入社員の、ウェリントンの黒縁の奥にある一重まぶたがふっと頭をよぎる。「先生、と呼ぶのはやめろ」と何度言っても先生、先生と言ってくる。半分バカにされてるんじゃねえか、とも思えてくる。  そんな彼の顔を思い浮かべながらハイハイ、ハイハイと声に出して画面をスクロールしていくと、何行分かの空白の後に「追伸」と書かれた一文があった。 「先生。  宮沢賢治の『銀河鉄道の夜』は好きですか?」 End

ともだちにシェアしよう!