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夕闇を映して

1 とはいえ、九年は長い年月だ。 同期で企画したキシの送別会は、当日適当な理由を言って欠席した。キシが退職の挨拶回りに来た時、僕は彼の顔を見なかった。キシも近づいてこなかった。 別れて日が経つにつれ、まるで殴り合いでもしたように体が痛んで、眠れなくなった。 別れたというが、付き合っていたというのでもない。 キシと二人でいた時間は、ほとんど金曜日の夜から土曜日の朝にかけてで、それが何回だったか数えたことはないが、数えたところで、所詮半年足らずの時間だった。 キシが会社を辞めて僕の前から姿を消した直後、アパートの近くのごみ置き場に山のように積まれたごみを見た朝、雨が降っていた。 嫌な臭いが鼻をつき、いっぱいに詰め込まれたごみ袋はどれも半透明だった。白いビニールの向こう側に、吸い殻、野菜か果物の皮のようなもの、インスタントラーメンのカップ、割り箸、弁当容器、使い捨てのスプーン、いろんな汚ならしいものが見えていた。雨粒がごみ袋の山に落ちかかり、ばたばたと大きな音が響いて、目に涙が滲んだ。僕はそういう自分を憎んだ。 捨てられたというほどのことは何もなかったのだ。何一つ。 だから、何も感じなければいいと思った。 お前とかアナタとか、キシが僕を呼ぶ時に、あの目に映っていた自分が、まるで他の誰かのように羨ましかった。 キシさんと呼べば、そこにキシがいて僕を見ることは、もう願っても叶わない。奇跡だと知らずに、キシに見られていた時間が恋しかった。 会えなくなってからしばらくは、セックスのことをよく思い出した。 記憶に留めておいた些細なことを。 初めて寝た時から、歯止めが利かなくなるほど気持ち良かったこととか。 噛むとか押さえ込むとか強く掴むとか、僕が思わず、痛い、と言うようなことをキシはよくやったけど、いつも優しかったこととか、乱暴に、と言うと、ほんの一時だけ激しくなる時、僕はリクエストに応えてくれること自体が好きだったのだが、キシにはわかっていただろうかとか、している最中にキシが、お前、ほんっとに淫乱だなあ、と心底感心した口調で言うので、二人とも笑ってしまい、キシが後から反省していておかしかったこととか。 でも、三年くらい経って、悲しさも後悔も、諦めのような感情と一緒になった頃、キシを思うと、僕を見ているあの目と、笑っている顔だけが残っていた。 特に大事なことは話さなかったし、キシが何を言ったかは忘れていて、ただ、僕を見て楽しそうに笑った顔が、他のいろんなことは遠くなっても、ずっと心に残って離れなかった。 そして、キシは僕の何を思い出すのか、想像するようになった。 芝田といるのを見られた時、当時の僕は自分のことしか考えなかったけど、キシは僕を軽蔑しながら、苦々しい思いをしたのではないか。 会議室で僕が泣いた時、キシは何か他に言いたいことがあったのではないか。 もっと良い人のところへ行きな、と言ったこと。 そういう関係だったのは上野だけだよ、と言ったこと。 もし、あのまま同じ会社にいても、キシは僕と会わなくなっただろう、ということ。 最後のは嫌な想像だったが、自分がキシにふさわしくなかったと思うのは、一種の慰めだった。 そして、そもそも僕を思い出すことはないだろう、といつも物思いを終わらせた。 キシがいなくなってからずいぶん時間が経っても、キシの笑顔が胸に映ると、僕はやっぱり彼が好きだった。好きの先に何も見えなかったから、キシは離れていったのかもしれないが。 2 英司には、 「よくそんなに引きずるなあ」 と言われた。 友達があまりいないので、キシのことを話したのは英司が初めてだった。 二十九歳の時、店で声をかけられて部屋に引っ張り込んだのが、英司だった。 何度か失敗してルールを作り、男は自分の部屋に連れ込んで、泊めないことにしていた。 「終わったら帰ってもらうけど」 と最初に英司に言った時は、 「人がいると、眠れないから」 と、言い訳も同時に伝えた。 「…泊まらないで、帰ればいいということ?」 「そ」 「わかった」 英司は、飲み代とタクシー代を払って部屋に来た。 それで、触り方がキシと似ていた。 もちろん、いちいち比べているわけでもなく、僕の頬から体にかけて、指と手の甲で触れる感じで、記憶がよみがえった。 酔った男を拾うことが多いせいもあって、そういう触られ方はあまりない。 キシは、僕を肩に凭れさせる時、髪を撫でてくれる時、抱きしめる時、こわれものか何かのように、そっと触ることがあった。 その時の感じだった。 僕が固まったのに気づいて、どうかした?というように英司が見たので、 「何でもない」 と言った。 終わってから、 「また会ってくれますか?」 と英司が言い、同じ人とは二回までしか会わないことにしていたので、あと一回なら、と言おうとすると、 「まあ、でも、忙しくてそんなに時間ないんだけど」 と彼が続けた。 「あ、そう」 「また連絡していい?」 「まあ、いいよ」 「付き合ってる人とかいる?」 「うーん」 ベッドの横に立っている英司を見上げた。背が高くて、僕の好きな体つきだった。身につけた服はシャツとジーンズで、若いように見えたけれど、年上だろう。 「秘密なの?」 「なんで聞くの」 「そりゃ、気になるからに決まってるでしょ」 誰かと付き合う気はなかった。僕が黙っていると、英司も黙って見ているので、 「…彼氏みたいのは、いない」 と答えた。 「ふうん、それはラッキーだった」 彼はつぶやいて、笑顔になり、 「じゃあ、また連絡するね」 と言って、約束通り夜中に出ていった。 どこに住んでいるのか、今から帰りつけるのか、何回か夜中に人を帰しているうちに、そんなことは気にならなくなっていた。 二回までなら、僕はすぐ忘れた。相手がしつこく言い寄ってくることもそれほどない。 泊めなければ、よく知らない人の横で泣きながら目が覚めることもなく、朝になってうなされていたと言われることもない。 英司は一か月くらい後に連絡してきて、日曜の昼間にうちに来た。夜の早い時間に、駅前の店のカウンターでご飯を食べている時に、 「また会って」 と言われたので、 「あ、また連絡ください」 と答えると、少し経ってから、 「あれでしょう、もう会わないつもりでしょう」 と言う。 僕は隣に座っている英司を見て、 「そんなことない」 と言った。 「嘘だろ」 「んーと…」 「いやなんでしょ、仲良くなるのが」 英司は穏やかな表情だが、笑わずに人の目を見て話すので、少し怖かった。 「俺は会いたい。でも、また間が空くな」 「仕事が忙しい?」 と聞くと、彼は頷いて、ため息をついた。 ビールに口をつけて、ちょっと考えてから、 「英司さんは、昔好きだった人に似てる」 と僕は言ってみることにした。 英司はゆっくりと首をかしげ、 「へえ。どのへんが?」 と聞いた。 「顔は似てないかな。何となく…どことなく似ている」 答えながら、ふと思いついて、 「手が似てる」 と言った。 「手?!女の子みたいなこと言うなあ」 英司は両手を広げ、何度かひっくり返して眺めた。形じゃなくて触り方、とは言わなかった。 「何年前の話なの?」 「四年か、五年か」 「そんなに前の話?」 英司は、驚いたように大声を出した。 「よくそんなに引きずるなあ」 僕は苦笑した。 「どうして別れたの?」 「付き合ってはいなかった」 キシのことを少し話した。会社の同期だけど年上で、最初に見た時から好きで、向こうから手を出してきたけど、うまくいかなかった。向こうは会社を辞めた。 話してしまうと、よくある面白くもない失恋だった。 「その、うまくいかなかった理由を聞いたんだよ」 と英司が言った。 「うーん、好きになりすぎたかな。向こうは最初から、付き合うとかじゃなかっただろうし」 「何で?」 「タイミング的に、そういうことになった時には、会社辞めるって決めてただろうから。あと、好きな人がいるって」 英司は、えっとのけぞって、 「その人…そいつ、名前はなんていうの」 と尋ねた。 「名前はキシ」 「キシは、俺には似てないんじゃない?手以外は」 「なんで」 「幸彦くんがいたら、俺なら他に好きな人とか、そんなんどうでもいいですよ」 英司は、僕を見て笑った。僕もにっこりした。 キシの死んだ義理の弟は、まるで会ったことがあるみたいに、時折思い出す人だった。 実際には僕が想像で思い描いているだけのその人は、高校生ぐらいの男の子で、流砂のようなものに光が反射して輝く空間に、いつも一人でぼんやり立っていた。 その場所は、キシが自分でも知らずに心の底に隠しているのだが、何故か僕はその流砂のようなきらきらした何かに手を伸ばして、それが絶え間なく静かに流れているのを感じることができた。すると、キシが、どうした、立ちずさんで、とその人に優しく呼びかける声が聞こえてくるのだ。 僕はキシにこのフレーズを何度か言われたけど、それ何なのと尋ねようとして尋ねたことはなかった(なんとなく意味はわかるが)。 キシの声を聞いているのは僕だけで、その人の耳には届かないのだろう。僕の胸に、キシの悲しさが、冷たい涙の匂いとともに流れ込んでくる。 僕には聞こえているから、とキシに言いたいのだが、それは彼を余計に悲しませるだろうから、口に出せない。僕の胸はしんしんと冷え、しかし光る粒の流れは止まらず、死んだ人はそこに立ち続ける。 キシの心にいちばん近いところにいるその人に、理不尽な嫉妬を感じないわけではなかったが、自分の心が作って見せるこの光景は、何故か僕をひきつけて、美しい旋律が不意に耳に流れ込んでくる時のような心地よさと悲しさを連れて、時折心をよぎった。 3 次に英司からメールが来た時、泊まらないなら、という条件で会うことにした。 三回以上会っても大丈夫と思えたのは、キシと別れて時間が経って、人と親密になる怖さが薄れたこともあるが、英司の妙な距離感のせいだった。 結婚しているとか、何か事情があるのか、そのうち聞いてみるつもりだった。 英司は、三回目はやはり昼間に来て、夜早い時間に帰っていった。 四回目は、夜に会って部屋に来て、帰れと言わなかったら泊まっていった。 その次に会った時、英司は僕の部屋に直接来て、泊まった。翌朝、カーテンが開けられる音と眩しさで僕が目を覚ますと、彼は、 「おはよう」 と言いながら、ベッドに上がってきた。腹ばいになって顔をこっちに向け、僕を穏やかな表情でしばらく見つめた後、 「あなた、病院行ってる?」 と聞いてきた。 「ん、どういうこと?」 「なんか、睡眠に問題があるから」 「ああ…それ」 僕はうんざりして、 「うるさかった?」 と聞いた。英司は、 「他でも、言われたことがある?」 と言いながら、体を起こして肘をつき、枕を抱えている僕の頭に手を置いた。触られると、やっぱりキシを思い出した。 「うん」 「前からだろ?」 「まあ」 「病院に、行った方がいいな」 と、英司はきっぱりした口調で言って起き上がり、ベッドにあぐらをかいた。 「病院で治るようなものかな」 と僕が言うと、ちょっと顔をしかめ、しばらく考えてから、 「睡眠障害か睡眠外来で検索して。近所のクリニックでいいから」 と言う。 「ああ…」 「あと、夜どんな状態かメールするから、持ってって、そのまま医者に見せて」 ちょっと面食らって、 「あの、詳しいの?」 と聞くと、 「…俺が詳しいか?」 と英司は短く刈り込んだ頭に手をやって、しばらく首を傾げた後 「俺は、医者なんだけど」 と言った。 「は?」 僕が声を上げると、英司は困った顔をした。 「お医者さんなの?」 「はい」 その後、僕が睡眠外来のクリニックを検索して予約を入れると、英司が医者に見せるためのメールを送ってきた。 メールによると、僕は夜中に何の前触れもなく絶叫し、怯えて大声でわめく。一分かそれより長く続いて、そのうちおさまる。目が覚めているように見えるが、話しかけても聞こえていない。 確かに、自分の叫ぶ声を聞いたことはなかった。その時に起こした、とキシにも他の人にも言われたけど、ほぼ憶えていない。 それとは別に、うなされて苦しそうにしたり、寝言を言ったりする、とも書かれていた、それは悪夢をみている時で、一緒に寝ている人に起こされたことは、キシに限らず、数え切れないほどあった。この時は記憶があるし、夢の内容も憶えている。人には話せない夢だ。 クリニックでは、薬が処方された。 一年くらい飲んでいるうちに、悪夢をみる回数は減った。夜驚(夜中に叫ぶこと)は、少なくとも英司がいる時には無くなったという。 一人で寝ている時のことは、わからないから。 4 英司は、僕と知り合った店から電車で二時間くらいかかる場所で、クリニックを開業していた。僕は、それ以上のことは聞かなかった。 キシの時と同じで、興味が持てないのと、聞いても仕方がないからだ。 ただ、そういう人なら、付き合う付き合わないみたいな話にならなくて楽だ、と思った。 彼に会うのは月に一度か、もっと間が空いたが、会い始めて一年近く経った頃、連休にかけて休みを取った、と英司に誘われて、彼と僕のいる場所の中間あたりで、ホテルに泊まったことがあった。 午後に待ち合わせて、そこから英司の車に乗った。ドライブしている時に、結婚のことを初めて質問した。 「結婚、してる」 と英司が答えた。 「別居してもう、すごい長いけどな」 「へえ。子供は?」 「子供はいない」 「ふうん」 しばらく沈黙が続いた後、信号で止まった時に、 「何で急に、その質問してきたの」 と英司が言った。僕は彼の横顔を見た。 「いや、前から聞こうと思ってて」 「俺が結婚してたら、気になる?」 「いや、そういうんじゃない」 正直、僕にはどうでもよかった。英司が、僕の無関心な態度に飽き足らない、ということもわかっていた。 「奥さんの親が、うちの親父の患者さんだった」 「お父さんも、お医者さんか」 「うん、親の病院継いだ」 信号が変わり、車が走り出してから、英司は僕の方をちらっと見た。 「俺は、きれいな顔の男の子が好きでさ、昔から」 「へー」 「好きになるのは男だったけど、女と付き合ってたな」 「結婚したんだしね」 「でも、全然だめだった。悪いことしたよ」 「…ふうん」 「…幸彦くんは、最初見てあまりにもタイプで、どうしようかと思って」 「どうしようかって?声掛けてきたじゃん」 「振られたら困るから緊張した、普通にどきどきした」 この程度の話も初めてしたのだが、僕はその頃、男を連れ込むのはやめて、英司とだけ会っていた。 彼は離れた町に住んで、恐らく一生そこを離れない。お互い仕事がある限り、頻繁には会えない。それがいろいろなことの言い訳になり、僕には心地良かった。 チェックインした部屋は十八階で、開かない窓の外に、知らない街の夕暮れが広がっていた。茜色に染まった空を背景に、遠くの山並みが影絵のようだった。 英司が背後に立ったので、少し振り向いて、 「きれいだね」 と言った。彼は後ろから、僕をそっと腕の中に抱え込んだ。 そのまま窓の外を見ていると、英司のゆっくりとした呼吸が背中に感じられた。 僕は胸に回されている腕を辿って彼の手に触れ、少し動揺しながら目を閉じた。 抱いてくれてるのがキシなら、どうだろう。幸せだろうか? でも、いつもと同じで、うまく想像できなかった。 僕はもう、そんな想像ができるほどキシを憶えていなかった。 閉じた瞼の裏に夕焼けの色が映り、ちりちりと震えた。目を開けると、空は天の方向から暗くなりかけている。 後ろめたかったが、それがキシに対してなのか、英司に対してなのか、よくわからない。 「幸彦くん」 英司が耳元で呼んだ。 「うん」 「ゆきひこ」 「ん」 「呼び捨てにしていい?」 「いーよ」 英司は、ふふっと笑い、 「キシは、何て呼んでた?」 と言った。 英司がキシの名前を口にしたのは、知り合ってすぐ、初めてキシの話をした時以来だった。 「名字で…」 と、僕は反射的に答えながら、答えを求められていたわけではないと気づいた。 昔、会社の階段で、後ろから来たキシが上野、と呼び止めた時のことが、何故か思い出された。 少し後で僕が泣いて濡らすことになる白いシャツの袖は、肘まで折ってあった。キシは僕を追って、階段を上がってきた。 英司が、腕に力を込めて、 「ずっと忘れないつもり?」 と耳元で呟いた。 僕は混乱し、しばらく呆然とした。それから、体に回された英司の腕をほどいて、彼の方に向き直った。 英司は僕を見て、笑顔を作った。部屋は暗く、窓の外の夕闇が、彼の目に映って見えるようだった。 「ごめん」 僕は英司に抱きつき、英司は、 「夜になってきたな」 と独り言のように言う。 そのまま目を閉じると、あの時の会議室で少し早かったキシの鼓動が、耳に届く気がする。 「ごめん」 ともう一度言い、あの時もキシに謝ったことを思い出した。 「謝るなよ」 英司の低い声が胸に押し当てた耳に伝わってくる。キシも低い声で、なんでお前が謝るの、と言ったっけ。 僕は、顔を上げて、 「しよう」 と言った。英司は、少し笑って、 「おお、何する?」 と言う。 「最初から」 「最初ってどれだよ」 僕は英司の手を引っ張っていって、ベッドに座り、正面に立った英司のベルトに手をかけた。 うまく外せないバックルを引っ張りながら窓の方に目をやると、まだ少しだけ残る夕闇に、部屋のどこかの照明が映り込んでいた。 英司は、自分のシャツのボタンを外しながら、僕を見下ろして、 「でも、君は考えてる、ずっと」 と言った。 見上げても、表情はよく見えなかった。 「なに?」 「前の男のこと」 「…いや、もうあんまり…」 言い終わらないうちに、英司が僕のうなじをつかんで唇を重ねた。 思い出せなくなってきた、と言おうとした途端、キシのいつも少し乾いた唇の感触を鮮明に思い出す。僕の口の中を探る柔らかな舌を。いつも欲しかったことを。 あの頃のキシは、もうどこにもいない。 あの頃の自分もいなくて、知らない街のベッドで、キシではない男と寝ようとしている僕がいるだけだった。 それでも僕は目を閉じて、夜になったばかりの窓の外から、夕暮れの時間を呼び戻そうとする。瞼の裏にあの夕闇を招き入れたら、心にしまい込んでキシに見せてあげたいと空しく願った。 英司は僕をベッドに引き上げて押し倒し、キスはそのまま長く続いていた。

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