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「何か、したいことはありますか」
女性は浅く頷く。
「授業がしたいわ。でも……そうね、教科書がないわね……」
「では、これを」
センパイは薄い冊子を俺に手渡す。冊子にはバイエルという文字があった。幼稚園生向けのピアノの教本であるようだ。
「……あ、それなら。俺、弾いてみたい曲があるんです。それを教えてもらえませんか」
女性は軽く目を見開き、微笑んだ。
「もちろん」
センパイは訝しげに俺を見やる。
「魚沼お前、そんな曲あったのか。ピアノなんて弾けませんみたいにすましておきながら」
「……そんな顔してないですよ。ただ、そうですね。誰にでも思い入れのある曲くらい一つや二つ、あるってことじゃないですか?」
バイエルのページをめくり、曲を探す。果たしてそれはあった。
「……この曲を」
「あら、きらきら星ね! 素敵だわ。じゃあ、この椅子に座って」
女性、否、先生はピアノの前にある重厚な椅子を指差す。
「ピアノは弾いたことがある?」
「辛うじて小学生の頃に鍵盤ハーモニカに触れたことがあるくらいです」
それすらやっているフリで誤魔化していた。
「そう。じゃあ、まず運指から教えるわね」
先生の指導は適切だった。俺が指を碌に扱えないと見ると、即座に反復練習へと切り替える。その繰り返しだった。やっと弾けるようになった頃には、日は沈みかけていた。
「できた……! 先生、できました!」
「ええ、おめでとう! 頑張ったわね! すごいわ!」
「やった! やりました! 先生、っ」
ありがとうございます、と振り向き初めて気付く。先生は消えかけていた。
「先生……」
くしゃり、歪んだ顔に先生の手がそっと添えられる。そんな顔しないで。撫でたかのように見えた手は、するりと俺の体をすり抜けた。
「……ダメね。幽霊じゃ慰めることさえ満足にできないんだから」
先生は悲しそうに微笑み、透けはじめた半透明の体で俺を抱きしめる。
「私を先生って呼んでくれてありがとう」
生徒にそう呼ばれるのが夢だったの。笑った先生に言葉が詰まる。
「……俺こそ、ありがとうございました。この曲、大切な曲だったんです。だから、教えてくれてありがとう、先生」
笑って言うと、先生もつられてにこりと笑う。
「私、先生になってよかった。たった一回、教えただけだけど。それでも、よかった」
死んでから教え子という存在ができるなんて、私は幸せ者だわ。
きらきらきらきら。先生の姿が宙に溶ける。先生の言葉も一緒に宙にきらきらと舞い解けた。
「魚沼」
ハッと意識が覚醒する。呆然と声の方を見やるとセンパイは苦々しそうな表情をし俺の頭を撫でた。
「……悪かった」
言葉少なだったがセンパイが何について謝っているのか見当はついた。
「ホントですよ」
認めてやるとセンパイはしゅんと項垂れる。何で人の言葉をそんなに素直に受け取るんだろう。さっきも一方的な理由で口づけられたというのにそれに対して怒りもしない。
「でもまぁ、今回のはいいです。結果的に曲も弾けるようになったんで」
言い切ってみせるとセンパイは困った顔をし曖昧に笑った。
「そうか。なら、よかったんだが」
音楽室を出て、校門に差し掛かったあたりでセンパイは躊躇いがちに口を開く。
「魚沼。あの曲、どんな思い入れのあるものなのか、聞いてもいいか」
言いよどみながら告げられた言葉に、ああこれをずっと聞きたかったのかと得心する。
「いいですけど。これは、死んだ母が好きだった曲です。母はピアノ教室の講師をしていたんですが、俺は生憎と習っていなかったので弾こうにも弾けなくて」
「その、姿は見えたりするのか」
一瞬思考が止まる。今まで俺の事情を知っているのは幽霊だけだったから、その質問をされることをまるで想定していなかったのだ。
「……見えましたよ」
「今は……」
「さぁ、成仏でもしたんじゃないですか」
半ば投げやりに答える。俺は母の成仏する姿を見届けていなかった。ある日気が付いたら見えなくなっていた。俺はその時になって初めて母は死んだのだと気づいたのだ。
「すまなかった」
「いえ別に。昔のことですし」
さらりと受け流す。思いはすでに家のピアノに馳せられていた。
「お帰り」
小学生に上がったばかりの妹が言う。ただいま、と返すと早々に背を向けられた。
「今日の晩ごはん何か知ってる?」
「カレーだって」
昨日の残りか。ふぅん、と呟き応接間に行く。長らく使われていなかったピアノは埃を被っていた。ティッシュを手に取り埃を拭う。
蓋を開けカバーを取り払う。鍵盤に手を置く。思い出すのは習ったばかりのあの旋律。つたない俺の運指に妹が寄ってくる。
「お兄ちゃん、ピアノ弾けたの?」
「今日弾けるようになった」
「? そう。これ、何て曲?」
妹の目が俺を見上げる。
「……きらきら星。俺の、お母さんが好きだった曲」
「私のお母さん?」
「……お前のお母さんは、どうだろうな。分からないけど。もしかしたら好きかもしれないな」
そうか。まだ知らないのか。無垢な瞳の残酷さにひっそりと苦笑する。
曲を弾き終わってもなお、母さんの姿は見えなかった。
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