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第1話

 今夜も、あいつがやってくる──。  酷暑が続く夏の日の夜。  夏休みもあと一週間ほどだというのに、暑さは増すばかり。  寝苦しい、暑い、じめじめする。肌に汗が滲み、気持ち悪さが俺の快適な睡眠を奪っていく。 「はぁはぁ…」  この夏、冷房が馬鹿になった為に部屋の中はまるで蒸し風呂状態だった。カタカタと回るボロい扇風機だけが唯一の生命線。  もう少し、もう少しだけ待てば、“あれ”が来るんだ、耐えろ。  ──ひた、ひた。  何かが床を静かに歩いている音が、耳に響いてくる。  ああ、来た。  今日も、あの子が。 『ゆうじくん、今日もきたよ』  ふわりと冷たい空気が辺りを包んだ。  ひんやり、枕元に冷たい何かが座る。 『今日もかっこいいね。汗びっしょりだね。大丈夫?』  ぴとりと額に置かれた白い手が、俺の体温をすぅっと下げていく。 『ゆうじくん、僕はこんなに君に触れているのに、君は僕の存在すら知らないんだもん。とっても不思議』  澄んだ声が、寂しそうに俺の名前を呼ぶ。  いや、実は知ってるんです、聞こえてるんです。  俺、高本勇次は、このひと月、幽霊に取り憑かれている。  元から霊感体質だった俺は子どもの頃からよく幽霊なるものを目にしていた。当時は随分と大変な日々を送っていて、見えないものが見えるという生活は中々にハードで、正直怖くて怖くてたまらなかった。  しかし今は、10年以上の年月をかけてようやくこの体質と向き合えていて。  幽霊だって、元は生きた人間なのだ。そう思えばちょっとだけ怖くなくなった。  それに、普通の霊は生きた人間にあまり執着しないのだと言。案外と生きている人間に興がないのだ。  前に仲良くなった幽霊が、幽霊だって自分のことで手一杯なのだと言っていた。幽霊のくせにそんなにやることがあるとも思えないが。しかしそれを聞いてさらに怖くなくなった。  とにかく、霊とも一定の距離を保って接すれば害は無い、  はずだった。 『ゆうじくん、少しは涼しくなった?』  しかしどうだろう。夏休み初日の夜に現れたこの幽霊は、何故か毎日俺の部屋に訪れるのだ。  毎日毎日、飽きずにせっせと。 『ゆうじくん、もうすぐ夏休み終わっちゃうね。悲しいね』  薄っすらと薄目を開けて俺の枕元に座る幽霊を見る。  綺麗な顔をした、男子高校生の幽霊。  真っ白な肌に長い睫毛が縁取る色素の薄い瞳、さらさらした柔かそうな栗色の髪、細い手足がすらりと伸びて、その繊細な身体を平凡な制服が包んでいる。  はっきり言ってとても美人な幽霊だと思った。男だけど。 『同い年なのにゆうじくんは僕と違って背も高くて筋肉があって、本当にかっこいいよね』  そしてこの幽霊、 『ゆうじくん…大好き』  何故か俺に好意を寄せている。  毎日毎日やって来ては寝ている俺を眺め、こうやって好きだの何だの囁いては帰っていく。  最初は正直驚いた。俺の名前知ってるし、まぁ男だし。  殺されるんじゃないかとも思ったが、俺はこうしてまだ生きている。 『…あれ、まだ汗がたくさん出てる…。どうしよう、もっと冷やさなきゃ』  そういえば今日は夜暑くなるって天気予報で言っていな。なんて幽霊の言葉を聞きながら思っていると、ぴとり、と何かがお腹にくっついているような感触を感じた。  そっと自分の腹辺りを見てみると、寝ている俺に幽霊が乗り上げていた。  すりすりと自分の身体を俺の身体に擦り付ける幽霊くん。  いやいや、なにしてんの、一体。  突然の出来事に狼狽えてしまうが、しかし身体は徐々に冷えてきて、俺の体温を下げてくれているんだと気付いた。 『ゆうじくん、好き、大好き。』  自分の身体を擦りつけながら言うその言動は、幽霊なのだが、男なのだがとてもエロく、いけないことをされている気分になる。 『ゆうじくん、大好きだよ。君が僕を見えてなくても大好きなの』  何故、彼は俺のところに来たんだろう。  何故、彼は俺のことが好きなのだろう。 『ゆうじくん』  何故、彼は幽霊になってしまったんだろう。 『はぁはぁ…ゆうじくん、身体は冷えた?』  ……何故、そんなに息を荒げているんだ。 『ゆうじくんの身体、やっぱり良い身体だね』  そりゃあまぁ、水泳部なので。身体は鍛えてありますけど。 『触ってもいい?』  えっ?  体感温度もいい具合に下がってきた頃、幽霊くんからの突然の申し出。  勿論、見えないフリ、聞こえないフリをしている俺には答えることは出来ないし、見えていないと、聞こえていないと思い込んでいる幽霊くんは俺の返答など期待していない。 『…すごいね、筋肉…』  すべすべと手のひらで俺の腹筋に触れる冷たく白い手。 割れた腹筋ひとつひとつをなぞるように指を動かし、何度も同じ場所を往復している。  …随分と触り方がエロいと感じるのは思い込みだろうか。 『ゆうじくん。ああ、本当に素敵…食べちゃいたいくらい好き』  冗談でも笑えない。幽霊が言うと洒落にならないからやめてくれ。 『ねぇ、食べていいかな?』  その言葉にぞわっとした瞬間、下腹部の辺りが急に冷たくなった。  恐る恐る下に目をやると、俺の下半身をうっとりして眺め、短パンの中に手を入れようとする幽霊くんが見えた。 「っ、ちょ、ちょっと待て!それはダメだ!!」  そしてつい、大声で叫んでしまった。  手は無意識に幽霊くんの腕を掴み、短パンの中に入りかけていたのを阻止している。 『………へ?』  あれ?この幽霊くん、俺からも触れる。 「…あ、えっと、はじめまして……って言うのもなんか変か?あのさ、君はなんでここに…」  ぱちくり、と目を見開いてこちらを凝視してくる幽霊くん。  おお、やっぱ間近で見ても顔かわいい。  なんて呑気なことを思ったのもつかの間  ほろり。 「えっ」  幽霊くんの瞳から、ぽろぽろと涙が溢れ出していた。 「いや、あのさ、泣かないでよ。あれ、なんで泣くの?」 『ごめ、ごめんなさい…』 「謝らなくていいのに」 『だって、僕、見えないと思って色々…』  まぁ確かに色々聞かせてもらいましたよ。主に愛の告白を。  身体も触られたけどそれはまぁ暑かったから丁度良かったし。 「ああ……それはまぁ、でもお互い様だよ。俺も見えないフリしてたし」  そう言ってべそべそ泣く幽霊くんの頭にぽんっと手を置いて撫でると、彼は白い頬をほんのり赤く染め、色素の薄い三白眼の瞳をちらりとこっちらに向けた。 『……僕、ゆうじくんのこと、ずっと見てて…部活とか、その、泳いでるとこを…』 「へぇ、そうなの?」 『うん。…それで、素敵だなって思ってて。僕とは正反対で。そしたらもっと君を知りたくなって、つい家まで付いてきちゃった…』  何というか、典型的な一目惚れというやつなのだろうか。  こんな美人に好かれるなんて嬉しいやら恥ずかしいやら。まぁ幽霊なんだけど。 『……それで、夜に来てみたら、なんか暑そうにしてて寝苦しそうだったから』 「ああ、あれは助かった、エアコンが壊れててさ。お前がいなきゃ暑くて死んでたわ俺」 『…………』  あ、今のはダメだったかも。軽く言ったつもりだったけど、幽霊に言う冗談じゃなかったな。  黙り込む幽霊くんに、気まずい雰囲気が漂う。頭をぽりぽりと掻くと、幽霊くんは少しだけ寂しそうに笑った。 『ごめんなさい。もう、来ないから』 「え?」 『君が、見えるなんて思わなかったから。本当にごめん。気持ち悪かったでしょう』 「いや、別に…」 『でもね。嬉しかった。ずっと、存在すら知られてないって思ってたから。君が僕のこと知っててくれて、それだけで嬉しいよ』  そう言って、幽霊くんは俺の頬に触れてきた。  ふわりと、彼の足先が浮く。 『ありがとう。』  俺のつむじに、冷たいものが当たり、すぅっと冷えていく。  それが幽霊くんの唇だと理解するのに、時間は掛からなかった。 「っ、ちょ、待って!」  そして俺はまた、無意識に彼の腕を掴んでいた。 『?』 「……そ、そんなに俺のこと好きなの?」 『うん』  即答かよ。くそ。かわいいな。  じいっと見つめてくる視線に、顔が赤くなる。 「……っ、じゃあ、…また明日も来てよ」 『!』 「幽霊くんがいなきゃ、俺暑くて寝れないし」  掴んだ腕を引っ張り、浮いていた幽霊くんを床へと戻す。 「それに、嫌じゃない」 『え?』 「……幽霊くんに触られるの、嫌じゃない。」  触れられるのも、眺められるのも、大好きって言われるのも。  むしろ嬉しいよ。 「だから…」 『ゆうじくんっ』 「おわっ!?」  ぽふっと俺に飛び込んでくる幽霊くん。身体にひんやりとした感覚が広がり、なんだか気持ちいい。  腕の中の彼は、びっくりするほど軽かった。体重なんて無いくらいに。 『ありがとう、ありがとう』  涙を流す幽霊くん。  可愛いと思うのは、俺が彼に取り憑かれてしまったからなのだろうか。  それとも…… 「…別にお礼なんて…エアコンなおるまでだし」 『うん。』  人間と幽霊。  どこまで続くか分からない。  もしかしたらうまくいくかもしれないし、そうじゃないかもしれない。  だからまだ、エアコンは壊れたままにしておこう。

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